11.不安
「お前たちはここで待て」
「へ?」
扉の前で王子に言われ、アルさんがひっくり返ったような声を出した。
王子の視線は彼と、そしてセリーンに向いていて焦る。
(――わ、私だけ部屋に入るってこと!?)
「やー、でも俺は殿下の護衛ですし」
私の顔色を見てか、アルさんが言ってくれる。
「ほら、部屋の中だって完全に安全ってわけじゃ」
「そんなに時間はかからない。それに言っただろう。この人はドナの友人だ。悪いようにはしないと。だから安心しろ」
言いながら王子は扉を開けていく。
(そんなこと言われても、安心できるわけないよー!)
王子がどこまで知っているのか、何を考えているのか全くわからないのだ。
と、そのとき、セリーンが王子に言った。
「私はカノンの護衛だ。離れるわけにはいかない」
(セリーン……!)
思わず歓声を上げそうになる。
王子はそんなセリーンを見つめ思案するように眉根を寄せてから、小さく息を吐いた。
「わかった」
「え、俺は?」
「お前はここで見張っていろ」
ショックを受けたようなアルさんの目の前で無情にも扉は閉じられた。
その部屋は主がいない間もきちんと掃除されていたようだった。
さすが王子様の部屋なだけあって王の間と同じくらい広く、そして調度品はどれも金をあしらってありキラキラと輝いていた。王の間は暗くてわからなかったけれど、きっとこれ以上に煌びやかで豪華だったのだろう。
それにしてもあの金の扉といい、この国にとっていかに金が重要かがわかる。
「中へ入ることは許したけど、ここからは動くなよ」
「わかった」
王子に言われ、セリーンは扉の前で頷く。
「カノン、こっちへ」
「は、はい」
言われ私は王子の後について部屋の奥へ入っていく。
……そんなに聞かれたくない話なのだろうか。
改めてごくりと喉が鳴った。
部屋の一番奥、庭園が見える窓際のソファに王子は腰かけた。
「座って」
「はい。失礼します」
その向かいのソファに私は座る。そして。
「あの、私に訊きたいことって……」
早くこの緊張から解放されたくて、私は自分から話を切り出した。
すると王子はちらりとセリーンのいる扉の方を見てから小声で言った。
「ドナのことだ」
「え?」
思わず肩の力が抜ける。
良く見ると、王子の頬はほんのりと赤く染まっていた。
「パケム島で、お前ドナと一緒に川に行っただろ? そのとき、ドナは僕のこと何か言ってたか?」
「王子のこと、ですか?」
「あぁ」
……てっきり自分のことを何か訊かれるのだと思っていた私は激しくほっとする。
(なんだ、単にドナのことが訊きたかっただけなんだ)
王子様という立場とその不遜な態度につい気を張ってしまっていたけれど、なんだか急に年相応の少年に見えてきた。
彼の少し緊張したような真剣な視線を受けて、私はあの時のことを思い出す。
「えっと、あのときドナ確か、王子に逢えて良かった、信じてみるって言ってました」
すると王子は驚いたように瞳を大きくしてからパっと私から視線を外し、口元を隠した。
どうやら嬉しかったみたいだ。
「そ、そうか。なら良かった。流石にあそこまで離れると聞こえないからな。ずっと気になっていたんだ。……随分、僕のことで迷っていたようだったから」
微笑ましくそれを聞いていて、「ん?」 と思う。
ドナがあの時迷っていたのは事実だ。あの夜、彼女は私とセリーンの前でその気持ちを吐露してくれた。
でも、その場に王子はいなかった。それに――。
「あ、あの、あそこまで離れるとって……?」
訊くと王子は瞬間しまったという顔をした。
でもすぐに諦めたように息を吐いてこちらに顔を近付けてきた。
「実はな……獣の姿になると、耳も獣並になるんだ」
「え」
顔が引きつる。
王子は私から離れると念を押すように強く言った。
「内緒だぞ、ドナにもだ」
(――ちょ、ちょっと待って。ってことは、ってことは……!)
私は恐る恐る引きつった笑顔で訊いてみる。
「あの、じゃあもしかして、ツリーハウスの中の会話とかは……」
「あぁ。あのくらいの距離ならわけない。ほぼ筒抜けだ」
得意気に言われ、サーっと顔が青くなる。
そんな私に気付いてか、王子は少し意地悪そうに唇の端を上げて追い打ちをかけるように言った。
「お前の世界の話はとても興味深かったぞ」
王子はやっぱり私の正体を知っていたのだ。
(まさか、あの時の会話全部聞かれていたなんて)
その事実に愕然としていると王子はなんだか楽しげに続けた。
「そうそう、そのことについてももっと訊きたいと思っていたんだ。勿論他の皆には秘密にする。話してくれるな?」
「えっと、その……」
ここまでバレてしまっていて、今更何を躊躇する必要があるのか。王子は他の皆には秘密にすると言ってくれている。単に興味本位で、ランフォルセ王のように私の力を利用しようとか、そういう考えがあるわけではなさそうだ。
なのに、ラグの怒った顔がちらついて離れない。
(だめだだめだ! ちゃんと自分で考えなくちゃ)
私は彼を振り切るように頷き、答えた。
「わかりました」
「そうか! ありがたい。しばらく退屈しないで済みそうだ」
その嬉しそうな笑顔に小さく驚く。
そんな顔をこちらに向けてくれたのは初めてな気がした。きっとノービス一家の中ではいつも見せていた表情。
でも、そこで私は思い切って言う。
「そのかわり、その笛のこともう一度考え直してくれませんか?」
途端、笑顔がつまらなそうな顔に変わった。
「まだ言うか。さっき変える気はないと言ったはずだ」
「でも、多分ドナがここに居たとしても同じことを言ったと思います」
少しずるいかとも思ったけれど、彼女の名を出すのが王子には一番効く気がした。
案の定、王子は唇を曲げ思案するような表情を見せた。そして。
「……考え直すだけだ。変わらなくても文句言うなよ」
その答えに思わずガッツポーズしそうになる。
「はい! ありがとうございます!」
お礼を言うと、王子はふんと鼻を鳴らしそっぽを向いた。
(さっきの話と言い、本当に王子はドナのことが好きなんだなぁ)
ドナの照れた顔を思い出して目を細めていると、王子の視線が戻ってきた。
「お前はどうしても帰りたいのか?」
「え?」
「元の世界にだ」
「はい。帰りたいです」
はっきりと答える。それが目的でここまで来たのだ。
なんだか意味深な瞳で、王子は続けた。
「もし、帰れなかったら?」
「え……」
「帰れなかったら、どうするつもりなんだ?」
急にそんなことを訊かれて激しく戸惑う。
これまで帰ることだけを考えてきた。
帰れなかった場合のことなんて考えたことがなかった。
――違う。無意識に、考えないようにしていた。
このままずっとエルネストさんの元に辿り着けなかったら?
辿り着けるまでずっと、私は旅をするのだろうか。
(一人になっても? ……おばあちゃんになるまで、ずっと?)
そう考えた瞬間、途方もない暗闇に呑み込まれたような感覚に襲われた。
「考えてなかったのか?」
私は足元に視線をやりながら小さく頷く。
「そうか……いや、もしそうなったら、ドナの侍女になってもらえないかと思ったんだ」
「え?」
顔を上げる。
王子は極真剣だ。
「僕が王になって、ドナを迎えに行ったらドナはこの国の王妃になる。きっとしばらくは慣れない生活を強いることになると思う」
苦しげに唇を噛む王子。
――確かに、そうかもしれない。
ドナにとったら、いきなり全く違う環境に入ることになるのだから。
そのときふと気が付く。
(そっか、王子も昔そうだったんだ)
愛する人に、自分と同じ苦しみを味あわせることになる。
きっと王子の気持ちは複雑だろう。
「でも、お前がいつも近くにいればドナも心強いと思う。それに、いざというときお前ならドナを守れる」
「守る?」
「あぁ。なんせお前は伝説の銀のセイレーンだ。ドナにはお前。そして僕にはあのストレッタの術士がいる。そうなれば、怖いものは何もない」
そのちょっと興奮したような言い方に、焦る。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
大きな声が出てしまって、慌てて音量を落として続ける。
「あの、私全然そんな、ドナを守れるような力持ってないです!」
「……謙遜か? 歌の術が使えるじゃないか」
「使えはしますけど、全然、人を守れるようなものじゃ」
「でもあのときモリスを眠らせたじゃないか。なら、やってきた敵を眠らすことだって出来るはずだ」
「それは……」
言葉に詰まる。
なんて言ったらわかってもらえるだろう。
確かにセイレーンとしての力はあるけれど、だからといって、王子の言う“いざというとき”役に立つかと言われたらはっきりとノーだ。私にそんなときの対応力なんて無い。
と、王子がソファから立ち上がった。
「まぁ、あくまでお前が帰れなかったときの話だ。でも覚えておいてくれ」
私はそんな王子に、曖昧な表情しか返せなかった。
――あくまで帰れなかった場合の話。
(私は帰るんだから。だから……)
ぎゅっと握った自分の手のひらが冷たかった。
「終わったんですか?」
王子が扉を開けるとすぐにアルさんの声が聞こえた。
「あぁ。さて、どうする。そろそろ昼食が運ばれてくる頃だが、先にお前と話したいという医師の元へ行くか?」
「え、殿下も一緒に来てくださるんですか?」
「僕も一度医師たちに挨拶しておきたいからな」
「そうですか。ならお願いします」
そんな会話が耳に入ってくる。
「カノン?」
「え?」
セリーンと目が合う。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
小声で言われ、私は慌てて首を振る。
「ううん、なんでもないよ」
今この場では話せない。
――それに。この不安を口にしても、きっとセリーンを困らせるだけだ。
どうしようもないことなのだから。
王子たちの後について、再び王の間へと続く廊下へ戻ってきた私たち。
最初に通された控えの間の前で、セリーンが足を止めた。
「私たちは居ても仕方ないだろう。ここで待っていよう」
――え?
私は彼女を見上げる。
もう一度フォルゲンさんに会うのなら私も一緒に、そう思ったのだけれど。
「医師の名はフォルゲンと、その奥方のリトゥースだ」
「そっか、わかった。話が済んだら声掛けっから」
アルさんがすんなりOKして、王子と共に先へ向かう。
それを見送っていると、セリーンの手が肩に置かれた。
「ほら、入るぞ」
「う、うん」
扉が閉まってすぐにもう一度セリーンに尋ねられた。
「本当に大丈夫なのか? 王子に何か無理な頼み事でもされたか?」
そこで気付く。セリーンは私を気遣ってここで待っていると言ってくれたのだ。
セリーンは優しい。
先ほどのラグのことと言い、私はそんな彼女に心配をかけてばかりいる。
しかもその優しさに甘えっぱなしだ。
――セリーンとだって、いつまで一緒にいられるかわからないのに……。
「ううん、大丈夫。流石に緊張しちゃって、どっと疲れちゃった」
胸の辺りを摩りながら苦笑して私は奥のソファへ向かう。
「あ、そうだ。王子ね、考え直してくれるって!」
そうだ。答えの出ないことをうじうじと悩んでいても仕方ない。
王子が考え直すと言ってくれのだ。これは大きな前進で、喜ぶべきことだ。
「本当か?」
「うん! まぁ、考え直すだけだとは言ってたけど、きっと、王妃様に渡してくれると思う」
「そうか。だといいな」
笑顔で頷き、私はソファに座る。
セリーンが向かいに座ったのを確認して私は小声で続けた。
「実はね、ちょっとずるいかなとも思ったんだけど、ドナの名前を出したの。そしたら!」
「そうだったのか」
「やっぱり、王子にはドナの名前が一番効くね」
クスクス笑いながら言う。
「本当にドナのことが好きなんだなーって」
「それだけか?」
「え……」
向けられた真剣な眼差しに気付く。
「私たちには話せないか?」
その温かな声音に笑顔が崩れそうになる。
今崩れたら、きっとぐちゃぐちゃになってしまう。全部吐き出してしまう。
そしてまた甘えてしまう。
奥歯をぐっと噛んで、頬を上げて、私は言った。
「本当に大丈夫。ありがとう、セリーン」
「そうか……」
彼女は微笑み、それ以上は訊いてこなかった。
そんな優しさがまた、今はありがたかった。
それから間もなくしてノックの音が聞こえ、遠慮がちに扉が開かれた。
「セリーン、カノンちゃん、入っていいか?」
「もう終わったんですか?」
顔を覗かせたアルさんに驚く。
その後ろには王子の姿もあった。
「フォルゲンさん達に会えましたか?」
立ち上がって訊くと、アルさんは王子を中に入れてから扉を閉め頷いた。
「あぁ。驚いたぜ、フェルク人なのな。俺が術士だって言ったら向こうも驚いてたけどさ」
軽く笑いながら言うアルさん。
「皆の前で公言したのか?」
「いや、その二人にだけだ。その前に殿下がさ」
「医師たちにはもう帰っていいと告げてきた」
アルさんの後を王子が平然と続けた。
「え!?」
私は慌てる。
フォルゲンさんたちが帰ってしまったら話すチャンスが無くなってしまう。
それに、そんなにあっさりと大事なことを決めてしまっていいのだろうか。
「皆相当に疲れている様子だったからな。長い者は一月も前から城に滞在しているらしい」
溜め息交じりに言う王子を見て小さく驚く。
(ちゃんと、お医者さんたちのこと考えてのことなんだ)
……そういうことなら仕方ない。こちらからフォルゲンさんたちの診療所に赴いてもいいのだから。
同時に街でのことを思い出した。
「そういえば、街の人たち困っていました。お医者さんが全くいなくなってしまったって」
すると王子は心底呆れたようにもう一度息を吐いた。
「当たり前だ。全く、何を考えているんだプラーヌスの奴は」
「あの人もあの人なりに王様を助けるために必死なんじゃないですか?」
アルさんが苦笑しながら言うと王子はふんと鼻で笑った。
「どうだかな」
と、その時もう一度ノックの音がして王子は口を噤んだ。
「はい?」
アルさんが返事をすると、「お食事をお持ちしました」 と女性の声が聞こえてきた。
「さて、では戻るか」
王子がアルさんに言うのを聞いて、あれ?と思う。
「あの、ア……デイヴィス先生の食事は」
「僕の部屋へ運ぶように言ってある」
「また後でな!」
王子が扉を開けると、廊下にいた私とそう年の変わらなそうな女の子は慌てたように場所を開け深く頭を下げた。
王子はそんな彼女に「ご苦労」 と短く声を掛け、アルさんと共に部屋を出て行った。
「びっくりしたぁ。殿下に声掛けてもらっちゃった……」
それを見送りながら思わずといった感じで彼女が呟くのが聞こえてしまった。
目が合うとはっとした顔で彼女は頭を下げた。
「し、失礼しました。お食事を持ってまいりました」
「ありがとうございます」
なんとなく親近感を覚えながら笑顔でお礼を言うと彼女はワゴンを持って部屋に入ってきた。
ふわっとした長い髪をひとまとめにしたその子は緊張した面持ちで私たちの前まで来ると、ワゴンの上のものをテーブルへと移していく。
「あ、私もやります」
「え!?」
ここはレストランじゃない。私も彼女と一緒にワゴンの上のお皿をテーブルに置くと彼女は慌てたような顔をした。
「それにそんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。私たちはただの助手ですから」
「で、ですが、ツェリウス殿下の御客人と伺っておりますので」
「まぁ、それはそうなんですが……」
この世界ではなかなか同い年くらいの子と話せる機会がない。だから友達とまでは行かなくとも少しお喋りが出来たらと思ったのだが、やはり無理だろうか。
「貴女から見て殿下はどういう方だ?」
と、セリーンが彼女にそう訊ねた。
確かに彼女のようにお城で働いている人たちは王子のことをどう思っているのだろう。純粋に気になる。
すると彼女は急にぽぽぽっと頬を赤らめた。
「ツェリウス殿下は聡明で見目麗しく私ども目下の者にもあのようにお優しく、この国の全ての女性の憧れのお方です!」
「そ、そうなのか」
興奮気味に一気に捲し立てられてセリーンも私も少々圧倒されてしまった。
「はい! ですので無事お帰りになられて本当に良かったねと先ほどから厨房でもその話でもちきりで……あ、し、失礼しました!」
またも慌てたように頭を下げたその子にセリーンは首を振る。
「いや、訊いたのは私だ。ありがとう」
「殿下は、皆から好かれているんですね」
なんだか嬉しくて私がそう続けると、そこでふっと彼女の顏が曇ってしまった。
「……中には殿下の出生について悪く言う者もおります。ですが、私どものような平民で殿下のことを悪く言う者はひとりもおりません!」
それを聞いて胸があたたかくなった。パケム島でクラヴィスさんが言っていた通りだ。
(ドナにも聞かせてあげたかったなぁ)
料理を全て並べ終え、彼女は少し恥ずかしそうに部屋を去っていった。
「王子、皆に好かれているんだね。なんか安心しちゃった」
椅子に座りながら言うとセリーンはなんだか曖昧に笑った。
「しかし、ドナは城に来たら色々と大変そうだな」
「あ~、確かに……」
私も苦笑する。
王子があんなに女性に人気だとは思わなかった。
(でもきっとドナなら、それに王子なら平気だよね……?)
その後、セリーンは楽しみにしていた宮廷料理に終始ご満悦の様子で、その食材や料理法について熱く語りながらじっくりと味わっていた。
――ラグは、その料理が冷たくなっても戻っては来なかった。




