16.彼の過去
「あいつと初めて会ったのは、あいつが7歳のときだ」
アルさんは再び目を閉じ、ゆっくりと話し始めた。
「ストレッタに入ったばっかであいつガッチガチに緊張しててさ、でもすぐに俺にも周囲の奴らにも馴染んでいった。明るくて素直で、誰からも好かれる存在だったんだ」
まるで別人の話を聞いているようだった。
(ラグにもそんな頃があったんだ……)
ガチガチに緊張した幼い頃の彼を想像してみたら、なんだかちょっと可笑しくて思わず顔がほころんでしまった。
アルさんもその頃を思い出しているせいか、先ほどよりも穏やかな表情で続けていく。
「術の源となる万物の力にも、あいつは羨ましいほどに好かれててなぁ」
――そうだ。
彼には術を使うときにだけ、見せる顔があった。
「ラグって、術を使うときはすごく優しい目をしますよね」
「ん。そこは昔と変わってない」
嬉しそうにアルさんは微笑む。
「――でも、万物に好かれた分だけ与えられる力も大きくてな、まだ小さかったあいつは扱え切れずに良くぶっ倒れてた」
ふと彼の声が蘇る。
それはフェルクで月明かりの下、術の基本を教えてもらったとき――。
“万物の力を感じろ。信じろ。そして、感謝しろ。……オレが昔、お前と同じように上手く力を扱えなかった頃、言われた言葉だ”
(あれってもしかして、アルさんの言葉だったのかな)
「そんなあいつが変わっちまったのは、初めての任務で戦地に赴いたときだった」
“戦地” ――不意に上がったその言葉に胸が嫌な音を立てた。
アルさんの表情も再び険しいものに変わっていて――。
「あいつが12の頃……丁度、あいつが呪いで小っさくなった姿、あのくらいの頃かな」
12歳。
日本で言えばまだ小学生だ。
ラグが子供の頃から戦地にいたことは知っていたけれど、その歳を聞いて改めて衝撃を受ける。
「戦争がどういうもんなのかまだ良く理解ってなかったあいつに、俺はこの長い戦いを終わらせに行くんだと言った。そうしたらあいつは相当やる気になってな、上に言われるままに術を使い、そして、ひとつの街が消えちまった……」
セリーンから聞いていた話だった。
なのに、そのすぐそばに居たであろう彼の言葉は酷く重く、息苦しいほどに私のみぞおちあたりに圧し掛かった。
「自分のしちまった事の大きさに、小さかったあいつは簡単に押し潰された」
アルさんの声が微かに震える。
「笑うことも、泣くこともなくなっちまったあいつをなんとか元気づけようと、俺も仲間も色々頑張ったんだけどな。中にはあいつの力を恐れて離れていくやつもいて……。あいつはその全てを拒絶して、自分の中に閉じこもった。――そして、ついには自らを殺めようとした」
ドクン、ドクンと頭にまで響いていた心臓の音が、一際大きく鳴り響く。
そのとき、表情の見えない小さな彼が脳裏に浮かんだ。
(見えないんじゃない。わからないんだ……)
同じ年の頃何事もなく平和に過ごしていた私には、その時彼が背負ったものなどきっと解るはずがない。
ただ胸の奥が痛かった。
「そんなあいつに俺は“お前は何も悪くない”と言った」
その閉じた瞼の裏には、私と同じように……いや、それよりずっと鮮明に当時の彼が映っているのだろう。
なんとか絞り出したような掠れた声だった。
「“何も出来なかったあいつらがいけないんだ。弱いからああなったんだ。だから、お前が悪いわけじゃない”」
まるで、ラグの言葉を聞いているようだった。
アルさんが唇の端を上げる。
「我ながら酷い言葉だったと思うよ。でも、もうなんでも良かったんだ。あいつが生きていてくれさえすれば、なんでも……。そして、その言葉にやっと、あいつは反応を見せた」
“お前は悪くない”
それが、その時の彼にとってはきっと、とてつもなく大きな言葉だった。
アルさんはゆっくりと目を開け、暗い天井を見上げた。
「やっと顔を上げたあいつは、もう元のあいつじゃなくなっちまってたけどな。それでもあいつは、また立ち上がってくれた」
きっと、その彼が私の知る“ラグ”。
アルさんはそこで気持ちを切り替えるように深呼吸し、私を見た。
「ごめんね、急にこんな話」
唇を噛んでぶんぶんと首を振る。
そんな私に彼は言った。
「カノンちゃんには知ってて欲しかったんだ。昔のあいつのこと」
目を開いて彼の穏やかな瞳を見返す。
でもすぐにその瞳を見ていられなくなって、私は視線を落とした。
白く映った自分の手をぎゅっと握って、口を開く。
「ラグが、優しいのはわかります」
口では色々と言いながらも彼はいつも私や、困っている人たちを助けてくれる。
現に今だって、王子のために、そしてアルさんのために行動している。
彼自身は認めないかもしれないけれど、まだ出逢ってからほんの数か月だけれど、その間ずっと一緒にいて、彼の優しさをそばで感じていたから。
(わかっていたはずなのに……)
どくんと、胸が鳴った。
それは先ほどまで響いていた嫌な音ではなかったけれど――。
「カノンちゃんがそう言ってくれる子で良かった」
顔を上げると、アルさんはとても満足げに微笑んでいた。
「あんなことしか言えないやつだけどさ、あいつにとってカノンちゃんが……多分あいつが考えている以上に大事な存在だってこと、わかってやって欲しいんだ」
(大事な……)
また小さく胸が鳴る。
「勿論、道具としてなんかじゃなくってね」
「……っ」
言葉に詰まる。
アルさんには全て見透かされているみたいだ。
私は部屋が暗くて良かったと思いながら、こくりと頷いた。
「――ふぅ、ちと喋り過ぎたかな」
「あ、だ、大丈夫ですか?」
慌てて立ち上がり訊くとアルさんは「え?」 と少し驚いたように私を見た。
「え?」
「あ、ううん、大丈夫。……それより、セリーンはもう城を出ちまったかな」
先ほど皆が出て行った扉の方に視線を向けたアルさんに、私は力強く言う。
「セリーンならきっと、すぐに戻ってきてくれますよ。王子のお母さんと一緒に!」
「ん、そうだな。それにしても、セリーンがあんなに俺のために必死になってくれるなんてなぁ……。ホント、こんなトコでくたばってらんないよな」
苦笑した彼を見て、私はあっと思い出す。
「そうだ、アルさん。セリーンってお花が好きみたいです」
「え?」
「さっきそう言ってて、花束とか贈ってあげたら喜ぶかもしれないですよ」
「そっか。花か……。カノンちゃんありがと。覚えておくよ」
そうして彼はもう一度微笑んだ。
「戻ってきたみたいだ」
アルさんの言葉に扉の方を見ると確かに足音が聞こえてきた。
それは目の前で止まり、扉が開いていく。
暗い部屋の中に淡い光が差し込み、その光の中に立つ王子とラグの表情がさっと強張った。
「なんでこんなに暗いんだ!?」
そんな王子の驚いた声に、ソファの傍らに座り込んでいた私は慌てて立ち上がる。
「すみません! アルさんが眩しいみたいでカーテン閉めちゃったんです」
私はもう目が慣れていたけれど、明るい場所から戻った彼らには真っ暗に思えたのだろう。
ひょっとしたら一瞬私たちが見えなかったのかもしれない。
目の合ったラグが安堵するのがわかって、先ほどアルさんから言われた台詞が蘇る。
(大事な……)
「眩しい?」
訝しげな王子の声にハっとして私はラグから視線を外す。
「そうか、あいつもそうだったな。しかしさすがにこれでは……。蝋燭の灯りもきつそうか?」
「そのくらいなら多分大丈夫です。すいません」
目を閉じたままアルさんが答えると王子は廊下に戻り声を上げた。
「誰か、灯りを持ってきてくれ」
するとすぐに誰かつかまったのか、彼は改めて部屋に入ってきた。ラグが扉を閉めると再び部屋の中は暗闇に包まれる。
「セリーンは」
訊くと王子が答えてくれた。
「出発した。入口にクラヴィスを待たせてある」
だからクラヴィスさんの姿が無いのか、そう思いつつ彼の不服そうな顔が頭に浮かんだ。
「母さんがまだ街にいてくれたらいいんだが……」
やはり落ち着かない様子の王子。
(そりゃそうだよね。久しぶりにお母さんに会えるかもしれないんだし)
そう思ったら微笑ましくて、私は笑顔で言う。
「きっと会えますよ」
「……そうだな」
王子は頷いた。
それから間もなくして扉がノックされ、灯りをお持ちしましたと声が掛かった。
王子は少しだけ扉を開け、ちらっと見えたメイドさんらしき女性に短くお礼を言うとすぐに扉を閉めた。
燭台を手にした王子がこちらを向くと暗闇に仄かなオレンジの光が広がる。
アルさんにはその光が届かないよう気にしながら王子はその燭台を棚の上に置いた。
「どうだ。平気か?」
アルさんはゆっくりと目を開け何度か瞬きをすると、平気ですと答えた。
それを聞いて王子はほっとしたようだった。
ラグがこちらに歩いてくるのを横目に見ながら、そんな王子に訊く。
「王子も、あの……ツェリの姿になると光が眩しかったりするんですか?」
「いや、そんなことはない」
王子が首を振る。
「“人でも獣でもない半端な姿となり果て、王家の血は途絶える”」
そう呟いたのは目の前のアルさんだった。
それは昼間王子が話してくれた王家の呪いの一節だ。
「多分、そういうことなんだろうな」
ぞくと震えが走る。
――王様と同じ症状が出始めているアルさん。
ということは、昼間見た王様と同じように、これからアルさんの身にも更なる異変が起きるのだろうか。
今はセリーンがお母さんを連れて早く戻ってくれることを祈るしかないけれど……。
「随分とはた迷惑な呪いだな。これじゃ本も読めやしねぇ」
ラグが向かいのソファに座りながら言うのを聞いて、そんな言い方しなくてもと口を開きかける。でも、
「全くだ」
王子が溜息交じりに同意して驚く。
彼は蝋燭の上で揺れる小さな炎を睨むように見つめ、言った。
「あの伝説がどこまで事実なのかはわからないが、つくづくはた迷惑な王女だ」
――獣に恋をし、王家を呪いながら死んでいった王女様。
確かにその子孫である王子からしたら迷惑な話だろうけれど……。
と、王子は蝋燭から目を離し私たちの方を向いた。
「そうだ、お前たちの夕食をこちらに持ってくるよう伝えないとな。カノンもここで食べるだろう」
「あ、はい」
答えながらもうそんな時間かと思う。昼食が豪勢だったからだろうか、まだあまりお腹が減っていなかった。
(それにしても……)
王子は普段からこの自室に料理を運んでもらって一人で食事をしていたのだろうか。
お昼もアルさんとこの部屋で食べたようだった。
王族の食事というと、つい大きなテーブルを皆で囲んでいる様子を想像してしまうけれど。
(……王様が倒れる前は、きっとそんなふうに家族皆で食べてたんだよね?)
こんなに大きな宮殿だ。時には盛大な宴が開かれることだって――。
「あっ」
思わず声が漏れていた。
「どうした?」
王子がこちらを見て、瞬間しまったと思う。
“宴”で先ほどプラーヌスと話したことを思い出したのだ。
「何か気付いたことがあったなら」
「いえ、あの……そういえばさっき、宰相のプラーヌスさんとちょっと話をして」
「プラーヌスと?」
薄暗い中でも王子が眉を顰めたのがはっきりとわかる。
でもやはり一応伝えておいたほうが良いだろうと私は続ける。
「はい。本来なら私たちも招いて王子帰還の宴を開きたいけど、王様がまだあんな状態だから申し訳ないと」
「……そうか。他には何か言っていたか?」
「えっと、あとは王様を救ってくれたことのお礼を言われて」
「ちょっと待て」
そこでいきなり超絶不機嫌な声が飛び込んできてギクリとする。
その声の主、ラグに視線を向けると案の定思いっきり睨んできていて。
「いつの話だ」
きっとプラーヌスと話したことを怒っているのだ。
私は顔が引きつるのを自覚しながら答える。
「だ、だからついさっき、ラグを呼びに行ったときに廊下でばったり会っちゃって」
「ばったり会っちゃって、じゃねーよ! やっぱりお前はなんにもわかってねぇじゃねーか!」
ソファから立ち上がってまで怒鳴ってきたラグに、怯みそうになりながらも負けじと言い返す。
「仕方ないでしょ! 話しかけられて無視するわけにいかないし、そんなことしたら余計に怪しまれて」
「そうじゃねぇ! だから一人で行動するなって言ってんだ。殺られてたかもしれねーんだぞ!」
その剣幕にびくりと肩が跳ねる。そのときだ。
「悪かった」
アルさんの声。
彼はラグの方を見上げ優しい口調で続けた。
「俺が倒れたりするからいけねーんだ。カノンちゃんは悪くないから、そう怒鳴るなって」
するとラグは大きく舌打ちをして、どかっとソファに座り直した。
それを見てきゅっと唇を噛む。
さっきアルさんからラグの子供の頃の話を聞いて、わかってやって欲しい、そう言われたばかりだけれど……。
「でもな、お前も悪いんだぞ?」
アルさんが続けて彼に言う。
「は? なんでオレが」
「最初にカノンちゃんから離れたのはお前だろ?」
「オレが離れたわけじゃねぇ! そいつが勝手に」
顎で指されまたもムッとする。
「だって、ラグがあんな」
と、その時はぁ~という長い溜息が重なった。
そちらを見ると心底呆れたような王子の視線とぶつかって。
「さっきからなんなんだお前たちは」
「――す、すみません」
私は慌てて謝る。
そうだ。ここは彼の部屋で、しかもこんなときに口喧嘩なんて王子が怒るのも当然だ。
でも。
「特にお前だ。ラグ・エヴァンス」
いきなり名指しされ、ラグが眉を寄せる。
「なんではっきりと言わないんだ? だからカノンもわからないんだ」
「?」
ラグの眉間に更に深く皴が刻まれる。
私も王子が何を言いたいのかわからなくて首を傾げる。
「殿下、それ以上はちょっと……」
アルさんのなんだか気まずそうな声音に被るように、王子は続けた。
「好きなら好きとはっきり言えばいいんだ」
「っな!?」
ラグの妙に上ずった声を聞いて、遅れて私の口からも声が漏れた。
「え?」




