4.ヴァロール街の親子
先ほどまでの楽しげな雰囲気から一転、広場は緊迫した空気に包まれた。
「屋根からって……」
周囲の建物の屋根を見上げて思わず青ざめる。
少なくともここから見える建物のほとんどが2、3階建て。あの高さから落ちたのなら軽傷では済まないだろう。運が悪ければ……。
「誰か助けてくれー!」
叫び声はどんどん切羽詰ったものになっていく。だが名乗り出る者はいない。
「なんだ。この街には医者がいないのか?」
セリーンが眉を顰め街の人々を見回す。
確かにこれだけ人の多い栄えた街にお医者さんが一人もいないというのはおかしい。と。
「この辺りの医者は皆宮殿に呼ばれちまってるって話は本当だったみたいだね」
半ば呆れたふうに言ったのは先ほどの踊り子の女性だった。
「そんな……」
「そうだ」
思いついたように声を上げたのはセリーン。
その視線をラグに向け彼女は平然と言った。
「丁度良いではないか。貴様が医者になればいい」
「は?」
ラグが眉を寄せた直後、セリーンは男に向け大きく手を振った。
「医者ならここにいるぞー!」
「おい」
ラグが焦るように声を上げるが時すでに遅く、セリーンの声に気づいた男はすぐにこちらに駆け寄ってきた。
「あんたか!? 良かった、すまないがすぐに来てくれ! こっちだ」
「いや、オレは、」
30代程の中肉中背の男性はおそらくは違うと否定しかけたラグの腕を強引に掴み、物凄い勢いで引っ張っていってしまった。
(まだ服着替えてないのに……)
そんなことを思いながら呆然とその背中を見送っていると、
「ほら。私たちも行くぞ」
セリーンは何とも満足げな顔で私の肩に手を置いたのだった。
「親父! 医者だ、医者を連れてきたぞ!」
露店の並ぶ賑やかな通りから一歩奥まった路地。
男がラグを連れて入ったのは、その路地にある2階建ての家だった。
その高いオレンジ屋根を見上げ改めてぞっとする。
あの男性の親ならば50代か60代。もっと上の可能性もある。
私は後ろのセリーンと顔を見合わせ、ごくりと喉を鳴らしてから扉が開いたままのその家に足を踏み入れた。
「馬鹿野郎!」
途端聞こえてきたそんな怒鳴り声にびくりと肩をすくませる。
瞬間ラグかと思ったが声が全く違う。
ラグの背中と、彼をここまで連れて来た男性の背中が見えて、その向こうの部屋からだ。
「医者なんていらねぇって言ってんだろうが!」
その迫力あるダミ声の主は奥の部屋のベッドに腰かけていた。
年齢は60代ほどで白髪交じりではあったが予想に反してかなりガタイが良く、私は驚くと共に少しほっとした。
もっと重症かと思ったがベッドに腰掛けていられるほどだ。それにここまでの大声が出せるのなら、そこまで心配はいらないかもしれない。
「大げさなんだおめえはよ。ちーと足をひねっただけだって言ってんだろ。俺を誰だと思ってんだ」
「ちょっとひねっただけでこんなに腫れないだろう! すまないが、ちょっと見てやってくれないか」
息子がラグを振り向き申し訳なさそうに言うと父親は睨むようにラグを見上げた。
「ふん、随分と若造だな。信用できるのか?」
「親父!」
息子に諌められ父親はもう一度ふんっと鼻を鳴らしそっぽを向いてしまった。
思ったよりも元気そうなのは良かったけれど、なんだか別の意味で心配になってくる。
ここからその表情は見えないけれど、先ほどからずっと無言なラグ。
(だ、大丈夫かな)
ハラハラしながらその背中を見つめていると、
「相変わらずの頑固者だな、ドゥルスよ」
突然、背後でそんな声が上がった。
驚き振り返るとセリーンが妙に嬉しそうに目を細めていて。
「あぁ?」
訝しげにこちらに視線を向けたのは父親。その瞳が驚きに見開かれていく。
「その赤毛……おめえ、ひょっとしてセリーンか!?」
(え、知り合い?)
もう一度セリーンを見上げると彼女はやはり嬉しそうに頷いた。
「久しぶりだな、ドゥルス。元気そうで何よりだ」
セリーンが言うと父親――ドゥルスという名らしい――は先ほどとはまるで別人のように顔を緩ませた。
それどころかその眼にはうっすら涙まで浮かんでいるように見えて。
「久しぶりなんてもんじゃねぇだろ! おめえ……っ」
立ち上がろうと腰を浮かせたドゥルスさんの顔が苦痛に歪む。
「あぁ、今は元気では無かったな。無理はするなドゥルス」
支えようと近寄った息子を邪険に払いのけ、彼は再び怒りを露わにした。
「無理なんてしてねぇ! まったく、どいつもこいつも年寄扱いしやがって。俺はまだまだ現役だぞ!?」
「わかったわかった」
「あの、親父と知り合いなんですか?」
私がいつ口に出そうかと思っていた疑問は、彼の息子が訊いてくれた。
「あぁ。もう10年ほど前になるか。私がまだ駆け出しの頃戦場で知り合ってな。親父さんにはとても世話になった」
その頃を懐かしむように言うセリーン。
(戦場……)
ということはこのドゥルスさんも、セリーンと同じ傭兵なのだろうか。
「それよりもドゥルス。早くその男に足を治してもらうといい。一瞬で治るぞ」
「一瞬? 嘘を吐け」
鼻で笑うように言ったドゥルスさんにセリーンはさらりと続けた。
「その男は術士だからな」
「!?」
ドゥルスさんとその息子、そして私も驚く。
言ってしまって良かったのだろうか。
ラグはまだ背を向けたままでその表情はわからない。
「この若造が、術士?」
「あぁ。医者で術士だ」
そこで大きな舌打ちが聞こえた。無論ラグだ。
彼はセリーンを睨み見る。
「オレはまだ治すなんて一言も」
「ドゥルスは城に仕える騎士だ」
ラグの文句に被るようにセリーン。
「少なくとも10年前は、だが」
「今も現役だって言ってんだろ!」
すかさずドゥルスさんが怒鳴る。
「それは何よりだ。それに確か、奥方も城勤めだったな」
「あ? あぁ。そうだが……」
怪訝そうにドゥルスさんが答えると、セリーンは満足げに頷き再度ラグを見た。
「損は無いと思うが?」
ラグが悔しげに言葉を詰まらせた。
言い方は悪いがここでお城の関係者に恩を売っておけば、後々動きやすくなるかもしれない――そういうことだろう。
確かに未知のお城の中に知り合いがいたら何かと心強い。
それに、セリーンが男の人相手にこんなに饒舌になるなんて。余程ドゥルスさんを信用しているということだ。
(きっと術士だって言っても大丈夫な人ってことなんだよね)
セリーンは次にドゥルスさんに視線を向けた。
「ドゥルスも自分でわかっていると思うが、そのままにしておけば引退は避けられないぞ。最悪歩けなくなってもいいのか?」
「ぐっ……」
ドゥルスさんも低く喉を鳴らし、赤黒く腫れあがった自分の足を見つめた。
ラグがセリーンを鋭く睨み付けながら口を開く。
「お前が今すぐにここを出ていって、しばらく帰ってこないと約束するなら」
「あぁ。構わないぞ」
あっさりと承諾したセリーンに驚く。ラグも少し拍子抜けしたような顔。
早くドゥルスさんを治してほしいのか、それとも流石に昔お世話になった彼には自分の意外過ぎる一面を知られたくないのだろうか。
「では私はしばらく外に出ているとしよう。ドゥルスよ、すぐに治してもらうのだぞ。また後でな」
皆が見送る中、セリーンはさっさと家を出ていってしまった。
「カノン」
「え?」
ラグに目線で確認しろと言われ慌てて外に出る。だがもうその路地に彼女の姿は無かった。
首を横に振りながら戻るとラグは怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだか知らねえが、セリーンがああも言うなら信じる他ねえな。頼む。さっさとやっちまってくれ、術士さんよ!」
覚悟を決めたようにドゥルスさんがラグに頭を垂れた。
ラグはまだ外を警戒しているようだったけれど、そんなドゥルスさんを見て小さく息を吐いた。
ゆっくりと膝をついたラグに腫れた部分を遠慮なく触れられドゥルスさんは瞬間顔をしかめる。そして。
「癒しを此処に……」
彼の、術を使う時にだけ聞ける優しい声音が小さく部屋に響いた。
自分の足を緊張した面持ちで凝視するドゥルスさん。
そんな二人を息子さんが固唾を呑んで見守っている。
彼の癒しの術の凄さを、身をもって知っている私も知らず肩に力が入っていた。
(でも、ラグってなんだかんだ言って怪我している人を放っておけないんだよね)
セリーンも、そしてフェルクではブライト君も彼に命を救われている。
ひょっとしたら本当に彼はお医者さんに向いているのではないのだろうか。
そういえば王子も、昔は術士の多くが医師をしていたと言っていた。
(今もそのままだったら、術士だからって怖がる人もいなかっただろうにな……)
そんなことを考えていると、ラグが再び短く息を吐いて立ち上がった。
終わったみたいだ。
見ると、ついさっきまであんなに痛々しく腫れあがっていた足に、もう何の異常も見られなくてほっと息をつく。
ドゥルスさんはゆっくりとその部分に手を触れ、そのあと軽く叩き、更にはその足でドンドンと強く床を打ち鳴らして見せた。そして。
「すげえ! 完全に治っちまったぜ!」
その顔が嬉しそうに輝いた。
「若造なんて言っちまって悪かったな! ありがとうよ、術士の兄ちゃ――」
お礼の途中でドゥルスさんは息を呑む。
そう。私はもう見慣れてしまったが、ドゥルスさんたち二人には驚くべきことが起こったのだ。
「こりゃあ、どういうこった。本当に若造になっちまった……」
例によって小さくなってしまったラグをぽかんと口を開け見つめる二人。
「……治してやったんだ。いくつか訊きたいことがある」
俯いたまま、絞り出したような声で言う小さなラグ。見ると案の定その耳が少し赤くなっていた。
だがドゥルスさんたち親子はまだ呆然としたまま、ただラグを見つめるだけ。
耐え切れなくなったのか、ラグが勢いよく顔を上げた。
「聞いてんのか!」
「戻ってきたぞ愛しの子ーー!!」
ラグが怒声を上げると同時、飛び込んできたのはそんな歓声。
びっくりして振り返ったときにはもう彼女の姿は無く、
「んな!? やっぱりてめぇ、約束が違ぐえっ!」
逃げる間もなくセリーンに羽交い絞めにされたラグが潰されたカエルのような呻き声を上げた。
(やっぱり……)
「てめぇ! しばらく帰ってくるなって言っただろーが!!」
「約束ならちゃんと守ったぞ。しばらく戻らなかっただろう? 本当はもっと早くに戻ってきたかったんだからな。この頑張りを褒めて欲しいくらいだ!」
「誰が褒めるかああぁ! くっそおおおーーーー!!」
「…………」
私は例によって苦笑するしかなく、それを見てしまった親子は先ほどよりも更に口を大きく開けていた。
「ドゥルスの足も治り、私もこの子に逢えてまさに一石二鳥だ! これでまだまだ現役で働けるなドゥルスよ」
セリーンのその言葉で、ようやく親子は我に返ったようだった。
「あ、あぁ。それより、そいつはなんなんだ? 急にちびになっちまったぞ」
「この子か? この子はこういう体質でな。術を使うとこんなに愛らしい姿を見せてくれるんだ」
「体質じゃねーし愛らしくもねぇ!」
「……セリーン、おめえは随分と変わったな。そんな顔出来るなんて思わなかったぜ」
ドゥルスさんが苦笑交じりに言うと、セリーンは満面の笑みで答えた。
「幸せだからな」
「そうか」
そんな会話を聞いていて、二人の過去を知らない私もなんだか顔がほころんでしまった。
その間もずっとラグは怒鳴りながらその腕の中から出ようともがいているわけだけれど……。
小さなラグを気にしながら、息子が口を開いた。
「本当にありがとうございました。先ほどは取り乱してしまってろくに挨拶もせず……。私は息子のクストスといいます」
お父さんに比べるとかなり温和そうな人だ。
「私と同じ年ほどの息子がいるとは聞いていたが。私はセリーンだ」
ラグを抱えたまま、セリーンが真面目な顔で続けた。
「今この街の医者は皆宮殿に呼ばれているというのは本当なのか?」
「はい。王が今大変なのはわかるのですが……。正直、街の者は皆困っています。唯一残っていた医者も、つい昨日宮殿に連れていかれてしまって」
「あいつは医者じゃねえ!」
その急な怒声に驚く。ラグもぴたりと動きを止めたくらいだ。
「そう言ってるのは親父だけだよ」
「ふんっ」
鼻を鳴らしそっぽを向いてしまった父親に呆れたように息を吐くクストスさん。
(そのお医者さんと何かあったのかな?)
随分と嫌っているようだ。
「そういえばドゥルス、お前には息子の他に確かもう一人娘がいたのではなかったか?」
話を変えようとしたのか、セリーンがドゥルスさんに訊いた。
だが彼の機嫌は治るどころか、更に眉を寄せその口元がぴくぴくと痙攣した。
「……もうここにはいねぇ。勝手に出ていっちまった」
「勝手にじゃないだろ? 親父がもう帰ってくるななんて言っちまうから」
「うるせー! おめえは黙ってろ!」
再び怒鳴り声を上げたドゥルスさんにクストスさんは再び重い溜息を漏らした。
「妹は今話したその医者の助手をしているんです。親父はその彼が気に入らなくて、ずっと反対していて」
「黙ってろって言ってんだろ!」
(あぁ。そういうこと)
思わず苦笑してしまうような話だ。
きっとその二人は恋仲か、ひょっとしたらすでに夫婦なのかもしれない。
娘さんもそのお医者さんも大変だなぁと他人事ながらドゥルスさんのその仏頂面を見て思った。
「そうだったのか。では今妹も城に?」
「えぇ、そのはずです。彼はこの国に認められた医者ではないのですが、この国の医者には無い知識や技術を持っているので、王の容体も回復すればいいのですが」
「けっ」
やはり面白くなさそうなドゥルスさん。
「ほう。ではこの国の人間ではないということか」
「えぇ、フェルク人なんですよ」
「え!?」
思わず大きな声が出てしまっていた。
そんな私の反応に少し苦笑してクストスさんが続ける。
「驚きますよね。でも大戦後にこの国に来てからあっという間に街の皆に馴染んでしまって。今ではこの国の医者以上に皆に頼られているんです」
フェルク人で、大戦後にこの国に来て、腕の良いお医者さんで……。
(それって、ひょっとして)
セリーンとラグに視線を向けると、二人も私と同じ可能性に行き着いたよう。
私はドキドキしながらクストスさんに訊く。
「あの、そのお医者さんてもしかして、えっと……えーっと、あれ?」
私がその名前を一生懸命思い出そうとしていると、セリーンが助け船を出してくれた。
「確か、フォルゲンだ」
「そう! フォルゲンさん!」
するとクストスさんがきょとんとした顔をした。
「フォルゲンを知っているのですか?」
――やっぱり!
ブライト君のお兄さんで、ライゼちゃんの婚約者で、大戦後に奴隷としてどこかに連れていかれてしまったという、フォルゲンさん。
その彼がこの街に――!?
(……あれ、ちょっと待って?)
気付きたくなかったことに気づいてしまって、興奮した気持ちが急激に冷めていく。
でも確かめないわけにはいかなくて。
「あ、あの、妹さんとそのフォルゲンさんて、どういうご関係で……?」
「っかー! 胸糞悪い!」
この話題に耐え切れないというふうにドゥルスさんが怒鳴る。
「あいつはなあ、俺の可愛い娘をたぶらかしやがったんだ!」
「親父は相手が誰だって嫌なんだろ? 誰がどう見たって二人はとても仲の良い夫婦だよ」
予想していたこととはいえ、頭の中を鈍器で殴られたような衝撃が襲う。
(フォルゲンさん、一体どういうこと……?)




