序章
フリーランス。フリーのランス。自由な槍、という意味ではない。
簡単に説明すれば組織に所属していない者の事を示している言葉だ。フリーアナウンサー。フリージャーナリスト。フリーライターなどが一般的には有名所だろうか。基本的にフリーランスは組織や団体の法人、または個人からその都度契約を交わし、仕事・報酬を得ている。
フリーを名乗るからには相応の実力を秘めていなければならない。実力を持たない者がフリーランスとなっても仕事は舞い込まず、瞬く間に生活が破綻してしまう。フリーランスで生活水準を満たす稼ぎを得るには、一定以上の信頼度と知名度が必須だ。その二つの条件をクリアする為に、無名所である最初は組織に所属し、信頼度・知名度をコツコツと築いて行く。そうして業界に名を馳せて行くのが成功の定石だろう。
つまり、どんなに優れた実力を備えた者でも、知名度と信頼度が無ければ仕事は延々と来ない。
そう、俺のように。
「まあ、儲けるのが目的じゃないからいいんだけど――ごほごほ、うぇ……」
清掃作業中に口を開くものじゃないな。モノローグは心の中だけに留めよう。
コンクリートジャングルと呼ばれる東京の都心。だが、どこもかしこも高層ビルというのは間違いだ。少し都心を離れれば住宅街もあるし、もっと離れれば秘境と呼ばれる地もある。そんな秘境と住宅街の中程にある2LDKの平屋が我が《探偵》事務所である。
探偵と言っても、漫画のように殺人事件の犯人の推理を行うなんて事はない。俺が主として行っている探偵業務は身辺調査だ。行方不明の友人を探して欲しい、夫の浮気現場を押さえて欲しい、はたまた落し物を探して欲しい、ペットを探して欲しい、などの依頼も捌いてきた。
そんな探偵家業も不況の所為なのか、それとも俺がフリーだからか、一ヶ月ほど客足が途絶えている。大々的に宣伝している業者と違って、ひっそりやっているのだから当然と言えば当然なのだが、一ヶ月も音沙汰無しとなると流石に不安に駆られる。
不安を紛らわす為に、そしてせめてもの足掻きに事務所周りは綺麗にしようと、掃除の真っ只中である。
と、意気込んで掃除を始めたのだが、本棚にはたきを掛けている途中で集中力が途切れた。そのタイミングで幼き頃に愛読していた漫画本が発掘されれば清掃活動の手が止まるのは運命という名の必定だろう。
ロッキングチェアに腰を下ろし、今まさに漫画を読もうとした瞬間、ばーん、と入り口である勝手口が開け放たれた。
「たのもー」
開け放しの扉の向こうから間の抜けた少女の声が耳に届いた。
俺は視線を漫画の表紙から少女へと向けた。
紺色のYシャツにチェック柄のスカート。腰にはポーチを巻き付けている。呼称は寡聞にして存じないが足を全て包み隠すほどの黒いソックス。首筋が覗えるほどのショートヘアにハンチングキャップを目深に被り、右手には身の丈ほどある竹箒を携えていた。何故に竹箒など携行しているのだろうか。地区がクリーン強化期間だろうか?
頭から爪先まで、爪先から頭までとまじまじと観察していたところで、少女はわざとらしく胸元を押さえ、
「あなたえっちですね」
と痛快な台詞を言った。
「確かに俺は日本男児の中でも屈指のエロチシズムを持っていると自負しているが、たった今お前に向けていた視線には0.01%たりとも下心はない」
想定外の風貌と斜め上の挨拶に思わず、反射的に素で言い返してしまった。ちょっと反省。
「うら若き乙女の肉体を舐め回すように視姦していたくせに……盗み見猛々しいとはあなたの事ですね。このエロやろー」
反省終了。結果的に言い返して良かったと思う。
「人をエロ呼ばわりしに来たのか、客として来たのかどっちなんだ?」
「もちろんお客様として遠路はるばるやってきました。はい」
仕事を始めて四年間。まともな人格を備えた客など皆無であったが、眼前の少女は四年間の中でも屈指の人格破綻者であろう。
少女のペースに乗せられないようあしらいつつ、半ば無理やり彼女を椅子に座らせ、仕事の話を切り出した。
「えー、じゃあ改めまして、ようこそ、《沖田探偵事務所》へ。私が――って聞けよ」
眼前の椅子に腰掛ける少女は茶菓子として準備しておいた煎餅菓子を無我夢中で貪り食べている。決して食べるなとは言わないが、時と場合と空気を察してほしい。
「わたしはおうちで出されたものは例え毒でも食べなさいと教わりました」
「お前、本気で何しにきたんだ」
暇な俺をからかいに来たのか、と内心呟く。
「お前じゃない。神田芽衣。メイメイって呼んでいいよ。その代わりに、わたしはあなたのことをダンナと呼びます。それが等価交換という資本主義日本です」
仕切り直して仕事モードに切り替えようとした試みもむなしく、少女――神田芽衣のペースに乗せられっぱなしだ。神田相手では却って話が進まない。
「それで、神田さんは――」
「メイメイって呼んで」
今までの流れからしてその呼称を拒否したら、また話が停滞してしまう事だろう。
「……メイメイは、俺に仕事の依頼をしに来たんだよな?」
「はい。ここは落し物の捜索から鬼退治まで幅広く活動していると聞きましてー」
と、メイメイはポーチから一枚の写真を取り出した。
恐らく学校指定の制服だと思われるブレザーに身を包んだ一人の学生が写り込んでいた。純朴そうな精悍な顔立ちでありながら、どこか幼さを残している男子学生。きっとこの男子学生は、さぞ女の子に言い寄られるに違いない。
それにしてもこの男子学生を一体どうしろというのか。何かを調べろと言うのだろうか。経験上からすると依頼者の女性から男性の写真を見せられた時は大抵浮気の調査・身辺調査と言った内容だが、今回の依頼人――メイメイはまだ若人であり、写真の男性も相当の若人だ。ドロドロとした男女関係の捜査じゃないとすれば……もしかすると、《あっち》の関係の仕事だろうか?
「あ、間違えました。これはわたしの片想いの人です。えへへ」
そろそろ本気でお帰り頂こうかな。
「えーっと…これじゃないし、これでもない。うん、写真はないです」
「ないんだ。へー、じゃあしょうがない。はなしはまたこんどにしよう。そうしよう。ほら、ひもくれてきたしはやくかえったほうがいいよ」
「いや……今夜は帰りたくないの、わたし」
「うるせえ、さっさと帰れ」
「人がせっかく一度は言われてみたいランキング上位に食い込みそうな台詞を、迫真の演技で繰り広げたのに、その反応はあまりに存外です。わたし、ちょっと傷ついた。しくしく」
「…………」
「そんな冷たい視線で見ないで下さい。わたし、勘違いしちゃいますよ」
「…………」
「……その視線、胸がドキドキしてきます。これは、恋……?」
「……病気だ。それは」
「病気……? 恋の……病……?」
こちらが反応を示せば話ははぐらかされるし、無視をすれば勝手に暴走する。
どうしろと言うのだろう。
「と、他愛のない冗句はここまでにしましょう」
こちらの疲労感が伝わったのか、メイメイが本題を切り出した。
「まず最初に、あなたは沖田言語、ですか?」
「……ああ。俺が沖田言語だ」
メイメイの口調こそ平坦で表情も変わらないが、纏う雰囲気は一変している。弛み切った空気の中に潜む得体の知れない重圧がひしひしと伝わってくる。
このプレッシャーは……いつもの感じだ。肌が焼け付いていると錯覚するほどの重圧。こういった重圧を放つ奴が依頼をしてくる仕事は、例外なく厄介な物となる。
そして……命を賭ける事にもなるだろう。
「それでは依頼をお願いします。《心力者》沖田言語」
やはり、《あちら》側の依頼か。
探偵業務ではないもうひとつの仕事。
フリーランスの――《心力者》。
それが俺――《絶対言語》の名を持つ沖田言語だ。