17.楽譜
――好き?
唐突に出てきた気がするその言葉に頭の中が疑問符でいっぱいになる。
(好きって……ラグが、私をってこと?)
小さな呻き声に視線を落とすと、やっぱり蝋燭の灯りが眩しいのだろうか、アルさんが手で顔を覆っていた。
ラグの方を見れば私と同じように口を開けたまま固まっていて。
「僕はすぐに伝えたぞ、ドナにな。変に隠そうとするからややこしいことになるんだ」
なんだか王子は得意気だ。
彼がドナに、見ているこっちが恥ずかしくなるほど猛烈アタックしていたことは知っている。
でも、なんで急にそんな話になったのだろう。
(しかも、ラグが私を好きだなんて……)
これまでの私たちのどこを見たらそんなふうに思えたのだろう。
そもそも王子は口喧嘩をする私たちを怒っていたのではなかったのか。
と、そんな彼が私を見てまたも呆れたような顔をした。
「ほら見ろ、全くわかっていないじゃないか」
「はい?」
「――か、勘違いすんな!」
ラグが王子に向かってとうとう声を荒げた。
「そんなつもり全くねぇ! こいつは呪いを解くために必要なだけで」
こちらをびしっと指さしながら言われてカチンとくる。
またそれだ。
(わかってるってば……)
道具と思われているわけじゃないことはわかったけれど、でもやっぱりその台詞は聞きたくなかった。
そこで気付く。
以前ならそう思われても仕方ないと考えていた。
それでも一緒にいてくれることに感謝していた。なのに――。
(なんか私、我儘になってる……?)
「それだ」
王子の言葉にどきりとする。
瞬間声に出ていたかと思った。でも彼はラグの方を見ていて。
「なんでわざわざそんな酷い物言いをする。まるで、」
「殿下ぁ~、そろそろ」
弱々しいアルさんの声に王子は一瞬口を止めたけれど、声のトーンを落とし続けた。
「……まるで、わざと嫌われようとしているみたいだと、思っただけだ」
(わざと?)
ゆっくりと首を回しラグの方を見ると、一瞬だけ目が合ってふいと逸らされた。
ズキと胸が痛む。
「ぶぅ~?」
可愛らしい声が聞こえてきたのは丁度そのときだった。
ラグがはっとして懐に手を差し入れる。
嬉しそうに外に飛びだしそのまま相棒の頭に乗っかったブゥに少しだけ心が癒されて、私はいつものように挨拶する。
「ブゥ、おはよう」
でも、いつものように笑えている自信が無かった。
それから私たち4人は薄暗い部屋の中で食事をした。
と言ってもアルさんは水を少量口にしただけ。
王子はやはりお母さんのことが気になって仕方ないのだろう、度々ドアの向こうを気にしながら黙々と料理を口に運んでいた。
ラグもあれから一言も喋らず、私もそんな彼らに話しかけることが出来ず、酷く寂しい晩餐となった。
料理を運んできてくれたのはあのレセルさんで、彼女はソファで横になるアルさんを見つけて驚いていたけれど、王子が一言「ティコラトールの飲み過ぎだ」 と言うと苦笑するだけで特に怪しむことなく納得してくれたようだった。
セリーンがこの場に居ないのもアルさんが今動けない代わりに書庫へ調べものに行っていると言うと、
「それでこっちにも来られなかったんだね。またいつでも見に来るようにと伝えておくれ」
そう微笑み部屋を出て行った。
私はそこでセリーンが彼女に厨房を見たいと申し出ていたことを思い出したのだった。
(セリーンが戻るころには、料理冷たくなっちゃってるだろうな)
食事を終え、アルさんの向かいのソファに腰を落ち着けていた私は彼女の分の料理を見つめ小さく溜息をついた。
――今朝、あの小屋から街まで下りるのに大体30分。小屋からお城まではやはり30分くらい歩いた。
隠し通路がどう伸びているかわからないが、往復でざっと2時間。
それに王子のお母さんを探す時間も入れたら、彼女が戻るまでにはきっとまだまだ時間がかかるはずだ。
そうわかってはいても、暗く静かな部屋の中では時間がとてつもなく長く感じられた。
そして気が付けばまた、私の視線はラグの方へ向いていて。
彼は料理を食べ終えてからずっと、蝋燭の灯りの元相棒を頭に乗せ例の本を読んでいる。
“わざと嫌われようとしているみたいだ”
王子の言葉が頭の中をぐるぐると廻っていた。
(それって、私を遠ざけようとしてるってこと……?)
考えたこともなかった。
彼は誰に対しても無愛想で、態度が悪くて。
それでもそばにいてくれたから。
(だから、嫌われてるかもなんて、考えたことなかったな)
ズキと、また胸が痛む。
彼からしたら私は異世界から来た得体の知れない人間で。
でも呪いを解くのに必要だから仕方なく一緒に居て。
なのに、私は彼の意にそぐわない行動ばかりして……。
(好かれてると思う方がおかしいけど)
でも。
“あいつが考えている以上に大事な存在だってこと、わかってやって欲しいんだ”
……どっちなんだろう。
私はラグに、どう思われているんだろう。
と、その時視線の先の彼が考え込むようにして口元に手を当てた。
何か不可解な点があるのだろうか。
流石に沈黙が辛くなっていた私は思い切って口を開いた。
「何か気になるところがあるの?」
するとラグはぱっと顔を上げこちらを見た。
その反動で頭の上で一緒に本を見下ろしていたブゥが向こう側に落ちそうになり慌てて飛び立つのが見えた。
「あ、あぁ」
でもラグはそう小さく答えるとすぐにまた視線を戻してしまった。
そんな態度にぎゅっと拳を握りながら何が気になるのか更に訊ねようとして、
「どこだ?」
彼のすぐ脇の机で書きものをしていた王子に先に訊かれてしまった。
ラグは王子の手元に本を置いてそのページを指し示す。
「ここなんだが」
「あぁ、これか……」
王子の声に微かに嘆息が混じる。
「これは僕にもわからなかった。笛の音についての記述だというのはわかるんだけどな」
「そうか……」
「他の古い書物にもたまにそんな文字だか記号だかが出てくるんだが、調べてもわからなかった」
――笛の音について。
諦めるようにラグが再び本を手にするのを見て、私は王子に訊く。
「そういえばその笛って、音の高さによって意味が違いますよね。変身するときの音の高さと、こっちに来て欲しいときの音は違うなって」
「あぁ、良くわかったな。塞ぐ穴によって音が変わるんだ。それによって意味も変わってくる」
やっぱりと少し嬉しくなる。
「いくつくらい音が出せるんですか?」
「8つだ」
「8つ! それじゃあ普通に曲も吹けますね」
8つといえば丁度1オクターブ分。
それだけあれば色んな曲が吹けそうだ。
「曲を?」
驚くように私を見る王子。
(あ、そっか)
ひょっとしたら笛で曲を――メロディを吹くという概念がないのかもしれない。
「はい。私の世界では笛は曲を演奏するためのもので、それとは形は違いますが学校で習ったりも」
「おい」
リコーダーを吹くマネをしているとラグの焦りを含んだ低い声に遮られハっとする。
そうだ。王子に私の正体がバレてしまっていたことはまだ誰にも話していないのだった。
(また怒られる!)
しかもなぜバレたのか、その理由は王子に内緒にしろと言われている。
「あ、えっと王子は」
「カノンのことはもう知っている。それよりもこっちに来て今の話をもっと詳しく聞かせてくれ」
私の弁解を遮り手招きする王子。
でもその後ろに立つラグは明らかに怒気を放っていて。
それに、今アルさんのそばを離れるのも不安だ。
「でも、」
「俺なら大丈夫だよ」
そうアルさんに言われ私はまだ躊躇しながらもソファを立った。
なるべくラグの方は見ないように王子の元へ向かうと、ちっと舌打ちをして彼がこちらに歩いてきた。
すれ違うときも顔は上げられず、彼もそのままアルさんのいるソファへ向かったようだった。その後を追ってブゥが私の横を通り過ぎて行く。
王子はなんだかそわそわした様子で机の横に立った私に訊ねた。
「笛で曲を吹くということは、一度だけ、こう、ぴーっと吹くのではなく連続していくつかの音を出すということだよな」
「は、はい」
「そうか。それでカノン、これを見て欲しいんだ」
「え?」
王子が指差したのは先ほどラグと見ていた例の書物だった。
「これが何だかわかるか?」
私は蝋燭の灯りにぼんやりと照らされたその部分を覗き込み、目を見開いた。
4本の直線の上に黒い丸が転々と並ぶそれは、見慣れたものとは一本線が少なかったけれど間違いなく“楽譜”だったのだ。
「……はい」
「本当か!?」
思わず掠れてしまった私の声に王子が歓声を上げる。
「これは楽譜です。私の知っているものとは少し違いますが、これを見ればどんな曲なのかわかるようになっているんです」
私の言葉に何度も頷く王子。
「楽譜というのか。そうか、これは笛で曲を吹くという意味だったのか!」
興奮したように王子は胸元の笛を強く握りしめた。
私は、この世界にこうして楽譜が存在していたことに驚いていた。
エルネストさんは楽譜を持っていると言っていたけれど、王子のように皆その存在を知らないようだったから。
この書物はかなり古いもののようだ。
(ってことは、これが書かれた当時はもっとこの世界に音楽が溢れてたかもしれないってこと……?)
「それで、これはどう読んだらいいんだ?」
王子の質問に私は我に返る。
「えっと、」
ぱっと見てわかるのは12小節の短い曲だということ。
音符は全て黒丸のみで、4分音符のような棒の付いたものはなかった。
(音の長さの指定はないってことかな)
しかし音部記号は見たことのないもので、そしてやはり五線譜ではなく四線譜というのが不安だった。
「私の知る楽譜とは少し違うので確実ではないんですが」
そう前置きしてから続ける。
「この黒い丸の位置は音の高さを表しているんだと思います。この曲だとここが一番低い音で、この丸が一番高い音……」
私のたどたどしい説明を王子は真剣に聞いてくれている。
「それでこの曲はここで終わりになるんですが、」
終止線と思われる2本の縦線の上で私は指を止める。
「……楽譜が書いてあるのってこのページだけですか?」
やはりこの短い楽譜だけでは心もとない。
もっと基本的な、笛の吹き方や音階などが書かれたページがあったらと思い訊く。
「いくつかあるぞ。最初の方にも短いものが……」
そう言いながら王子はページをめくっていく。
「これだ」
「!」
そこには四線譜上を順に上がっていく8つの黒丸、音階が描かれていた。
「ありがとうございます! この一番下の黒丸がその笛で出る一番低い音。そして一番上の黒丸が一番高い音なんだと思います」
「そうか、だんだんわかってきたぞ」
楽譜を見つめながら頷く王子。
「試しに一番低い音を出してもらっても……あ、でも今変身しちゃったらまずいですよね」
「大丈夫だ。今はもうドナが吹かなければ僕の身体に変化はない。それまでは自分で吹いても変身出来たんだけどな」
小さく驚く。
そういえばさっきセリーンが吹いても王子には何の変化もなかった。
(愛する人が出来るとそんなところも変わるんだ……)
王子が笛の穴に指を当てていく。
「一番低い音は全部の穴を塞ぐんだ」
王子は突起部分を口に含み、ピーっと控えめに音を出してくれた。
確かにこれまで聞いた中でも一番低いように感じる。
絶対音感があるわけではないけれど、ドに近い音に思えた。
「そして一番高い音は全ての指を離したときの音」
もう一度、今度は全て離した状態の音を聞かせてくれた。
それは先ほどよりも丁度1オクターブ高い音だった。
「ありがとうございます。今の2つの音は同じ音ですね。私の世界ではオクターブって言い方をするんですが、この丸とこの丸が」
「それで? その曲を吹くと一体何が起こるってんだ」
不意に飛び込んできた不機嫌な声にぎくりとして顔を上げる。
先ほどまで私が座っていたソファに浅く腰かけラグがこちらを睨み見ていた。かなりイラついている様子だ。
すっかり夢中になって王子と話しこんでしまっていたけれど、彼からしたらこんな音階の話などどうでもよく、早く結論が知りたいのだろう。
でも確かに、一音一音に変身などの意味があるのなら、曲には一体どんな意味があるのだろうか。
「先ほどの曲は愛を伝えるものと書いてあった」
「愛を……?」
王子はもう一度先ほどのページを開き、続けた。
「おそらく、この書物が書かれた当時はこの曲を吹いて呪いを抑えていたんだ」




