⑥
鬼ヶ島。
初めて国家機密で隠されていると聞かされた時は笑いで一蹴したものだ。弁明ではないが、俺と同じように説明を受けて、鬼ヶ島が本当に実在する島だと信じる人間は限りなく0に近いだろう。こうして上陸して大地を踏みしめている今現在でも、夢ではないかと疑ってしまうぐらいだ。
メイメイから依頼を受けた時点で、俺は独自的に鬼ヶ島に関する情報を集めていた。最新版の世界地図を広げてメイメイから受け取った情報と照らし合わせた。御伽噺から古い文献、鬼にまつわる過去の情報を洗いざらいピックアップもした。とある伝手を使って地理学者に鬼ヶ島のことを訊ねたが、子供を諭すような優しい目で一蹴された。以上の調査の結果、鬼ヶ島の存在を裏付けるような情報は何一つ得られず、徒労に終わった。
だが、事実こうして俺は鬼ヶ島に辿り着いている。
一介の探偵如きでは影すら掴めない。鬼ヶ島が国家機密というのもあながち誇張ではないだろう。本当に国家機密というのであれば、メイメイはいかなる手段を用いて鬼ヶ島の情報を引き出したのだろうか? 日頃の行いを見る限りでは、メイメイ個人の力で手に入れた情報ではないと断言できる。ならば、メイメイの背後に構える組織が入手した情報だと考えるのが妥当であろう。国家機密までを入手するほどの情報力を持つ組織だ。心力者が跋扈する裏世界では名の通った組織なのかもしれない。ただそれもメイメイを見ると、人員不足の圧迫された組織にも思える。まあ、いまはメイメイの属する組織の推測は頭の片隅に閉まっておこう。
問題はこの鬼ヶ島が本当に国家機密で世間に伏せられているのであれば、だ。
鬼ヶ島逗留五日目。個人的に感じ取った島の特筆すべき点を上げるのであれば、人々が営む生活形態だ。俺の知る日本列島とは文化水準が大きく異なり、鬼ヶ島にはテレビ・冷蔵庫・洗濯機など三種の神器どころか電気・ガス・水道も通っていない。火をおこすには火打石を用いて、照明はろうそくであり、水は井戸から汲み上げるしかない。江戸時代の生活を再現しているといっても語弊はないだろう。京都村以上の再現ぶりだ。
古きよき町並みを残すために国家機密にしているとは考えにくい。ただ街並を残すだけならば国家機密にしなくとも重要文化財扱いにでもすればいい。となると、鬼ヶ島には国家機密にしてまで隔離したい「なにか」が潜んでいる可能性が濃厚であろう。
なにか、とは果たしてなにか。
鬼ヶ島に潜んでいるなにかとはなにか。
考えるまでもない。
鬼だ。
「なあ、ハコ」
天を貫くように真っ直ぐと伸びる竹から、前方を歩くハコに視線を移した。
うっそうと生い茂る竹やぶを歩いて、十分以上が経過した。山のふもとから神社までの道のりはお世辞でも歩きやすい道とは言えなかったが、この竹やぶと比べれば舗装されたアスファルトだと思えてくる。神社までの道のりも数多の樹木や植物に囲まれていたが、狭いながらも人が歩ける道幅は確保されており、足場も踏み固められ歩きやすくなっていた。それに比べてこの竹薮は人が通った痕跡など微塵もなく、通れるスペースも限定されている。鬼ヶ島に上陸してから街までの道のりも険しかったが、それ以上だ。なにせ人一人通れるかどうかの幅ですら怪しいぐらい竹は乱雑に屹立しているのだから。
「文句は厳禁ですよ。ゲンゴさん」
ハコは歩みを止めずに返答した。年齢どおりに小柄であるハコは竹と竹の間を縫うように進み、歩くのにさほど苦労していないように見える。
返答から察するにハコはこの道のりに対して、俺が愚痴ると予想したのだろう。そこに関して不平不満がないわけではない。葉っぱが顔に当たって痛いとか、慣れないわらじに足が悲鳴を上げているとか、獣の遠吠えが時折聞こえてくるとか、都会暮らしのシティーボーイには堪えるものがある。が、いま話そうとしていることは文句ではない。
「鬼ヶ島と『外の世界』の関係はどうなっているんだ?」
外の世界――いわゆる俺が住む日本列島と鬼ヶ島の関係性。俺を含めて日本人は国家機密により、鬼ヶ島の存在を認知していない。対して鬼ヶ島の住民は『外の世界』の存在を漠然ではあるが認知している。鬼ヶ島の住民が俺やメイメイのことを『外の人間』と称するぐらいだ。知らないわけがない。
「私のご先祖様が鬼ヶ島を治めるようになってからは、基本的に『外の世界』との交流は断絶する方針となっています」
「断絶というわりには俺とメイメイに対して好意的なんじゃないか?」
「あくまで『基本的』にですよ。島の悠久の安寧と平和を望んだご先祖様が少しでも来訪者を少なくするために定めたの決まりです。ねずみ一匹たりとも島に入れるな、なんてことはありません」
「個人単位の来訪は拒まないってことか」
「そうなります。もっとも、個人の来訪者ですら百年に一度と言われています」
国家機密で伏せられているのだから来訪者が少ないのは当然だ。
鬼ヶ島と外の世界に密接な関わりはないようだ。莫大な資金を生み出す貴重な資源でも鬼ヶ島で採れるのかとも推測したが、どうやら見当違いらしい。あくまで国は静観の姿勢を貫いている。ただ見守っているだけの状態だ。
本当に、なぜ、国家機密にされているのだろうか。
思考が巡りに巡っていると、うっそうとした竹やぶに光が差し込んできた。
「ここを抜けたら、到着です」
ハコの言葉に安堵を覚えた。険しい道もようやく終わりだ。
肩幅よりも狭い竹の間をくぐりぬけ、俺は安堵よりも驚愕を覚えた。
大地に巨大な穴が穿たれていた。陳腐な表現だが眼前に広がる光景は巨大な穴としかいいようがない。それこそ東京ドームが収まりそうなほどの穴が。
「ここが、鬼の爪痕と呼ばれている場所です」
ハコの声に我に返る。
「鬼の爪痕?」
「私のご先祖様と鬼が死闘を繰り広げた結果、穿たれた大穴ですね」
「まさか」
反射的に否定しながらも、その可能性を考える。
結果を言えば、不可能ではない。心力者であれば大地に東京ドームサイズの大穴を開通させられる。しかし、これだけの大穴を穿つほどの心力者は世界に何人いるのだろうか。
自分の探している存在の恐ろしさに戦慄を覚える。
驚いている俺の反応に、ハコはご満悦といった様子だ。
「鬼ヶ島の当主である私でも、正直半信半疑です。誠に人間がこの現象を引き起こしたのであれば、それはもう人ではありません。人の枠を大きく超えてしまった存在……まさに鬼と呼ぶに相応しいと思います」
「そんな存在を打ち倒したハコのご先祖様も大概じゃないか」
「そうでもありません。たしかに伝承の中での私のご先祖様は普通の人間と比べれば、圧倒的な力を有していたのは間違いありません。しかし、鬼と比べれば実力は遠く及ばなかったそうです。それでもご先祖様が鬼を打ち倒せてたのは、地の利を生かし、ありとあらゆる策を労し、幾重にも罠を張り巡らせ、不意打ちまがいな行いを厭わなかったからでしょう」
鬼と同様にハコのご先祖様も心力者だったのは確実だ。
大穴のぎりぎりまで歩みより、中を覗き込んだ。
底が、見えない。
どんなに目を凝らしても、穴の底は覗えず、どこまでも深遠の闇が広がっている。
心力者が引き起こした災害の歴史は闇に葬られると聞いた。俺はその語られない歴史の一端を垣間見ている。
心力者が作り出した大穴、という仮説は俺の荒唐無稽な推測であって、実態は超常現象が引き起こした災厄という可能性も否めない。国家機密で秘匿されていない一般地域に鬼の爪痕があったのならば俺は真っ先に超常現象を疑っただろう。
これ以上の探索は危ない、と脳裏によぎった。
過去にも危険な橋を渡ることはあった。命の危険を感じたのも一度や二度じゃない。
だが、ここまで人の枠を越えている存在と対峙するとなると命がいくつあっても足りない。
「っと、よいしょ」
ハコはひょうひょうと俺の隣を横切ると、底の見えない大穴に足を放り出し座り込んだ。一歩踏み違えれば穴の中にまっさかさまだというのに、ハコは微塵たりとも臆した様子はない。大した胆力の持ち主だ。
「ゲンゴさんも座りましょう。良い眺めですよ」
高所恐怖症というわけでもないが、一歩間違えれば確実に死を迎えることになる座席には座りたくないものだ。とは思いながらもハコに習って、俺は大穴に足を放り出した。
足元に展開された光景は壮観な眺めといえなくもない。だが、できればテレビ越しで見たい光景だ。震えるほどではないにしろ、恐ろしいことには変わりない。
「私は暇なとき、ここの景色を眺めています」
「良い趣味だな。俺なら景色を楽しむ余裕なんてない」
「ふふ。慣れるといいものですよ。穴の奥底をひたすら見詰めていると、ちょっとした悩みなんて吹き飛んじゃいます」
「たしかに悩みなんてどうでもよくなるな。気を緩めたら落っこちるんだからな」
「落ちれば悩みも全部忘れられますよ?」
「ブラックジョークがすぎるな」
「……ぶらっく、じょーく?」
「おっと、わるい。横文字は禁句だったな。倫理的に笑えない笑いって意味だ」
「ぶらっくじょーく……笑えない笑い、ですか。はい、覚えました」
「覚える必要はないけどな」
俺は近場に転がっていた拳サイズの石を取り、無造作に大穴に投げ入れた。石はすぐに闇に呑み込まれていった。反響音すらない。
「いまの石が自分だったと思うとぞっとするだろ?」
「そうですね。私もゲンゴさんに落とされないように、発言には注意を払わないとなりませんね」
「それは笑える冗談だな」
ハコはつつましやかな笑みを湛えた。
腹の探りあいの中にも他愛もない会話を織り交ぜての応酬。メイメイとは違った意味で楽しいやり取りだが、会話の真意は測りかねる。
「私は、楽しいですよ?」
俺の心を読んだようにハコは言う。
「ゲンゴさんもご存知の通り、私は鬼ヶ島の当主です」
「ああ」
「矢吹という代々の血筋だけで当主は決められ、島の象徴として祭り上げられます。当主は絶対的な存在であり、民を正しく導く存在……。そのように畏敬され、民との接触は限りなく禁じられています。同年代の友達どころか、普通に話せる人ですら私にはいません。あえていうなら、アリサさんは私と平等に接してくれていますが……それでも、踏み込んではならないところはきっちりと線引きをしています。私とまともに会話をしてくれる方は人生の中でもゲンゴさんとメイメイさんが初めてです。こうして鬼の爪痕まで案内したのも、ゲンゴさんが初めてなんですよ?」
そう語るハコの表情は笑顔のままだが、どこか哀愁を感じる。
「会話が楽しいと感じるのは、初めてかもしれません」
そう語るハコの心境は真実だろう。立場故の孤独。寂しさがハコにはある。
気の利いた台詞で景気づけようかと思ったが、島の内情を把握していない俺が下手なことは言えない。俺はハコと育ちも立場も年齢も性別も共通点はない。寂しいという気持ちは漠然と伝わったが、共感はできない。
それに、子どもを慰めるのには慣れていない。近隣の子供からは怖いお兄さんと忌避されているぐらいだ。
俺はさして考えずに、ごくごく単純にハコの頭に手を置いた。
「まあ話ぐらいならいくらでも聞いてやる」
我ながらぶっきらぼうな台詞だ。
「…………」
あまりにも変哲のない台詞に呆れてたのか、ハコは無言で顔を伏せてしまった。
おそらくハコはなにかしらの期待をして、心情を吐露をしたのだろう。生い立ちも立場も関係なしに接してくれる俺に期待を抱いて。
「…………ぐす」
隣から嗚咽する声がうっすらと聞こえてくる。
泣かせてしまった。そんなに俺の台詞がダメだったのだろうか。ハコが隣で泣いている状況をメイメイにでも見られた日には、きっと途方もない罵倒を棒読みで延々と言われ続けるのだろうな。だって、しかたねーじゃん。別段人見知りではないが、子どもの身でありながら島のトップに立つ人間の気持ちを理解できるはずがない…………ダメだ。思考する方向がおかしくなっている。子どもに泣かれるという慣れない状況下で、俺も余裕がなくなっているのかもしれない。
「……ゲンゴさん」
「なんだ?」
「……ありがとうございます。厳しい言葉を頂くのは慣れていても、優しい言葉を貰うのは不慣れなもので……ぐす……みっともないところをお見せしてすみません……ぐす。ふふ、嬉しくて泣くなんて、初めてかもしれません」
目を真っ赤にしながらも、表情は先ほどよりも晴れやかな笑顔であった。
月並みな台詞がハコの琴線に触れたことへの安堵よりも先に、違和感を覚えた。
俺は三日間でハコを子供だと侮ることはやめた。無邪気さの中に見え隠れする老獪さと、幾度となく修羅場をくぐり抜けたような泰然自若とした振る舞い。どの世界に置いてもハコは一目置かれる存在になる素質を秘めている非凡なる才能の持ち主。それがこの三日間でハコに抱いた印象だ。
なのに、瞳から零れ落ちそうなほど涙を湛えて鼻水を必死にすする姿は、俺の受けた印象とはほど遠い。
まるで、年相応の少女のようだ。
「とりあえず、ほれ」
俺は懐に入れておいた手拭をハコの顔に押し付けた。
「泣くのも愚痴るのも構わないが、顔がぐちゃぐちゃだぞ」
「…………こういうのも、いいですね」
ハコは涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を拭う。
「こういうのとは、どういうのだ」
「頭をなでられて、顔を拭かれて、慰められて……なんだか普通の子供になったみたいです」
「子供がなにを言ってんだ」
「……ふふ。本当に、そうですよね。私は子供です。押せば倒れる子供です。そんな子供を島のみんなは神様の如く祭り上げてるんですから、笑っちゃいますよね」
「笑えるな。その子供が期待に応えようと無理しているのも含めて、笑いが止まらない。はっはは」
「ふふ。挙句の果てには事情も知らない風来坊様に泣きついているのですから、威厳も貫禄ありませんね。当主として形無しです」
発言は自虐的だが、心なしか表情は晴れやかだ。
気丈に見えて、か弱い一面も兼ね備えつつ容姿も可愛らしい少女を相手だと、大抵の男性は庇護欲を、女性ならば母性本能を掻き立てられ、篭絡の一途を辿るだろう。幸か不幸か、生憎ながら俺はひねくれものだ。
ハコの笑顔を崩すように、顔全体をぐちゃぐちゃに拭った。
「……女性の顔を扱うには、少し乱暴ですよ」
「女性の顔の扱いには慣れていないもんでね」
非難するようなハコの視線から目を逸らし、俺は足元に視線を落とした。
そもそもハコの人生相談を聞くためにここまで来たのではない。わざわざ深緑が繁茂する獣道を渡ってまで鬼の爪痕まで足を運んだのは仕事――鬼を見つけるためだ。
ハコもハコで明確な思惑――かどうかは定かではないか、なにかしらの思惑があり俺を鬼の爪痕まで案内したのだろう。子供らしい一面があるとはいえ、曲がりなりにもハコは鬼ヶ島の当主だ。心情を吐露するのが目的ではないはずだ。もしかしたら心を曝け出したのも作戦の一つかもしれない。
そこまで思考が辿り、俺は自分の頭を思い切り殴りつけた。
体裁もなく泣き心情を吐露したのを作戦だと思うのは、さすがに邪推が過ぎる。
「……ゲンゴさん。頭は大丈夫でしょうか?」
いきなり自分を叩く凶行に及んだ俺の精神状態を心配する一言なのか、それとも叩いた頭の物理的損傷の心配する一言なのか……おそらくは両方の意味合いが含まれている。
「頭にちょっと虫がいてな……気にするな。それで、ハコ」
ハコは自分の手拭を懐から取り出し、泣き腫らした目を拭っていた。
「皆まで言わなくても、大丈夫ですよ。鬼の話ですね」
今しがた、慟哭して子供らしい一面を除かせいたが、ハコは普通の子供ではない。どちらかといえば無垢な笑顔と狡猾さをかね揃えているのが俺が知る矢吹ハコだ。
目元に湛えた涙を全て拭き取ると、「その」ハコが戻ってきた。
純粋な笑顔だが、その裏が読み取れない笑顔。
「私が、この場所を鬼の爪痕と呼んでいるのは、ただここが鬼によって穿たれたからではありません。ある特殊な現象が起きるからです」
「特殊な現象?」
「それは鬼の――」
そうハコが言った瞬間、大地が揺れ始めた。
少量の揺れが徐々に大きくなり、足元がおぼつかなくなった刹那――巨大な咆哮が鬼ヶ島全土に響き渡った。狼の遠吠えのような咆哮。だが、規模がまるで異なり、鼓膜が破れそうなほどのどでかい音。
耳を塞ぐ暇もなく、今度は足元から突風が吹き荒れた。突風と称するには生易しい。神風といっていいほどが鬼の爪痕から吐き出され、それをまともに受けた俺は後方に転がるように吹き飛ばされた。うまく受身を取り、すぐさまハコを確認する。するとハコは手馴れているかのように、受身をとっており呆然と鬼の爪痕を眺めていた。
「こんな偶然が……。ゲンゴさん。これが、鬼の咆哮です」
突風も揺れも収まらぬ最中、ハコがぽつりと呟いた。
「鬼の、咆哮」
言葉繰り返し、その言葉を反芻しようとしたが、それもままならない。
言葉の真意を汲み取る前に、いっそう強い風が鬼の爪痕から吐き出された。
最大の突風が全身を貫き、訪れたのは恐ろしいほどの静寂。木々の揺れる音。風の音。虫や動物の鳴き声。全てが無くなった。
「ゲンゴさん」
ハコの言葉をきっかけに、世界が動き始めた。穏やかな風が頬を叩き、木々が揺れ始め、セミの鳴き声が遠くから聞こえ始めた。
そこで初めて、俺も息が止まっていることに気付いた。
「いまのは、なんなんだ」
ハコの方へ向き直ろうとした瞬間――自分でも言いえぬ感情が内から沸き起こった。
哀しみ、憎しみ、怒り。世の中の全てが理不尽に感じ、なにもかもを壊したくなる衝動。なにか自分の身体が他人のものだと思えてくる。自分の視線はテレビ越しの映像だと錯覚が起きる。
意識が無くなりそうな直前、俺は思った。
よかった。
心力者で、本当に良かった。
「――ACCESS――command――《MindRelease》――OPEN――」
機械的に呟いた刹那――身体の内側で《心》が弾けた。俺を中心に先ほどの突風にも負けるとも劣らない風が巻き起こる。
「きゃっ」
俺に近付こうとしていたハコが突風に煽られ、尻餅をついた。そんなハコを紳士的に助けるほどの余裕は心に無い。
とりあえず自分が自分である感覚は戻ったようだ。
さきほど湧き出た負の感情はいまはない。
となれば予想通りだ。
精神汚染。
一部の心力者が使う精神に干渉する技だ。
その名の通り、心に干渉して、対象者の人格を揺さぶる小汚い技だ。不意を突かれた精神汚染に危うく飲み込まれかけたが、ぎりぎりで対応が間に合った。あのまま汚染されてたと思うとぞっとする。
「ゲンゴさん。大丈夫ですか?」
いつまでも呆けている俺を心配して、ハコは小走りで近付いてきた。
精神干渉を仕掛けてくる容疑者として真っ先に思い浮かんだのがハコだ。
「問題ない」
言い方がそっけなかったかもしれない。
おそらくだが、ハコは犯人ではない。
精神汚染を振り払うさいに使用した技――《マインドリリース》は心力者が心力者と呼ばれる由縁でもある心を一時的に爆発させて、現実世界に顕在化させる技だ。肉体は異常なまでに強化され、見えざるモノも視えてくる。たとえば、周辺の心の流れなども視えるモノの一つだ。
ハコの胸元に光る小さな輝き。それはハコが持つ《心》だ。
それは、あまりにも弱々しい心だった。
途方も無い才能があったとしても、ハコは心力者になれない。そう確信させるほどに弱々しい心。
心はこの世に生を受けた瞬間、決まるものだ。
ハコの心は異様に弱い。
いくらドライバーが天才的なセンスの持ち主だとしても軽自動車であるなら引き出せる速度の限界は決まっている。いや、軽自動車というたとえも生ぬるい。ハコの心は補助輪付きの自転車といったレベルだ。
自分が精神汚染を受けた衝撃よりも、ハコの心の矮小さに衝撃を受けたぐらいだ。
思考を戻そう。
ハコの心で精神汚染などという高度な心力技を繰り出すなど不可能だ。
ならば、誰が今の攻撃の根源か。
周囲を見渡し、答えはすぐに見つかった。
空気の流れに追随して心力の流れも非常におだやかになっているなかで、未だに流れが不穏な箇所があった。
「ゲンゴさん?」
ハコの声を無視して、俺は鬼の爪痕まで歩みよった。
心力を引き出していない状態であっても、きっと気付いただろう。
それぐらい鬼の爪痕の底は汚濁された心力の余波が渦巻いていた。
「鬼の咆哮、ね」
大穴から吹き荒れる尋常ではない突風。心力者でなければそう思うのが普通だろう。
だが、実際のところは異なる。鬼の爪痕から吐き出されるのは他人の精神に強く干渉するほどの心力だ。それもポジティブな方向ではなく、ネガティブな方向への干渉だ。鬱屈した精神の持ち主をひねくれさせ発酵でもさせたような負の感情のオンパレード。真っ向から心力を全身に浴びて重々理解した。
「ゲンゴさん! 聞いていますか?」
強く呼ばれ、ハコと向き直った。その表情は切迫しているようにも見える。
ハコは不可解な現象が発生することを理解して、俺をここに導いた。
精神干渉を引き起こす効果がある事実をハコは理解しているのだろうか。
わからない。
わかるのはあのまま抵抗せずに負の感情に身を委ねていたとき起こりうる未来だけだ。野生の獣の如く暴れ狂っている姿は容易に想像できる。そうなればハコの身にも危害が及んでいたに違いない。
「あ、あの……本当に大丈夫ですか? 事前に説明しなかったことは謝ります。本当に、ごめんなさい。ゲンゴさんを驚かせたくて……あの、気分を害されたなら、えっと…………」
いや、わかることはもう一つある。
ハコが本気で、俺を気に掛けていることだ。
「心配するな。気分はすこぶる良い」
ぽん、とハコの頭に手を置き、そのまま引っ掻き回した。突風で乱れた髪が更に乱れ、ハコは恨めしげに見上げてきた。
「やっぱり、少し怒っていますね?」
「俺が本当に怒っていたら、その穴に放り投げているとこだ」
大げさに唇の端を吊り上げて言うと、ハコはようやく俺が怒っていないことを悟ったのか小さな笑みを浮かべた。
「それよりハコ。今の摩訶不思議な現象はなんだ?」
「最初に断りを入れておきますと、詳しいことは私にもわかりません。ただ代々一族に伝わる伝承に鬼の爪痕から一定周期で吐き出される突風――鬼の咆哮と呼ばれています。遥か昔に朽ちた鬼の怨念が穴の奥底で怨嗟の声を叫んでいるとも言われ、どのような現象なのかは……もうお分かりですよね?」
「ああ。身をもって体験したからな」
物理的に考えただけでも尋常ではないレベルの突風が巻き起こり、それに付随して精神干渉を仕掛けてくる。このような超常現象は数ある心力者の伝説の中でも聞いたことがない。
それにしても――
「ハコ。大丈夫なのか?」
「え、はい。私は頻繁にここに来ますので、吹き飛ばされた経験は一度や二度ではありません。この通り受身も完璧にこなせます。怪我一つありません」
くるりとその場で一回転をして、無傷なことをアピールするハコだが、生憎俺が心配しているのは肉体ではなく心のほうだ。一瞬で理性が吹き飛ばされそうな強烈な精神への干渉を同様にハコも受けたはずだ。にも拘らず、ハコには異変は見られない。
俺は残り少ない心力を搾り出し、目を細めてハコの心を凝視をする。
弱々しい燐光を放つハコの心。目を凝らして視ると、淡く光る心の奥は虫に食べられた葉っぱのように穴だらけだ。
なるほどな、と一人納得をする。
たとえるなら心とは器だ。その器には常に清水が流し込まれ、器一杯に清水が満たされるようになっている。心力者とは器に貯まった清水を汲み上げられ、喉を潤せる人間を指す。ハコが心力者でないと断定したのは心たる器に汲み上げられるほどの清水が貯まっていないからだ。
それだけ弱々しい心がなぜ強烈な精神干渉を受け流すことができたのか。
精神干渉とは心となる器に不純物を混ぜ込むこと――言ってしまえば清水に汚泥を投じるものだ。汚泥の混入を拒むにはあらかじめ器を蓋で閉じておくか、やむを得なく混入してしまった場合は器の中身を全て捨てもう一度清水を貯めるか。今回の俺は汚泥が混入した状態だったので後者の選択肢を取り、貯め込んでいた清水を全て放出した。
ハコは器を蓋で塞いでいなければ、俺のように器の中身を捨てたわけではない。
ハコが精神干渉の影響を無視できたのは至極単純な理由。
心たる器が「穴ぼこ」だらけだからだ。
日頃貯まっていくはずの清水すら漏出させている状態だ。小さな器に汚泥を混入させたところで、瞬く間に清水と一緒に洩れ出てしまう。
「怪我がないようでなによりだ」
心の考察はおくびにもださず、俺は続けた。
「話の腰を折ってわるかったな。それで、鬼の咆哮、だっけ。今のは多発する現象なのか?」
「いえ、そうそう起きる現象ではないはずなのですが……。頻度は一ヶ月に一回あるかどうかというところでしょうか?」
「俺が鬼の咆哮を間近で体験できたのは、まさに偶然というやつか」
「そうなりますね。鬼のめぐり合わせといったところでしょうか? ふふ」
自分で言った台詞がおかしかったのか、ハコは小さな笑いを漏らした。
「ゲンゴさんは、この現象はなんだと思いますか?」
「質問を質問で返すようだが、ハコこそどう思っているんだ? 単なる自然現象だとくくるには規模も頻度が大きすぎる」
「私、ですか」
ハコの表情は笑顔から苦笑いへと推移した。
「私は、きっと鬼の爪痕の最深部に「鬼」がいるのだと思います。ここから出せ、という叫びが音となり突風を巻き起こし大地を揺るがしている。ふふ……ゲンゴさんのおっしゃりたいことはわかります。今まで鬼の存在を散々否定してきた私が、鬼の存在を肯定しているという矛盾……。あくまでいまお話をしましたのは、私個人の想像による荒唐無稽の妄想です。矢吹家に伝わる伝承の中でもそんなことは一文も書いてありません」
「いや、俺もハコの妄想と同じ妄想をしている」
鬼の爪痕と呼べる大穴。その最深部に鬼がいる。
いるのは「鬼」でないかもしれない。
いるのではなく「ある」のかもしれない。
断言できるのは自然現象ではないこと。そもそも巨大穴が穿たれた経緯が自然現象ではない。鬼の爪痕は世の理を無視した者が開通させた大穴なのだ。
大穴からノイズとともに突風が吐き出され地震が発生するだけならば、まだ自然現象だと納得できたかもしれない。しかし、それらに付随して強力な「精神干渉」だ。
「さて、ゲンゴさん。私もお話することはまだまだあるのですが、手遅れになる前に一旦戻りましょう」
「手遅れ?」
ハコは笑顔のまま、鬼の爪痕を挟み反対側の竹やぶに人差し指を向けた。
促されるまま視線を移動させた瞬間、轟音とともに竹が薙ぎ倒された。
倒れた竹の奥から悠然と現われたのは、全身を焦げ茶色の毛皮でコーディネートしている巨体の持ち主は森の暴れん坊こと――クマさんだ。
俺は熊の生態に関しては門外漢なので大した知識もなければ、遭遇したときの対処方法もわからない。
客観的に見て、熊の視線は確実に俺を射抜いており、明確な敵意を向けられている。
間違いなく、狙われている。
「鬼の咆哮のあとは、森の動物が荒れるんですよ」
夕飯の献立でも語るように、ハコは言う。
動物が、荒れる。それはそうだ。心は人間だけではなく、生命全てに宿るものだ。鬼の咆哮によって分散した精神干渉は人間だけではなく近隣を根城としている動物にも及ぶのは当然の結果だ。
そして、狂った動物が身近な生物を狙うのも至極当然の結果だ。
狂気に満ちたクマに気圧され後ずさると、がさり、と音が響いた。
左の竹やぶからは犬が一匹。
右の竹やぶからは狼が一匹。
「狼?」
言葉にして、もう一度見やる。やはり狼だ。
日本に狼が存在することに感慨を覚えるほどの余裕はあるらしい。
視認できる範囲には熊、犬、狼、どれもが一匹ずつのみだが、竹やぶの奥から放たれている重圧感は錯覚ではないだろう。見えないところに群れが潜んでいるに違いない。
心力者として力を行使すれば熊の一匹や二匹どうとでもなるが、今回は一匹二匹のレベルではない。それに前提とした心力者としての力も先ほどの精神汚染のときに九割方放出してしまっている。
となると、選択肢はひとつ。
思考がまとまったと同時に、ハコに手を引っ張られた。
「ほら、ゲンゴさん。ぼーっとしてないで、逃げますよ」
「ああ」
走り出すと、獣たちが一斉に雄叫びを上げた。
自然の障害物全てを薙ぎ倒したいところだが、現実的に不可能だ。
ハコに手を引かれるまま、乱雑に並ぶ竹をくぐり抜けていく。そのペースはとても速い。おそらくはハコは不規則に屹立した竹の隙間を一瞬で取捨選択をしている。それでも追っ手は後ろを振り向けば、すぐそこだ。
いわゆる、絶体絶命である。
にも拘らず、息を切らしながら走るハコはどことなく楽しいそうだ。
「ハコ。楽しんでないか?」
なので、思わず聞いてしまった。
「はい! すっごく、楽しいです! 誰かと、こうやって、逃げるって、いいですね!」
まったく共感を覚えられないが、ハコの気持ちを察することはできる。
ひとりではない。それがハコにとってはなによりも得がたい幸せなのだろう。
和んだ雰囲気も束の間。獣の雄叫びで我に返る。
「バカ言ってないで、さっさと逃げるぞ」
もしかしたら獣たちは楽しそうに語る俺とハコを見て、イラついていたのかもしれない。
そんな馬鹿なことを思いながら、先導するハコを抱き上げた。お姫様だっこの要領だ。
「ちょ、ちょっと。ゲンゴさん」
「こうしたほうが、速いだろ? それに――」
ハコを抱き上げた瞬間、一段と大きな雄叫びが響き渡る。
和んでんじゃねーぞ。と吠えているのかもしれない。
くだらない妄想を交えながらも、両脚は全力で稼働を続ける。
「――それに、こういうのがいいんだろ?」
俺の会心の冗談をハコは出会ってから一番の、満面の笑みで返してくれた。