第一章 それぞれの出発①
今でも覚えていた。あれは、初夏の夜だった。父はいつものように、自分を呼び付けて掃除に対しての難癖をつけてきた。しっかりとしたはずなのに、まだほこりが残っていると叫んで父はぶった。
最初に頬を張られたことを、エレンは記憶していた。頬を張るのは、いつものことだった。その後は、むちで徹底的に背中を打たれた。どうせすぐに終わる事だと分かっていた。無駄な抵抗をせずに、ただぶたれるだけにしておこう。そうすれば父はいつか飽きて、また酒を飲んで寝るはずだ。
だが、エレンの考えは甘かった。その日の父は、いつもと違っていた。
父は彼女の態度が気にくわなかったのだ。まるで分かり切ったような態度が、癪に障ったのである。
なめやがって、とエレンに向かって吐き捨てた。むちが止むのと同時に、父はどこかへと去った。
エレンは、ほっとした。今日はもう寝よう。寝ている間だけ、安らぐことができるし、夢で死んだ母に会うこともできる。夢の中の母は、何か言うわけではないが、とにかく現れるだけでも嬉しかった。今日は来てくれるかなと思案していた。
大きな足音がした。
父が戻って来たようである。
すぐに逃げようとしたが、背中をつかまれた。尋常でない力だった。おそるおそる、後ろを振り向いた。
父は手に包丁を持っていた。包丁は、斬れ味が悪くなっていたので、昼間にエレンが研いだものだった。
解放してくれるよう叫んだが無駄だった。
着ている服が一気に破られた。
エレンはわめいたが、それが父の神経を逆なでしたことに気付かなかった。
背中に痛みがはしった。
斬られたことに、エレンは気付いた。
そのまま外に投げ出された。痛みがどんどん、押し寄せてくる。エレンの目から突如、涙があふれ出て来た。
どうして自分がこんな目にあわなければいけないのだろうか。自分が何をしたのだろうか。母が死ぬまで優しかった父は、どこに行ったのだろうか。
誰でもいいから、この苦しみを聞いてほしかった。