15.約束
「カノン姉ちゃん、朝だよー!」
そんな元気で可愛らしい声にゆっくり目を開けると、視界いっぱいにモリスちゃんの顔があった。
「起きたー?」
「うん、モリスちゃんおはよう」
「おはよー」
「よく眠れた?」
「うん!」
満面の笑みが返ってきて、私も微笑む。
(良かった。モリスちゃん、もう大丈夫みたい)
起き上がって気付く。
「みんなは?」
ツリーハウスの中には私とモリスちゃんしかいなかった。
ひょっとして、一人寝過ごしてしまっただろうか。
「今、朝ごはんの準備してるよ」
それを聞いて私は焦って髪を纏めドアを開けた。
「遅えよ」
朝日の眩しさに目を瞬いていると低い声が聞こえた。ラグだ。
「ごめん、おはよう!」
するとラグはのそりと立ち上がり、いつもの不機嫌顔で私を見下ろした。
「飯食ったらすぐに出発するからな」
「うん。そうだね」
今日この島を発つことはわかっていたことだ。やはり寂しい気持ちはあるけれど、すっきりとした気分で頷くことが出来た。
と、そこで気付く。
「あ、それ」
彼の額に新しい布が巻かれていた。
「あぁ、昨日アルの奴が買った服を破ってな」
そういえば、すっかり忘れていたけれど、昨日アルさんは私たち3人に服を買ってくれたのだった。――額に巻かれたその布が、彼に似合わず少々派手目なのはそのせいか。
折角買った服を破られたアルさんの気持ちを思うと少し気の毒だったが、あの時仕舞ったままのビキニのような服を思い出し、私はこっそり苦笑した。
(多分、私も着る機会ないだろうなぁ……)
「いいなぁカノン姉ちゃん」
「え?」
視線を落とすと、モリスちゃんが私とラグをなぜか羨ましげに見上げていた。
「モリスもこのお兄ちゃんと一緒に旅がしたいなぁ」
思わずラグを見上げると、その顔が思いっきり引きつっていて危うく噴き出しそうになってしまった。
「モリスちゃんはこのお兄ちゃんが好きなんだね」
「うん、大好き! カッコいいもん!」
言いながらモリスちゃんがラグの足に飛びついた。
「良かったね、ラグ。こんな可愛い子に大好きって言ってもらえて」
にやにや笑いながら言うとラグはひきつった顔のままそっぽを向いてしまった。後ろ髪で寝ているブゥがその動きに合わせて揺れる。と、
「カノンちゃん起きたのかー? ――っと」
そんな声と共にアルさんがデッキに顔を出した。
「おはようございます。すみません、いっぱい寝ちゃって……?」
アルさんが呆けたように私たちを見上げていて首を傾げる。
「アルさん?」
「あ、いや……3人でそうしてっと、なんか仲良い親子みたいだなと思って」
「え」
私が間抜けな声を出すのと同時、ラグの足がアルさんの顔スレスレを掠めていた。
「くだらねぇこと言ってると落とすからな」
「あっぶねあっぶねー! 先輩の顔足蹴にしよーとするか普通!」
舌打ちするラグを見て、本当に蹴り落とすつもりだったのだとわかる。
モリスちゃんはそんな二人を見てキャッキャッと楽しそうに笑っていた。
「ったく。朝ご飯出来たからさ、3人とも下りてこいよ」
「はい。――あ、そうだ、アルさんもう平気ですか? お腹」
自分のお腹を触りながら小声で訊く。
「あぁ、もう全然平気! ちーとばかり驚いたけどな、愛の試練だと思えばあんなの軽い軽い! んじゃ、下で待ってるからなー」
「何が愛の試練だ。明け方近くまで呻いてやがったくせに」
アルさんが顔を引っ込めてすぐに呆れかえったようにラグが言った。
「そんなにだったんだ……。そういえば、私たちはセリーンの料理ってまだ食べたことないね」
「あいつ、確か美食家とか自分で言ってなかったか?」
嫌そうに顔を歪めるラグ。
「た、食べるのと作るのとはまた違うんだよきっと! それに今回だけかもしれないしさ」
そう苦笑しながらも、今後またこういう機会があったらまずアルさんに食べてもらおうと私は心に決めた。
朝食は、黒いお豆と野菜が入った“お粥”だった。
一見お赤飯にも似ているこの料理は、パケム島では朝の定番メニューであるらしい。
元いた世界でもこれに良く似た料理を食べていたのだとドナに話したかったけれど、ツェリ達の手前口に出すことは出来なかった。
私が美味しいと言うと、ドナは嬉しそうに笑ってくれた。
そして、いよいよ出立のときが来た。
「ビアンカお待たせ!」
私が駆け寄ると、彼女は大きな頭を持ち上げ、待っていましたよとばかりにチロチロと舌を出した。
「こ、これに乗って行くのですか?」
ビアンカを初めて見るクラヴィスさんが顔をひきつらせ言った。
「はい! 見た目怖いですけど、とっても優しくて乗り心地も良いんですよ!」
そう笑顔で言うが、やはりクラヴィスさんは不安そうにもう一度ビアンカの頭部を見上げた。
一緒に見送りに来てくれた子供たち4人も、皆ドナの後ろに固まって隠れおっかなびっくりという表情だ。
(仕方ないか。私も慣れるまでは怖かったし)
「しかし、これでは殿下は元に戻らなくてはなりませんね」
クラヴィスさんがまだモンスターの姿のままであるツェリを見下ろした。
確かに、今の姿でビアンカの背に乗るのは難しいだろう。
思わずビアンカに跨った今のツェリを想像し、ちょっと可愛いかもと思ってしまったことは内緒だ。
「そうだな。じゃあ、戻すからな」
ドナが少し緊張した面持ちでツェリに声をかけ、胸元の笛を口に当てた。
ピィーーっと、笛の音が高く響く。そしてみるみる本来の姿へと変化していくツェリウス王子。
角の折れてしまった額に特に異変は見られなくて少しほっとする。
しかし彼はやはり俯いたまま、ドナを見ようとはしなかった。
と、ドナは意を決したように笛を首から外し、そんな王子の前に差し出した。
「これ、今度こそ返すからな。これが無いと何かあったとき困るだろ?」
「…………」
王子は何も言わず、そして笛を受け取りもしない。
「殿下」
クラヴィスさんが促すように優しく声をかけるが、やはり王子は動かない。
と、しびれを切らしたらしいドナが王子の腕を無理やりに取りその手に笛を握らせた。
漸く、王子が驚いた顔で彼女を見る。
その瞳をまっすぐに見つめ、手を握ったままドナは口を開いた。
「ツェリ、色々とありがとな」
ドナは笑顔だった。
「このひと月、お前が居て楽しかったよ。向こうに行っても元気でな!」
すると王子は急に今にも泣きだしそうな顔になって、ドナの細い腕を引き寄せその身体を強く抱き締めた。
(きゃああああああー!)
思わず心の中で歓声を上げる。
「ツェリ!?」
ドナの顔が真っ赤に染まる。
そして聞こえてきた王子の第一声に皆が驚く。
「一緒に行こう、ドナ」
「な、何言ってんだ。無理に決まってんだろ? アタシなんかが」
「離れたくないんだ。ドナと、ずっと一緒にいたいんだ!」
「アタシだって……」
離れたくない、そう続けるのだと思った。
でもドナはそこで一旦口を噤むと、違う言葉を口にした。
「いつかツェリが立派な王様になってさ、それでもアタシのこと覚えてたら……その時も、まだアタシが必要だったら、迎えに来てくれよ」
(ドナ……)
その表情はとても綺麗で、でも今にも崩れてしまいそうで、見ていて胸が痛かった。
「そんなの、いつになるかわからないじゃないか! 王になれるかどうかもわからないのに!」
王子が声を荒げる。
「なれるよ、お前だったら」
ドナは王子の腕をやんわりと外して言う。
「アタシ、王様とか役人とか偉い奴らって大嫌いだったけどさ、お前に会って変わったんだ。だから最初王子だって聞いても信じられなかったけど」
ドナはふっと笑って続ける。
「全然偉ぶったりしないし、こいつらと一緒になって子供みたいに遊んでさ。全然王子様っぽくないんだもんな!」
モリスちゃんとトム君、そしてアドリ―君とリビィ君が笑顔で頷き王子を見上げた。
――そんなふうに楽しげに遊ぶ王子の姿は私には想像がつかなかったけれど、子供たちの表情を見ていれば、この一ヶ月が彼らにとってどんなに楽しいものだったかわかる気がした。
「確かに貴方様は王子らしさに欠けるかもしれません」
そう話に入ったのはクラヴィスさんだった。
王子がそんな彼を睨みつける。
「クラヴィス……。なんだよ、そんなの今更だろ。だから僕は」
「ですが、そんな貴方様を王に推す声が、今国中で高まりつつあることをご存じですか?」
「え?」
「それは古い考えにとらわれているからではありません。皆、平民の出である貴方様に親しみを抱いているからです」
驚く王子に、クラヴィスさんが微笑みながら続ける。
「ツェリウス殿下。貴方様はその生い立ちから、デュックス様には知りえない平民の苦しみ、そして王子としての苦しみ、両方を知っておいでだ。だからこそ、デュックス派の者達は貴方様を恐れているのですよ」
それを聞き、ドナが自分のことのように目を輝かせた。
「ほらな! お前なら皆に好かれる立派な王様になれるって。モリスたちもそう思うだろ?」
茫然としながらも、王子はモリスちゃんたちに視線を向けた。
「うん! ツェリが王様になったらモリスも嬉しい!」
「なんか面白い国になりそうだよな」
「うん。お菓子がいっぱいの楽しい国になりそう!」
モリスちゃんに続いて、アドリー君とリビィ君が満面の笑みで言う。
――お菓子と言えば、朝たくさんのお菓子を目の前にした子供たちは思った通り大喜びしたそうだ。恥ずかしながら、私は寝ていてその場は見られなかったけれど……。
「お前ら……」
王子の瞳が再び潤むのを見た。
ドナが満足げな表情で言う。
「それにさ、お前が王様になれば、アタシたちみたいな親無しももう少し楽に暮らせるような国にしてくれるだろ?」
「! ――あぁ。絶対に」
王子が、初めて大きくはっきりと頷いた。ドナから受け取った笛をしっかりと握りしめて。
その顔が急に“王子様”に見えた。――それが、彼が覚悟を決めた瞬間だったのかもしれない。
「ドナ姉ちゃんは、ツェリが来てくれるまで俺たちが守るよ。だから絶対に迎えに来いよな」
そう言ったのはノービス一家の長男であるトム君。
「トム……色々と悪かった。僕がモリスにお菓子の話なんかしたばっかりに」
トム君が首を横に振る。
「悪いことをしたのは俺だから」
その会話で、トム君がお菓子泥棒をしたそもそものきっかけがわかった気がした。
「ツェリこそ角折っちまって、平気だったのか?」
「あぁ。あれは生え変わるもんだから、折ったって痛みも何もないんだ」
そう聞いて、トム君だけでなく皆がほっとした顔をした。
そして、王子は再びドナをまっすぐに見つめる。
その瞳にもう迷いは無かった。
「ドナ。僕、立派な王になって絶対にドナを迎えに来るから。だから、待っていてくれ」
ドナはそんなツェリウス王子を眩しげに見つめ、それから少し頬を染めしっかりと頷いた。
そして私たち総勢6人(+1匹)はビアンカの背に跨った。
ラグとアルさんの間に王子とクラヴィスさんが乗り、その後ろに私、セリーンという順番だ。
ビアンカは人数が増えても戸惑う様子なく、ばさりとその翼を大きく動かした。
「カノン姉ちゃん、バイバイ! お歌歌ってくれてどうもありがとう!」
モリスちゃんが可愛らしい笑顔で両手を振ってくれていた。
「バイバイ、モリスちゃん。元気でね!」
「兄ちゃん達、ありがとうな」
そうラグとアルさんに向けて言ったのはトム君だ。
「俺も、兄ちゃん達みたいに強くなれるように頑張るよ」
「いやいや、トムはもう十分強いって。これからも男として、家族をしっかり守るんだぞ!」
アルさんのその言葉に、トム君は強く頷いた。
と、そのときモリスちゃんが恥ずかしそうにトム君の前に出て、アルさんへ小さな包みを差し出した。
「お兄ちゃん、これあげる」
「ん?」
手を伸ばし包みを受け取るアルさん。
それを開けた途端、彼の顔が光り輝いた。
「ティコ入りのお菓子じゃねーか! も、もらっちゃっていいのか?」
「うん。お兄ちゃんこのお菓子が大好きなんでしょ?」
モリスちゃんの可愛らしい笑顔、そしてその傍らに立つトム君のはにかむような笑顔にアルさんは感激したように身体を震わせた。
目が潤んで見えたのは気のせいじゃなかったかもしれない。
(そういえば、ティコのためにこの島に降りたんだっけ……)
そのおかげでドナ達と出逢えたわけで。
更には銀のセイレーンについて、少しだけその謎に触れることができた。
(ある意味、アルさんには感謝しなきゃだよね)
ラグはどう思っているか知らないけれど。
そう思いちらりと彼の方を見ると、案の定呆れたふうにそんなアルさんと子供たちを見ていた。
「ありがとうな! 大事に食べるからな!!」
アルさんに笑顔で言われ、モリスちゃんもトム君も嬉しそうに笑った。
それから私も一人一人にさよならを言って、最後ドナと目が合った。
「ドナ、元気でね」
「あぁ、カノンもな」
「うん」
「アタシ、カノンに教えてもらった歌、ずっと歌ってくからな。ばあちゃんになっても、ずっと!」
「うん、うん!」
私は何度も頷く。
笑顔でさよならしたかったのに、出来ると思ったのに、結局ここで限界だった。
「私、此処で、ドナと友達になれて嬉しかった!」
「アタシもだ! ずっとずっと友達だからな!」
ぼやける視界の中でドナが顔を真っ赤にして泣いていた。私もきっと今同じような顔をしているのだろう。
「うん! ずっと、ずっと友達だよ!!」
そこで、ビアンカが地面を離れるのがわかった。
「ドナ! 絶対に迎えに来るからな! 待っていてくれよ!!」
「みんな、元気でねー!」
最後、王子と私の声とが重なった。
風音にかき消されドナ達の声はもう届かなかったけれど、ノービス一家全員が大きく手を振ってくれているのが見えた。
そしてあっという間にその姿も見えなくなる。
「ほらカノン、これを使え」
そう言って、後ろからハンカチが差し出された。
私はセリーンにお礼を言って涙を拭う。
――ライゼちゃんと別れるときもそうだったけれど、もう二度と会えないとわかっていてさよならするのはやはり辛い。
「やー、俺も思わずもらい泣きしちゃったわ」
アルさんのそんな声が聞こえてきた。
「お前はさっきティコもらって泣いてただろーが。いつまたユビルスの奴らが来るかわかんねーんだからな。しっかりしろよ」
続いてラグの呆れ声。
「なんだよー。お前だってなぁ、カノンちゃんと別れる日が来たら辛いだろ? 絶対泣くだろ!?」
「なんでそういう話になるんだ!」
ラグの怒声が聞こえてきて、その顔は見えなかったけれどなんとなく顔を赤くしているような気がして、ハンカチで口元を隠しながら小さく笑う。
(……でも、本当にいつかラグ達ともお別れするときが来るんだよね)
そう思ったら、また涙が滲んできてしまって困った。
私はこの世界の住人ではない。
元の世界に帰るために今こうして旅をしていて、この世界の皆との別れはどうしたって避けられないことだ。
ふと、ドナの言葉を思い出す。
――早くいなくなってくれた方がさ、寂しい気持ちも少なくて済むだろ?
(そうだ。長くいればいるほど、その分別れが辛くなっちゃう……)
早く、帰らなくちゃ。
改めてそう決意を固め、顔を上げた。と、
「俺はセリーンともし別れるなんてことになったら間違いなく泣くね。まぁ、離れる気はないんだけどな」
アルさんがこちらを振り向き、私の背後へと熱い視線を送った。
「カノンとの別れは辛いだろうが、貴様との別れは涙が出るほど嬉しいだろうな。今すぐ視界から消えて欲しいくらいだ。むしろ今すぐ落としていいか?」
「相変わらずひっどぉー! でも無視は無くなっただけ進歩したのかなー? うっうっ」
「あはは、皆さんラブラブで羨ましいですね、殿下」
そう笑いながら言ったのはクラヴィスさんで、私は思わず噴き出しそうになってしまった。
(ラブラブって……)
王子がゆっくりと振り向きクラヴィスさんを睨み上げる。
「煩いぞ、クラヴィス。僕とドナだってラブラブだったんだ。お前さえ来なければな!」
「仕方ないでしょう。私の人生がかかっているんですから。お蔭様でどうにか降格しないで済みそうですよ。本当に良かった」
「……王になったらお前なんか真っ先に護衛から外してやるからな」
「こんなにやる気になってくださって、死ぬ思いまでして身体を張った甲斐がありました。このクラヴィス、貴方様が王になる日を心から楽しみにしていますよ」
そんな二人の会話を聞いていたら、なんだか涙が引っ込んでしまった。
(な、なんか、クラヴィスさんのイメージが……)
「クラヴィス、お前さん性格変わってないか? それとも元からそんななのか?」
アルさんも、私と同じ違和感を覚えたみたいだ。
「こいつは前からこんなだ」
そうつっけんどんに答えたのは王子で、クラヴィスさんはとっても爽やかな笑顔をこちらに向けた。
「私、人見知りする性質なんです。どうも初めは緊張してしまって本来の自分を出せないと言いますか……。皆さんお優しい方で本当に良かった。城に戻るまでどうぞよろしくお願いしますね。アルディートさん」
「あ、あぁ」
アルさんが、確実に顔をひきつらせているだろう乾いた笑いをしながら頷いた。
このメンバーでの旅に少しばかり不安を感じ、私もこっそりと苦笑する。
元々の目的地であるクレドヴァロール大陸まで、約二日。
王子たちを無事お城まで送り届けられますように……そう私は見上げた青い空へと願った。




