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鬼に纏わる伝承の中でも最も俗世に氾濫している物語は「桃太郎」だろう。おじいさんとおばあさんが川から流れてきた巨大な桃を一抹の疑問さえ持たずに持ち帰り、さあ、食べようと桃をかち割ってみれば、まあ大変。桃から一人の赤ん坊が出てきました。
『一説によると、巨大桃を食べたおじいさんとおばあさんが精力旺盛な時期まで若返っちゃって、その夜ハッスルした結果、できちゃった子供が桃太郎とも言われていますよ。いやん、言語のだんなのえっちー』
逞しく育った桃太郎は己の名前を背に綴った特製の陣羽織と太刀を掲げ、意気揚々と鬼退治へと向かう。道中に犬、猿、雉を黍団子という魔性の道具を用いて従順させて、様々な紆余曲折を経て、桃太郎は鬼の討伐に成功する。そして、鬼が隠し持っていた金銀財宝を強奪し、おじいさんとおばあさんと末永く暮らしたとさ。めでたし、めでたし。
『桃太郎さんは鬼を倒した何年後には自分の倒した鬼の子供に倒されちゃうらしいですよ』
桃太郎の話になってしまっているところで閑話休題。
今回、神田芽衣ことメイメイが俺のところに持ち込んできた依頼は、《鬼の捜索》だ。誇張表現でも御伽噺でも何でもない。正真正銘の本物の鬼をメイメイは探せと言っている。
俺はといえば依頼を受理したものの、半信半疑と言ったところか。もしも俺が一般人であれば鼻で笑って一蹴していたが、特殊な立場ゆえに、鬼がいないとは断言できない。
それにメイメイはある程度のところまで――というより、ほぼ確実に鬼の所在地の情報を掴んでいた。場所は太平洋側、東京から南西方向200キロメートル離れている鬼ヶ島。
最初はこの時点で嘘だと思った。何故なら日本の地図上に実際に鬼ヶ島と表記されている島などない。その場で地図を広げて確認しても鬼ヶ島どころか島一つ表記されていない。
『当たり前です。国家機密で秘匿されている島ですから』
胡散臭さが増す一言であった。
だが、同時に好奇心も沸いてきた。
依頼受理の決め手はメイメイの提示して来た料金だ。
『経費はこっちが全部負担。成功報酬は言い値でいいよ』
サインだけが書かれた小切手を渡された時は、驚きを通り越して硬直してしまった。
好奇心と報酬に釣られて依頼を快諾し、今現在に至る。
神奈川県の最南端、江ノ島。本日は天気も良好であり季節もさながら、若者たちが海水浴に興じている。まだまだおじさんと名乗るには早いが、俺もいい歳なので若い子の水着姿というのは良い刺激になる。眼福眼福。
「言語のだんな。あまり若いオナゴばかり見ていると訴えられますよ。もぐもぐ」
隣から発せられたどこか間の抜けた声に、俺は視線を横に向けた。
純白の生地にスカイブルーのストライプ模様のパレオに身を包んだ少女――メイメイが砂浜の上で体育座りをしていた。トレードマーク?のハンチングキャップを外しているが、前髪が目元まで垂れており表情は窺えない。
そしてメイメイの両手には大量のイカ焼きが握られている。
「あ、言語のだんなも食べますか? イカ焼きうまー?」
「いらん」
「そうですか。もぐもぐ……あ、わたしならいくら見てもいいですよ? 言語のだんななら特別に無料です」
「初対面のときに大して見てもないのに『えっち』と言ってきたのはどこのどいつだ」
「え? 違うんですか?」
「間違ってはいないが……その認識は改めていないんだな」
「もぐもぐ……ちなみにわたしはむっつりです。言語のだんなの水着のセンスは微妙ですね。まるで乙女心がくすぐられません」
厳しいお言葉を頂戴し、俺は自分の姿を確認した。膝元まで覆う藍色のトランクス型の水着に遮光サングラスを掛けた長身痩躯の男。日本海水浴に至る普遍的男児の格好ではなかろうか。
「俺の水着、そんなにおかしいか?」
「おかしくはありません。意外性もありません。わたしとしては競泳用の全身タイツみたいな水着が好きです……もぐもぐ……ごちそうさまです」
最後のイカ焼きを食べ終えたメイメイは、跳ねるように立ち上がった。大量のイカ焼きを胃に収めた健啖家というのに、メイメイ自身は小柄で細身である。パレオタイプの水着なので腹部から大腿部まで肌を覗かせているが、無駄な贅肉はついていない。ついでに胸にも一切栄養が行き渡っていないようだ。
「むっ……いやらしい視線。いまわたしの胸元見てた?」
「ああ。胸部の装甲は控えめだな」
「…………はっ。人が地味に気にしているコンプレックスを容赦なくえぐってくるとは、言語のだんは女泣かせですね。そんな普通の男の子が言えないことを平然と言っちゃう言語のだんなにしびれたりあこがれたりするかも…………むー、置いてかないでー」
後半の台詞を聞き終える前に、俺は歩き始めていた。メイメイの台詞を借りると、他愛もない冗句はここまでにして、だ。決して俺はメイメイと江ノ島で一夏の思い出を作りにきたのではない。あくまで目的は鬼を見付けることだ。
夏の日差しに照らされた砂浜を踏み鳴らし歩み続けていると、海水浴場の喧騒が徐々に遠ざかって行くのがわかる。やがて足元は砂浜から岩場に変わり、人の気配も無くなり始めた。立ち入り禁止のラインテープを超え、一歩足を踏み外せば海へ真っ逆さまという岩場を危なげに渡り歩き続けること五分、《そこ》に辿り着いた。
「うわぁ。わたし乗るの初めてなんです。どきどき」
岩場に囲まれた海上の死角に浮かぶジェットスキーを見て、メイメイは言った。
本来ジェットスキーもとい水上バイクは法律上、陸岸から二海里以上離れた走行は認められていないが、今回はこれで五十海里以上離れているあるかどうかも定かではない未曾有の島を探すのだ。人目を避けて行くのは当然であろう。
国レベルで秘匿された島に船便があるはずもなく、かといって船で移動すると必ず誰かしらの目に止まってしまう。そこで考えたのが、ジェットスキー。危険を顧みなければもっとも海上を隠密移動が可能な乗り物だろう。だが、いかんせん、小型故に重量に制限がある。ただでさえメイメイを乗せて二人乗りなのだから、余計な荷物など一切合財、積み込みNGだ。
「メイメイ。出発前に一つだけ確認したい」
「むむ。島の位置なら問題なっしんぐです。センパイお手製のレーダーがありますので」
「それも不安要素の一つだが、その前にだ」
「なんでしょう。わたしは同年代の女子と比べて頭がかわいそうな感じなので、皆目検討もつきません」
その答えがわざとらしい。
「じゃあ、言ってやろう。その竹箒は本当に必要なのか?」
メイメイの左手には最低限の着替えの入った防水仕様の袋がぶら下がっている。
そして右手にはメイメイの身の丈ほどある竹箒が握られていた。思い返せば事務所に到来してきた日から今日までの間、メイメイは常に竹箒を携行している。どのような拘りを持っているのか、それこそ皆目検討が付かない。
「必要です?」
「疑問系で答えるぐらいなら置いていけ。走行の邪魔になる」
「必要です! たぶん!」
「力強く疑問系で答えるぐらいなら置いていけ」
「I might need this bamboo broom?」
「日本語で言わないなら置いていけ」
「コノ タケボウキ、ヒツヨウ ニ ナルカモ?」
「片言でも置いていけ」
「ごめんなさい。必要です」
最初からそう言えば良い。
「…………海に落としても知らないぞ」
「わーい。言語のだんな。だいすきー」
棒読みの謝辞を黙殺して、俺はジェットスキーに乗り込んだ。
続いてメイメイも後部座先に乗り込み、身体全体を預けてきた。
キーを回し、エンジンを入れる。各計器に異常が無いことを確認。オールグリーン。天気も良好。計算上であれば二時間で到着する予定だが、それは机上の空論だ。彼方まで水平線が続く茫漠とした海の上では、どのようなトラブルに見舞われるものか。少し考えただけでも十以上は思い浮かぶ。
「だいじょぶですよ。言語のだんな」
俺の心中を察したのか、メイメイが口を開いた。
「物理法則を無視すれば大体のトラブルは回避できるので、言語のだんなはわたしのナビどおりに舵を取って貰えればだいじょぶです」
「…………」
「無言? わたしの支える女っぷりに惚れましたね?」
「言ってろ、バカ」
メイメイの返事を待たずに、俺はアクセルを全開に回した。
なるようになれ、だ。
面積を表す単位としてテレビなどでは頻繁に東京ドーム○個分と例えられているが、それは却って難解になっているのではなかろうか。例えば、今回の目的地である鬼ヶ島はメイメイ曰く東京ドーム百個分らしいが、東京ドームに訪れた経験の無い俺にとっては、どの程度の規模なのか想像に難い。個人的にはカトリック教会総本山のある国、バチカン市国で例えてくれた方が、まだわかりやすい。バチカン市国は人口約七百人に対して面積は東京ドーム十個分を有している。そして、鬼ヶ島はバチカン市国十個分の面積。つまり国十個分だ。
国十個分……か。
草木が生い茂る深緑の離島――鬼ヶ島が全容を目の前にやや圧倒されてしまった。大きさもさることながら、島全体を囲む垂直に切り立った壁は、まるで侵入者を拒む要塞のようだ。
ほぼ予定通りに島に辿り着いたのは幸甚だが、上陸するにも労力が必要そうだ。
比較的小さめの岩場にジェットスキーをロープでくくり付け、エンジンを止める。
陸地に上がるには三メートルほどある岸壁をどうにかして登らなければならない。
「メイメイ。わりと高いけど、行けるか?」
メイメイは猫のように塩水に塗れた髪の毛をぷるぷると振り払う。
「わたしのことなら心配なっしんぐ。それより言語のだんなこそだいじょぶ?」
「こう見えても、普通の人間じゃないんでね」
言い放ち、俺は脚に力を込め、陸地目掛けて飛び上がった。無事に三メートル上の陸地には届いたが、わりとすれすれであった。大口を叩いた割には、ささやかな跳躍だと心の中で省察する。
続いて飛んできたメイメイは余裕のある跳躍で俺の隣に音も無く降り立った。
「とーちゃく」
「さて、今後の方針はどうする?」
「おきがえー」
「それもそうだな」
俺とメイメイ、互いに水着姿だ。これから未踏の樹海を探索するのに露出の多い格好では確実に怪我を負うだろう。
「一緒に着替えます?」
「着替えるって言ったらどうなるんだ?」
「海に突き落とします」
「だよなー」
メイメイのペースに徐々に慣れてきている順応力の高さには自画自賛ものだ。
「言語のだんな。覗いちゃダメダメくんですよ」
メイメイは全身が隠れる手頃な岩場の裏に回り込み、そう言った。
誰が覗くか。と小さく呟き、俺はメイメイが着替えている反対側の茂みに入った。その場で着替えても構わなかったのだが、メイメイが突如岩陰から身を乗り出してくる可能性も否めない。見られても構わないが、メイメイのことなので執拗に「変態」呼ばわりしてくるだろう。それを回避する為にも安全かつ遮蔽物のある茂みで着替えを決行する。
海水にまみれの身体をタオルで入念にふき取り、トランクスタイプの水着を下ろした刹那――
「動くな」
――静止の命令を促された。声の方向は背後からだ。
メイメイのいたずらかとも考えたが、声音が違う。間延びした舌足らずなメイメイの声とは百八十度異なる、音そのものに刃が仕込まれているような鋭利な声。
咄嗟に海に飛び込もうとも考えたが、相手の放つ殺気が判断を鈍らせた。
「そのまま両手を挙げて、ゆっくりこちらを向け」
命じられるまま諸手を挙げて、声の主に向き直る。
声音から察してはいたが、女性だ。
約五メートルの離れた位置で弓矢を限界まで引き絞っていた。
もちろん、矢先の標準は俺だ。
女性は袴のような民族衣装に身を包んでいる。頭頂部で結わえた亜麻色のポニーテールが潮風に靡き、服装も相俟って神秘的な雰囲気を醸し出していた。切れ長の瞳の色は亜麻色。
忌憚の無い感想を述べれば、眼前の女性は極上の美人だ。
そんなことを口にすれば矢が飛来してくるに違いないので、大人しく黙っていよう。
「…………」
女性の次なる返答を待っているのだが、一向に口を開く気配はない。
「……………………」
まるで時間が止まったかの如く、女性は眉一つ動かさず視線だけが射抜いている。
「俺はいつまで両手を挙げてればいいんだ?」
「……………………こ……」
こ?
「……このっ! 変態! 下ぐらい隠せ!」
言われて、俺は視線を下に移す。そういえば着替え途中だった。見事なまでに全裸だ。厳密に言えば水着の脱いでいる最中なので足元に水着が絡み付いている。うん、全裸ではない。
女性はゆでダコも真っ青になるぐらい顔を真っ赤に染めた。
「人の着替え途中で両手を挙げろと脅しておいて、いまさら何を恥ずかしがっているんだ」
「うるさい! 変態! 今すぐ隠さないと打つぞ!」
「じゃあ、両手を下ろしていいか?」
「下ろせ。そしていますぐ隠せ!」
「わかったから、間違っても打つなよ」
ゆっくりと両腕を下ろし、足元に引っかかっている水着に手を伸ばす。
このまま女性の命令に従うフリをして情報を引き出すのが最善の選択肢なのかも知れないが、ここはあえての反撃だ。主導権はこちらが握る。
俺は水着に手を掛け――全力で女性に投げ付けた。
不意の反撃に驚いたのか女性は身じろぎせずに、顔面に水着が直撃した。せいぜい数秒の間隙ができれば御の字だったのが、これは思わぬ好機だ。
同時に俺は一足飛びで女性との距離を縮めた瞬間――
「ああああああああああああああああああああああああああ!」
島全体を震わす絶叫を上げ、女性は仰向けに倒れた。
「なんだ?」
倒れた女性を覗き込むと、ぴくぴくと痙攣していた。顔面に覆い被さった水着を取ると白目を剥き、口からは泡を吹いている。せっかくの美人も台無しである。
推測するに、この女性は極度の男性恐怖症か男性嫌い、もしくは両方か。
眉間を手を添え、要因を熟考していると、背後からおぞましい気配を感じた。咄嗟に身体を右方向に投げ出し、振り返り様に気配を放つ相手を探し出す。
「…………」
「上陸一時間も経たないうちに原住民のオナゴに手を出すとは、言語のだんなは救いのないど変態ですね。さすがのわたしもドン引きです。半径五メートル以内に近づかないでください。変態が移りますので」
既に着替えを終えたメイメイがそこにいた。
気絶した女性の傍らに立つ全裸の男。
傍目から見れば、どう見えるだろうか。
考えるまでもない。
何から説明するべきか。
ただ一つ確実に言えることは、現時点で俺のすべき行動は弁明でも言い訳でもない。
とりあえず、服を着よう。全てはそれからだ。