32.別れ
「ビアンカ!」
彼女の姿が深い緑の間から見えてきて私は声を上げた。
緑を抜けると彼女はその白く長い首をもたげて私たちを見下ろした。
――私、ラグ、セリーン、アルさんの4人と今はお休み中のブゥは一度城を出て彼女にお別れをしに来た。
王子とクラヴィスさんも彼女に会いたがったけれど、今はあの部屋から離れられそうにないとお礼の言葉を言付かって来ている。
でもその前に、彼のことを伝えなければならない。
「ごめんね、ビアンカ」
私は彼女に近付きその身体に触れる。
ひんやりとした冷たい感触がとても気持ちいい。
彼女の赤い瞳を見上げて、私は言う。
「フォルゲンさん、連れて来られなかった」
ビアンカはただじっとこちらを見下ろしている。
その感情は私には読み取れない。
「フェルクの皆が心配してるって話したよ。あとビアンカがここにいるってことも……」
彼の固い表情と頑なな言葉が蘇る。
とても言い辛いけれど、言わなければ。
「でも、帰れないって。フォルゲンさんね、ここで大事な人を見つけたんだって。だから、フェルクには帰れないって」
「ライゼは、ブライトと結ばれるべきだとも言っていたぞ」
私の後ろにいたセリーンが後を続けてくれて、私はそうと頷く。
「『ブライトの方がライゼ様に相応しい』って……」
彼女が、ライゼちゃんに彼のことをどう伝えるかはわからないけれど、どうかライゼちゃんがあまり悲しむことのないように。
そう願いながら私はなるべく明るい声で続けた。
「フォルゲンさんね、この国でもお医者さんとして街の皆に慕われているんだって。あと、ブライト君がフェルクで頑張ってるって言ったらすごく嬉しそうにしていたよ」
と、ビアンカがゆっくりとした動きでお城のある方角を見つめた。
「――だから、ビアンカ。ライゼちゃんにフォルゲンさんは元気だったからって伝えて」
するとビアンカはもう一度こちらを見下ろし、その瞼を閉じた。
まるで、「わかりました」――そう言っているように見えた。
そして。
いよいよ、ビアンカとお別れをしなければならない時が来た。
私は彼女の硬い皮膚に額を付ける。
「ビアンカ、もうお別れだね……。こんなに遠くまで本当にありがとう」
初めて会ったとき、おっかなびっくりその身体に触れたことを思い出しながら私は言う。
(ライゼちゃんに鱗を掴んでって言われて、びっくりしたっけ)
飛行中最初は心許なかった背中の上も、今や寝てしまえるほどになってしまった。それだけ彼女の背中は心地良かった。
彼女との思い出が次々と蘇ってくる。
突然冬眠してしまってものすごく心配したことや、それでも私を助けに来てくれたこと。
「私がフィエールに連れていかれたとき、ビアンカ寒くて大変だったのに助けに来てくれて本当に嬉しかった」
絶望の中この白く大きな姿を目にしてどんなに安心したか。
ライゼちゃんとは違って言葉を交わすことは出来ないけれど、彼女はいつだって優しかった。
「全部、ありがとうビアンカ。あなたと旅したこと、絶対に忘れない」
まずい。声が震えてしまう。
誤魔化すように私は顏を上げた。
「ツェリウス王子とクラヴィスさんもね、ビアンカにありがとうって。本当に助かったって言ってたよ」
ビアンカはそんな私を優しく見下ろしていた。
と、後ろに居たセリーンが私の横に並び同じようにビアンカに触れた。
「私からもありがとう、ビアンカ。お前のお蔭で大分旅が楽になった。元気でな。ライゼ達にもよろしく伝えてくれ」
そうしてセリーンはビアンカの身体を抱き締めた。
するとまた。ビアンカは頷くように一度瞼を落とした。
次に前に出たのはアルさんだった。
「ビアンカ。ありがとな。この中じゃ俺が一番付き合い浅いけどよ。お前さんが居てくれてほんと助かったぜ。いつか俺もフェルクに行ってみたいからさ。そん時はよろしくな」
そうしてアルさんも彼女の身体を抱き締めた。
私は後ろを振り返る。次はラグの番だ。
飛行中、なんだかんだと一番ビアンカに話しかけていたのは彼だ。
なのにラグはビアンカを見てはいなくて。
「ラグ?」
私が声を掛けるとラグは徐に頭の後ろに手を回した。そして。
「ブゥ、起きろ」
彼は手の中で寝ているブゥに話しかけた。
彼が日中にブゥを起こすのを見るのはこれが初めてだ。
「そっか、ブゥにもお別れさせないとな」
アルさんが微笑ましげに言うのを聞いて、そうかと思う。
(サイズは全然違うけど、同じモンスターだもんね)
何度かラグが声を掛けるとブゥは伸びをするように翼を広げた。起きてくれたみたいだ。
ラグが小声で何か言うと、ブゥは彼の手の中から離れ、ビアンカの目の高さまでふわふわと飛んで行った。
お互い見つめ合っている様はとても可愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。
同じように笑ったセリーンが言う。
「何か話しているのかもな」
「うん」
言葉がなくても同じモンスター同士。目と目で何か伝え合っているのかもしれない。
それから満足したのかブゥは戻って来てラグの頭に乗った。
いつの間にか私の隣にいたラグがビアンカを見上げ口を開く。
「長い間付き合わせて悪かったな。助かった」
それだけ言うと、ラグはビアンカに短く手を触れ、そして離れた。
(え?)
危うく声が出てしまうところだった。
それだけ……?
でもビアンカが優し気に目を細めたのを見て、あぁこれでいいのだと思った。
ビアンカがばさりと翼を広げて周囲に強い風が巻き起こった。
彼女が地面を離れるときいつもならその背中に乗っているのに、今日は彼女を見送らなくてはならない。
こうして見上げると改めて彼女は大きく、そして美しかった。
「さようならビアンカ。本当にありがとう!」
風音の中、そう叫んだときだった。
彼女が薄く口を開ける瞬間を初めて見た。
“――アリガトウ――”
そんな柔らかな声が、聞こえた気がした。
彼女の姿が空の色に溶けていくのを見送りながら私はぽつりと呟いた。
「……私、今ビアンカの声が聞こえた気がした」
「私もだ」
「俺も」
「……」
「ぶ」
私たちは呆然と顔を見合わせてから、もう一度高い空を見上げた。
もうそこに彼女の姿は無かったけれど、かわりに白く長い雲が一本悠々と浮いているのを見て、私は笑顔で大きく手を振った。
それからブゥは再び眠ってしまい、私たちはセリーンの剣を手に入れるために例の小屋へと立ち寄った。
彼女は愛剣を手にするとすぐさまその背に装備し満足げに微笑んだ。
……その帰り道だった。
一番後ろを歩いていたアルさんが私たちを呼び止めた。
「みんな、ちょっといいか」
「え?」
その真剣な声音に私たち3人は足を止めて振り向いた。
でも皆の視線が集中したところでアルさんは「あ~」と低い声を出しながら目を伏せてしまった。
(アルさん?)
なんだからしくなくて首を傾げていると、アルさんは今度こそ思い切るようにして口を開いた。
「実はな、ずっと考えてたんだが」
「ここに残ることに決めたのか?」
アルさんの後を続けたのはセリーンだった。
「え?」
アルさんはそんなセリーンを見て目をぱちくりさせた。
一拍置いて、その言葉の意味を理解した私は目を見開いた。
「え!?」
「セリーン、なんで……」
アルさんが戸惑うようにセリーンに訊いた。
するとセリーンは呆れたように息を吐いてから言った。
「昨夜、迷っているふうだったではないか」
「そ、そうだったか?」
バツが悪そうに頭を掻くアルさん。
昨夜――私とラグが王子のお母さんに会いに行っている間だろうか。
いや、いつかなんてどうでもよくて。
「残るって、じゃあアルさんは私たちと一緒に行かないってことですか!?」
自分でその声の大きさに驚く。
アルさんは苦笑しながら頷いた。
「うん。……殿下をさ、もう少し見守ってやりたいなぁって思っちまって」
確かに、首謀者であるフィエールは捕まったものの派閥があったくらいだ。まだ城内に王子の敵は残っているかもしれない。
「でも!」
――でも、アルさんがいない旅なんて今はもう考えられなくて。
「せめてユビルスからの返答があるまでは護衛を続けようと思ってな。そこまで日数はかからないと思うし、すぐに追いつくからさ!」
いつもの明るい笑顔に戻ったアルさんを見て、思わずラグの方を振り返る。
止めて欲しかった。なのに。
「……勝手にしろ」
溜め息交じりにそう言って、ラグはくるりと背を向けてしまった。
初めからラグはアルさんの同行を嫌がっていたけれど。
「でも……」
ついさっきビアンカとお別れしたばかりで、更にアルさんともお別れだなんて。
アルさんは優しい。短い期間だけれど王子の傍にいて、このまま放っては行けなくなってしまったのだろう。私だって後ろ髪を引かれる思いだ。
王子はきっと喜ぶに違いない。……でも。
「でも~~っ」
さっきはどうにか我慢出来た涙が、結局ここで溢れ出てしまった。
それを見たアルさんが慌てたように声を上ずらせる。
「うわっ、カノンちゃん泣かないで!」
そう言われても、一度出てしまったものはすぐには止まらなくて――。
私はいつ元いた世界に帰ってしまうかわからない。いつまでこの世界に居られるかわからない。
ここで別れたら、もう二度と会えないかもしれない。今まで別れてきた皆と同じように……。
アルさんの困り切ったような声が自分の嗚咽に混ざって聞こえる。
「俺もさ、カノンちゃんたちと離れるのは辛いぜ? だからすっげぇ悩んだんだけど、殿下からお前がいてくれて心強かったなんて言われたらなんか余計に心配になっちまって。ほら、二人にはラグがいるだろ? でも殿下にはいないから……」
わかってる。
十分にわかっているのだ。でも、涙が止まってくれない。
私がぶんぶんと何度も頷いているとその頭にぽんっと大きな手が乗った。
ぼやけた視界の中に、こちらを覗き込むアルさんの優しい顔があった。
彼が囁くような小さな声で言う。
「ラグを頼んだぜ。カノンちゃん」
私は目を見開く。
にっこりと笑うアルさん。
昨夜彼の口から語られたラグの過去を思い出して。
私はごしごしと涙を拭って顔を上げ、アルさんの顔をまっすぐに見返した。
「はい!」




