記憶⑨
ほっぺが落ちるとは、このことを指すのかもしれなかった。自分なんかよりもはるかに上手だった。
「もう結構ですので、その辺でくつろいでください」
「でも……」
「いいから、くつろいでください!」
このままでは自分の存在意義が奪われてしまう可能性がある、とアリスは思った。この屋敷では家事全般は自分が預かっているから、誰にも譲るわけにもいかなかった。
アリスの気迫に押されたのか、エレンはすごすごと引き下がった。
「ゆっくり本でも読んでいてください」
とりあえず読書でも勧めた。だが、これはわざとだった。ロウマが持っている本は難しい言語のものが多く、そこそこ言語を教えてもらったアリスでさえも、読めるのはわずかだった。
おそらくエレンも少し読めば飽きてしまって、ソファーで横になっているはずである。内心ほくそ笑んだアリスは、再び料理に集中した。しばらくするとアリスは、エレンの様子を確認するために、居間に戻ってみた。そこにはうずたかく積まれた本とエレンがいた。彼女は熱心に本を熟読していたのである。
「どうしました、アリスさん?」
「面白いですか?」
「はい、とっても。これなんて凄く面白いですよ」
どうせ適当に読んでいるはずだ、とアリスは自分に言い聞かせたが、次の瞬間エレンは読んでいた本をアリスの眼前に突きつけた。はっきり言って、何が書かれてあるのか、アリスにはさっぱり分からなかった。
「やっぱり本は恋愛小説に限りますよね」
「そんな内容なのですか?」
「そうですよ。知らなかったのですか?」
「さっぱり……」
なんという女だろうか。記憶が欠落しているとはいえ、識字能力はしっかりしていたのである。挙句の果てに、自分よりもはるかに識字能力は上である。恐ろしい、とアリスは身震いした。
その時、ナナーとシャリーが帰って来た。
「二人ともどうしたの?」
しめた、と思ったアリスだった。渡り船とはまさにこの事である。シャリーはともかく、ナナーならばこの難局を乗り切ることができるかもしれなかった。