20.再会
セリーンが無事だった。
その安堵よりまだ目の前で起こったことへの驚きの方が大きくて、彼女にすぐに言葉を掛けることが出来なかった。
まさか書庫塔にこんな仕掛けがあるなんて。
王家に伝わる唯一の笛を使い現れる隠し階段。しかも同時に入口の扉が開かなくなるのだから、有事の際にこれほど安心で安全な逃げ場所はないだろう。
(王子はこうやってお城を抜け出したんだ……)
「母さんは?」
その声は、はっきりと緊張していた。
そうだ、セリーンが戻ってきたということは王子のお母さんも一緒のはず。
なのにセリーンの他に誰も階段を上ってくる気配がない。
(もしかして、見つからなかったの……?)
「会えなかったのか?」
同じことを考えたのだろう、王子の声が微かに震えた。
しかしセリーンの答えは意外なものだった。
「母君はこの先の小屋で待っている」
「え?」
「すまない、何度も説得したのだが、私ではあの小屋までが限界だった」
(限界?)
どういうことだろう。
王様の元へ行き、笛を吹いてもらわないとならないのに……。
王子がセリーンに詰め寄る。
「小屋にいるんだな、母さんが!」
てっきりどういうことなのか訳を訊くのかと思ったけれど、今の彼はそれどころではないようだ。
セリーンがしっかりと頷くと、王子は興奮を抑えるように一度大きく息を吸い頭を下げた。
「ありがとう……!」
その声はやはり少し震えていた。
セリーンはそんな彼に優しく微笑みかける。
「早く行くといい。子供から説得されればあの頑なな心も動くかもしれない」
(頑なな心?)
やはり気になる言い方だ。でも、
「あぁ!」
王子はそう力強く返事をするとラグから手燭を受け取りすぐさま地下への階段を駆け下りていってしまった。余程早くお母さんに会いたいのだろう。
と、背後からは大きな溜息。
「ったく、面倒くせぇな」
低く愚痴りながらもラグは私の横をすり抜け王子の後を追った。
私はセリーンに駆け寄る。
「セリーン、ありがとう! なんか、大変だったみたいだね」
「あぁ、すぐに会えたのだが、説得に時間がかかってしまってな。……あれはかなりの頑固者だぞ」
最後の一言は声を潜めたセリーン。
「そうだったんだ……」
街で少し話しただけだけれど、確かに気は強そうではあった。
(王子も結構頑固者だもんね)
「それと、ビアンカにも会ってきたぞ」
「え!? ど、どうしてた?」
そうだ。ビアンカはあの小屋の近くにいるのだ。
「とぐろを巻いて眠っていたが、私に気付いて起きてくれた。フォルゲンのことを簡単に話してきたが、再び眠ってしまってな」
「そっか……」
なんとか、フォルゲンさんに会わせてあげたいけれど……。
「王とメガネの様子は?」
その呼び名にかくんと肩が落ちそうになる。
「王様はあのまま眠ってるって。アルさんは今ブゥが見てくれてて」
「何をしている! 早く来ないと閉めてしまうぞ」
地下から響いてきた王子の声に慌てる。
「はーい!」
「詳しいことは進みながら話そう」
再び階段に足を掛けたセリーンに私は言う。
「セリーン、ブゥと一緒にアルさんを見ててくれないかな。やっぱ結構辛そうで」
本当は楽譜のこととかセリーンに話したいことが色々とあったけれど、彼女が近くにいたほうがアルさんも元気が出るはずだ。
「……カノンはもう平気なのか?」
「え?」
セリーンが地下に視線をやり、理解する。
「うん。大丈夫!」
ちょっと嘘だったけれど、そんなこと言っている場合じゃない。
「そうか。気を付けるんだぞ」
「うん、セリーンも。じゃあ、行ってくるね。アルさんのことよろしく!」
セリーンが頷くのを見て、私も地下へと続く階段を駆け下りた。
入口が見えなくなると途端に視界は闇に覆われた。
人一人通るのがやっとの狭いその階段を、両側の壁に手を着きながら慎重に下りていく。
どうやらここも上と同じく螺旋階段になっているようだ。
(元は見張り塔だったって言ってたけど、ここもその頃からあったのかな)
そんなことを考えていると、暗闇の先に仄かな光を見た。
その光を求め足を速める。
すると間もなくして柔らかな灯りの中に王子とラグの姿を見つけた。
「お待たせしました」
階段を下りきったそこは何もない2畳ほどの空間だった。
てっきり小屋へと続く長い通路があるのかと思ったが、ここにも何か仕掛けがあるのだろうか。
と、王子が私の背後を見上げた。
「彼女は?」
「あ、セリーンにはアルさんを見ていて欲しいってお願いしたんです」
「そうか、そうだな。では閉めるぞ」
「はい」
王子はくるりとこちらに背を向けた。
(あっ)
灯りに照らされた壁を見て気づく。王子の丁度腰辺りの位置に見覚えのある形の窪みがあった。
思った通り、王子はその窪みに笛を押し込み、先ほど本棚にしたようにがちゃりと回転させた。
すると少しして頭上からゴゴゴ……と重いものが動く音が聞こえてきた。本棚が元の位置に戻っているのだろう。
その様子が見えるわけではないけれど、つい天井を見上げてしまう。
「凄い仕掛けですね」
「だろう。僕も最初は驚いた」
音がぴたりと止んだところで王子はその笛を更に押し込んだ――ように見えた。
「!」
笛と一緒に目の前の壁が、いや、その一部がくり抜かれたように向こう側に開いていくではないか。
暗がりでわからなかったが、壁の一部が扉になっていたのだ。
そしてその向こうには先の見えない狭い通路がずっと続いていた。
思わずごくりと喉が鳴る。
「行くぞ」
「はい!」
ルバートの隠し通路は土面が剥き出しだったが、ここは完全に人工の壁に囲まれた路だった。
お蔭で進むたびに足音が不気味に響き渡り、すぐそこに迫る闇もあって一人でなくて本当に良かったと思った。
(セリーンは怖くなかったかな……)
ふとそう考えたけれど、こんなことを怖がるようじゃきっと傭兵など出来ないだろう。
「――あの、王子」
「なに」
振り返らずに応えた王子に、私は訊く。
「さっきセリーンが気になることを言っていましたが」
「あぁ、母さんは一度決めたことは曲げない性分だからな。そういうことだろう」
“頑固者”
セリーンが先ほどそう言っていたけれど、王子もわかっているようだ。
「お城まで来てくれるでしょうか……」
つい不安を口にすると王子はふっと笑ったようだった。
「なんだ。さっきは来てくれるに決まっていると言っていたじゃないか」
「そ、そうですけど」
確かにそう言ったことを思い出し言葉に詰まる。
むしろ先ほど来てくれるだろうかと不安がっていたのは王子の方だったのに。
「大丈夫。僕が説得してみせる。だから急ごう」
「はい」
と、返事をした時だ。
「お前はもう大丈夫なのか」
「え?」
その声に振り向くとラグの青い瞳とぶつかった。
――カノンはもう平気なのか?
つい先ほどのセリーンとの会話が蘇る。
(大丈夫って……?)
ラグは眉を寄せ続けた。
「笛の吹き方を教えるんだろう」
あぁ、そのことかとほっとしながら頷く。
「うん、まだ完璧ってわけじゃないけど、楽譜見ながらならなんとかなると……って、あー!」
思わず通路に大反響する声を出してしまっていた。
「どうした?」
王子がびっくりした顔でこちらを振り返る。
私はさーっと顔が蒼くなるのを感じながら、小さな声で言った。
「わ、私、楽譜の載った例の本、忘れてきちゃいました」
ここまで来てそのことに気づくなんて、抜けているにも程がある。
あれがないと王子のお母さんに笛を教えることが――。
「ここにある」
「え」
その低い声に再び振り向くと眼前に本が差し出され驚く。
同時に呆れたような溜息が降ってきて。
「ったく、しっかりしろ」
いつもの不機嫌そうな顔を見上げて、私は彼の手からその本を受け取った。
「ありがとう」
お礼を言うと、彼はふんと鼻を鳴らし視線を逸らした。
後ろで王子がふぅと息を吐く。
「行くぞ」
「は、はい」
私はしっかりと本を胸に抱きしめ、再び王子の背中を追いかけた。
――やっぱりまだ少し気まずいけれど、いつもと変わらない彼との会話に私は安堵していた。
そうだ。彼はいつもぶっきらぼうで、怒りっぽくて、でも頼りになって……。とにかくそういう人なのだ。
嫌われているかもしれないなんて、考えるのはやめにしよう。
そうすればきっと、今まで通りに接することが出来る。
(……出来るはず、だよね?)
永遠に続くかと思われた通路に終わりが来たとわかったのは、王子が走り出したからだ。
私たちもそれを追いかけ走る。
通路の終わりはそのまま地上への階段に続いていた。それも駆け足で上って行く王子。
階段が唐突に終わり、現れたのは木の天井だった。
「持っていてくれ」
「はい」
私は王子から手燭を受け取る。
すると彼は天井に両手を掛け、そのまま向こうへと押し上げた。
(あ、ここはそんなに簡単なんだ)
少し拍子抜けした気分で王子の背中越しに徐々に開いていく天井――隠し扉の外を見つめる。
ばたんっと音を立て扉が全て開ききると、王子はすぐさまそこから顔を出し声を上げた。
「母さん!」
そのまま勢い良く飛び出していった王子を慌てて追い、私も顔を出す。
そこは本当にあの小屋の中だった。
朝一度入ったときと同様に椅子に立掛けられたセリーンの愛剣が見え、そして次に視界に入ってきたのはツェリウス王子に抱き付かれた女性の姿。
(やっぱり、彼女が……)
間違いなく、昼間街で見かけたあの美しい踊り子の女性だ。
彼女は驚いたように瞳を見開いて、自分の胸に顔を埋めた王子を見下ろしていた。
「……おまえ、本当にツェリ、なのかい?」
「会いたかった、母さん……!」
くぐもった声。
“母さん”と呼ばれてもまだ信じられないのか、彼女は震える手で王子の両頬に触れ、確かめるようにしてその顔を見つめた。
「まさか、こんなに……」
そう小さく呟きながら、その金の髪を愛おしげに撫でる。
「立派になったねぇ、ツェリ」
「母さん……!」
感極まったようにもう一度抱き付いてきた息子を、彼女は今度こそ強く抱き締めた。
(王子、良かったですね)
親子の感動の再会に思わずもらい泣きしそうになっていると。
「おい、何してんだ。早く出ろ」
足元からそんな低い声が聞こえてきて、私は慌てて謝りバタバタとそこから這い出る。
するとその音で気が付いたのが、彼女がこちらを見た。
「おや、アンタは確か……」
立ち上がりながら私は答える。
「あ、はい! 昼間、踊りを」
「楽器の方ばかり見て私の踊りを全く見ていなかった娘だね」
そう言ってにっと笑った彼女に私はあの時と同じようにハハと乾いた笑みを返す。
次にその視線は私の後ろ、ラグに留まった。
「アンタも確か一緒にいた、お医者さまだったっけ?」
「母さん、この者たちは今僕の護衛なんだ」
「護衛?」
彼女の顔色が変わった。
「そういや、あの赤毛の娘もそんなことを言っていたけど、お前命を狙われてるってのは本当なのかい?」
しかし王子は首を振う。
「今はその話はいいんだ。僕は母さんにお願いがあって会いに来たんだ」
こちらも力が入る。
王子はまっすぐに母親を見つめ、続けた。
「王を助けるために、僕と一緒に城に来て欲しいんだ」
「私は行かないよ」
「え」
間髪を入れずに答えた彼女に、王子は呆けたような声を上げた。
まさかこんなに早く、こんなにきっぱりと断られるとは思わなかったのだろう。
(私も、びっくりしたけど)
彼女はそんな息子にふっと微笑み、言い直した。
「いや、行けないんだよ、私は」
「――か、母さんが、あいつに会いたくないのはわかってる。僕だって本当は会わせたくない。でも、あいつだけじゃなくて」
ぽん、とそこまで言った王子の頭に手が乗る。
「聞いたよ。とばっちりを受けて倒れちまった人がいるんだろう?」
「そ、そうなんだ。その者を助けるためにも、まずは王をなんとかしなきゃならなくて。そのためには母さんの力が必要なんだ」
「それでもね、悪いけど、私は城へは行けないよ」
意志の強い眼差しとその声音に王子はゆっくりと肩を落としていく。
「なんで」
力無く訊いた王子に、お母さんはもう一度笑った。
(なんだか、悲しげな笑み……)
「私はね、あの人に会う資格がないんだよ」
その言葉に王子は怒りを露わにする。
「資格なんて……! だってあいつが母さんを捨てたから」
「おやめ!」
厳しい声に、王子はびくりと身体を震わせた。
「……あの人を、“あいつ”なんて呼ぶんじゃない」
「だって、」
再び顔を歪める王子。
するとお母さんはふうと短く息を吐き、もう一度彼の頭を撫でた。
「ごめん。それも全部私のせいだね。――お前は、思い違いをしているよ」
「え?」
「私はあの人に捨てられたんじゃない。私が、あの人から逃げたんだ」
王子の顔にゆっくりと衝撃が走るのを私は見ていた。




