4.私に出来ること
エレヴァートとランフォルセとを結ぶ唯一の街道……と言っても舗装なんてされているはずもなく、単に山道のそれであったが……今また新雪が積もりつつあるその長い一本道をアレキサンダーが風を切るようにして走っていた。
はたから見たらその姿は優雅に映ったかもしれない。――でも、その乗り心地は最悪だった。
まず何より、お尻が痛くてたまらなかった。口が自由であったなら、こんな状況でなかったらきっと「止めて!」と叫んでいたに違いない。
乗馬はお尻が痛くなると聞いたことはあったけれど、ここまで辛いものだとは思わなかった。
そしてそのスピードも想像以上だった。男曰く積雪のせいでこれでも本来の速さではないらしいが、私には雪など全く障害になっていないように思えた。確かに、この速さで落下したらと思うとぞっとした。
更には冷たい雪と風が直接顔に当たりほとんど目を開けていられず、しかし防寒具を着こんでいなくとも体にそこまでの寒さを感じなかったのは、皮肉なことにその男によって後ろからがっしりと抱え込まれているからだった。
男の名はフィエールと言うらしい。本当はもっと長い名前を言われたのだが、一度では覚えられなかった。
私を捕まえられたことで相当に気分が良いのか、彼は何も答えられない私のすぐ頭上で色々なことをペラペラと喋ってくれた。
自分はランフォルセ国内でも指折りの剣の使い手であり王直属の近衛騎士で、これまでに王から名誉ある勲章をいくつも与えられそれが自分の誇りであるなど、ほぼ自慢話ばかりであったが、私に関わる重要な話もあった。
「ストレッタが魔導術士だけでなく銀のセイレーンという更なる脅威を手にすることを王は懸念しておられる。もしお前が王に忠誠を誓うならば王はお前を悪いようにはしないだろう」
初めその意味はわからなかった。
銀のセイレーンを脅威と恐れるのはわかる。だが忠誠を誓えば、というのはどういうことだろう。
けれど以前ルバートで私を生け捕りにしようとしていた兵士たち、そしてその時のラグの言葉を思い出してはっとした。
――その力を利用したくなったか……。なんにしろ、他の国に渡って欲しくはないだろうな。
ラグの考え通り、銀のセイレーンの力を利用……自国の力にしようということなのだろうか。
私にそんな脅威になるほどの力は無いし、ストレッタとも何の関係もないというのに……。
ラグに、今すぐに伝えたいと思った。
(ラグ、ストレッタに着けたのかな……)
彼は私が連れて行かれたとわかったらどうするだろう。
ラグはいつも助けに来てくれた。最初に会った時も、ルバートでも、そしてフェルクのあの村でも。
彼には私を助ける理由がある。だからきっとまた……いや、それとも、いい加減面倒だと今度こそ見放されてしまうだろうか。
どちらにしても今回は距離が離れ過ぎている。助けに来てくれたとして、それまで私が無事でいられるかどうかもわからない。
ランフォルセに着いて私が何の役にも立たないとわかったら、おそらくはすぐに処刑されてしまうだろうから……。
思わず後ろで繋がれた両手を祈るように強く握っていた。
それに一番気掛かりなのはセリーンだ。
空は相変わらず厚い雪雲のせいで薄暗く、あれから何時間が経過しているのか全くわからなかったが、もう手当は終わっただろうか。あの街に医者はいるのだろうか。――そして、セリーンは再び剣を握ることができるだろうか。
私を守るために重傷を負った彼女。もしフィエールの言う通り、傭兵である彼女が剣を持てなくなってしまったら――そう思うと胸が痛くてたまらなかった。
不安ばかりでこの後のことを考えると怖くてたまらないのに、それでもなんとか絶望せずにいられたのは、エルネストさんの存在があったからだ。
いつも見守っていると言っていた彼。その言葉が今の私の支えになっていた。
ルバートで私が一人になってしまったとき、セリーンの前に現れたという彼。
もしかしたら今回も――。
「近くに川があるな。少し休憩するとしよう」
上から降って来たその声に正直ものすごくほっとした。
ようやく、少しの間だけでもお尻の痛みから解放される。
それに川と聞いて思わず喉が鳴っていた。身体が水分を欲していた。結局朝から何も口にしていないままだ。
でも、フィエールがこの猿轡を簡単に外してくれるとも思えない。でもなんとか、口の中に入っている布を湿らせてくれるだけでもいい。少しでも水を飲みたかった。
そして確かに少しして小さく水音が聞こえてきた。
「降りろ」
先にアレキサンダーから降りたフィエールにそう言われ、両手が使えない状態でどうやってこの高さから降りればいいのかとキョロキョロとしていると小さくため息が聞こえた気がした。
「歌が無ければ本当にただの小娘だな」
呆れたように、まるで誰かのように言われて思わずむっとする。
「何も知らない者が見たら、私の方が悪人のようではないか」
無遠慮に伸びてきた腕にわき腹を掴まれ私は軽く地面に……いや、雪面に下ろされた。
目の前には幅3メートルほどの川がゆったりと流れていた。
雪の積もった大きな岩や石がそこら中にごろごろしていて、川に近づくには十分に気をつけないと滑って転んでしまいそうだ。
ちらちらと舞い降りてくる雪が次々に水面で解けて消えていく様は、状況が状況でなければとても幻想的な風景に映っただろう。
「逃げようなどと考えるなよ」
言われて私は不本意ながらも小さく頷く。
――全く考えなかったわけではないが、たとえこの男から逃げきれたとしても一人でこの雪山に残されて無事でいられるとは思わなかった。
しかし寒い。手が自由であったら今すぐ自分の身体を抱きしめたかった。
それにお尻がひりひりと痺れて、後ろで縛られている手で恐る恐る触れてみたがそこはすでに感覚が無くなっていてげんなりする。
極めつけにまた熱が上がって来たのが、それともずっと緊張の中にいるせいなのか、頭の芯がぼうっとして立ちくらみがした。
バシャっという水音に気付いて見ると、アレキサンダーが水面に口をつけたところだった。
フィエールもその傍らで腰を屈め、革の袋のようなものに川の水をたっぷりと入れていた。そしてそれをごくごくと美味しそうに飲み始めた。
またもごくりと鳴る喉。私が一歩動くとフィエールの容赦無い視線が飛んできた。
「なんだ? お前も水が欲しいのか?」
思わずコクコクと頷く。すると男は立ち上がりその革袋を持って私に近寄って来た。
やっと水が飲める! そう思った次の瞬間、私の前に差し出されたのは水ではなくて、ギラリと光る剣先だった。
「水を飲む間だけそれを外してやる。だが少しでも声を出したなら……わかっているな」
喉元に剣を突き付けられ、私は全身を硬直させながらも小刻みに何度も頷いた。
辺りが薄暗くなり視界が悪くなってきてもアレキサンダーは全くスピードを緩めなかった。それどころか少し前に雪が止み、更に速くなっているように思えた。
フィエール曰くアレキサンダーは夜目が効くらしく、夜の合間も走り続けることが可能なのだそうだ。
ラグの予想よりもストレッタへの到着が早かったのはこのせいかもしれないと、私は朦朧とする頭で考えていた。
――確実に熱が上がってきていた。
お尻の痛みは流石に慣れてきたのか、それとも感覚が無くなってしまったせいかそれほど気にはならなくなっていたが、それよりも今は意識を保つのに精いっぱいだった。
睡魔とは違う別の何かに呑み込まれそうで、私は必死で目を開け前方を見つめていた。――そんな時だった。
アレキサンダーが突然、急ブレーキを掛けたように足を止めた。
「!」
頭が大きく揺れたせいで激しい頭痛と眩暈に襲われる。……フィエールに支えられていなかったら、きっとアレキサンダーの鬣に思いっきり顔面から突っ込んでいただろう。
「どう、どう、アレキサンダー、大丈夫だ。全く、運が悪いな。……モンスターか」
「!?」
その言葉に私は慌てて顔を上げ辺りを見回した。しかしもうどこも真っ暗で何もわからない。
ただ、グゥルルルという低い音……いや、唸り声が確かに前方から聞こえた気がした。
ドクン、ドクンと、それでなくとも熱のせいで速くなっている胸の鼓動が頭に重く響く。
「動くなよ」
それはおそらく私への言葉。
私を支えていた腕が離れ、揺れと雪を踏みしめる音とでフィエールがアレキサンダーから降りたのだとわかった。
ぞくりと身体が震えたのは人の温もりが無くなったせいか、それとも恐怖によるものだろうか。
私は目をこらしてフィエールの姿を追う。だがその後ろ姿もすぐに暗闇に溶け込み見えなくなってしまった。
途端不安に駆られ、ぱっと背後を振り返る。もし後ろに敵がいたら……そう思ったのだが、やはり闇が広がるばかりで何も見えなかった。左右を確認して、そしてもう一度前方を見つめた――その時だ。
厚い雲の切れ間からそれまで隠れていた月が一瞬だけ顔を出し、淡い光が“それ”を照らし出した。
(ひっ……!)
思わず息を呑んでいた。
フィエールの背の向こうに見えたのは、大きな大きな“熊”もどきだった。
近くにいるフィエールよりも一回りも二回りも大きく見えたのは、おそらく見間違えではないだろう。
そいつも今の月明かりでこちらの姿を確認したのだろうか、威嚇するように鋭い雄叫びを上げた。その場の空気を震わすようなその大きな声に、私は身体を縮こませる。
金属を擦り合わせる音が聞こえて、フィエールが己の剣を抜いたのだとわかった。そして直後、雪面を強く蹴る足音。
――この闇の中で、フィエールは勝てるのだろうか。もし勝てなかったら……。
私は震えてしょうがない自分の身体を叱咤し、ランフォルセで指折りの剣士だと自分で言っていたフィエールを心の底から応援した。
雪を蹴散らすような忙しない足音と衣擦れの音、そして肉の裂ける嫌な音が数回聞こえた気がした。怒り狂ったような雄叫びが何度も上がった。――そして、耳を塞ぎたくなるような絶叫が夜の雪山を震わせた。
ズンっ……と地面が揺れるような重い音が聞こえて、少しの合間その場に静けさが訪れた。
息をするのも忘れて前方の闇を凝視する。
「……ふぅ」
確かに人間の吐息が聞こえて、フィエールが勝ったのだということがわかった。
そしてこちらに近づいてくる足音。
「もう大丈夫だ、アレキサンダー」
優しげな声と共に彼の無事な姿が闇から現れて、私はそれまで怒らせていた肩を盛大に落としたのだった。
「ん? なんだ、寝たのか?」
その言葉で自分がフィエールの右腕に全体重を掛けていたことに気付いた。
私は慌てて体勢を立て直し気を引き締めた。しかしそれも長くは続かない。すぐに左右どちらかへ身体が傾いてしまう。
先ほどの緊張もあってか、いよいよ身体がおかしくなっていた。気を抜くとすぐにでも意識が遠のいてしまいそうだ。
「おい、落馬したいのか。……それにしても、お前は体温が高いな。やはり見かけは人でも化け物ということか」
その言葉に思わず首を横に振っていた。
(私は化け物なんかじゃない……!)
ただの、ごく普通の女子高生だったのだ。この世界に来るまでは。
ただ歌を歌ってちょっと不思議なことが起こるだけなのに、化け物呼ばわりされるなんてあまりに酷すぎる。
知らず涙が滲んでいた。
「それとも、単に熱があるなどというわけではあるまいな」
私はそれには何も応えなかった。体調が悪いと伝えられたとしてもこの状況が変わるとは思えない。
フィエールはそれでも少しばかり不安になったのか、少し間を置いてから再び口を開いた。
「城に着くまでは死んでくれるなよ。お前が銀のセイレーンだということを王の前で証明せねばならないのだからな」
そして、私を支える腕に力が入った気がした。
パチパチという小さな音に気付き、狭い視界の中うっすらと見えたのは木目の壁。
(壁……?)
そして足元がとても温かいことに気付く。そちらに視線をやり、パチパチという音が暖炉で火が爆ぜる音であることがわかった。
「気付いたか」
その声からは安堵の響きが感じられた。
声の方を見ると、そこには防寒具を脱ぎ先ほどよりもすっきりとした格好のフィエールが胡坐をかいて座っていた。
ここは、と口を開けようとして、まだ口の中に布が入ったままなことに気付いてげんなりする。
どうやら山小屋のようだ。隅の方には暖炉用の薪が積まれ、壁には斧がかけられていた。
(――そっか。私、結局気を失っちゃったんだ)
すでに夜が明けたのか、窓の向こうがうっすらと明るくなっている。
とりあえず起き上がろうとして、肩から何かが擦り落ちた。それはフィエールが先ほどまで身に着けていた防寒服だった。
思わずフィエールを見ると慌てたように視線を逸らされた。
「死なれては困ると言っただろう。熱いと思っていたら眠った途端冷たくなりおって。丁度避難用の小屋があったのでな、アレキサンダーを休ませるためにも借りたまでだ」
その言い方が、なんだかとある人物を激しく彷彿とさせて、心にもぽっと小さな火がともった気がした。
(……悪い人では、無いんだよね)
ただこの人は自分の名誉を回復させるために必死で動いているだけなのだ。
だからと言って、セリーンを傷つけたことは許せることではないけれど……。
私の視線が気になったのか、フィエールは急に立ちあがり私を厳しい目で見下ろした。
「もう十分温まっただろう。そろそろ出発するぞ」
私はこくりと頷き、フィエールと共に山小屋を出た。
「しかし、ストレッタは銀のセイレーンの力を手に入れて一体何を企んでいる」
小屋を出てからしばらくの間無言でアレキサンダーを走らせていたフィエールが急に独り言のようにそう呟くのを聞き、私は強く頭を振った。
(だから、私とストレッタとは何の関係も無いんだってば!)
腕が自由ならすぐにでも猿轡を剥ぎ取ってそう大声で怒鳴りたかった。
身体が温まったお蔭で大分調子は戻っていた。ただ昨日から何も食べていないせいでそろそろ胃の方が限界だった。
きっとフィエールはあの小屋で何か食べたはずだ。
(まさか銀のセイレーンは何も食べないとか思ってるんじゃないでしょーね)
昨日化け物呼ばわりされたことを思い出し、ふと不安になる。
次にフィエールが休憩を取った時にはなんとか伝えたいが、おそらくはまた剣を突き付けられながら食べるはめになるのだろう。それでもこれ以上空腹に耐えるよりはましだと思った。
今、何時頃なのだろう。この山脈を越えるのにあとどのくらいかかるのだろう。昨日から一体どれほど進んだのだろう。
景色は相変わらず白に覆われていて、一昨日ビアンカに乗って悠々とこの山脈を越えた私には皆目見当がつかなかった。
わかっているのはセリーンと離れて、もう丸一日が経過してしまったということ。
(セリーン、どうしてるかな……)
あの怪我では適切な処置を受けたとしても、おそらくすぐには動けないだろう。
一瞬最悪なことを考えそうになってしまい、私はまたも強く頭を振った。
――と、フィエールはそれを違う意味にとったようだった。
「ふん、言えないということか? 城に着いたらたっぷりと尋問して吐かせてやる。覚悟しておくんだな」
耳元で笑みを含んだ低い声音で言われ、私は肩を竦める。
つい先ほどそこまで悪い人ではないと思ったばかりだったけれど、彼が目的のためなら手段を選ばない人物であることはこの一日で十二分に理解していた。
彼の期待しているような情報を、私が何一つ持っていないと知ったら――。
(やっぱり怖いよ……)
私は現実から逃れるようにぎゅっと目を瞑った。
――エルネストさんの笑顔が瞼の裏に浮かんだ。
彼は今どこにいるのだろう。今も私を見守ってくれているのだろうか。それともなかなか辿りつけない、いや、このまま辿りつけそうにない私に失望してしまっただろうか。
ラグもいない、セリーンも、ブゥもいない。
この世界でいつも助けてくれた人が今は誰もいない。
私一人では何も出来ないというのに。
(……本当に、何も出来ない?)
どくん、と胸が鳴った。
このままフィエールとランフォルセ王の元へ行ってしまったら、きっと二度と皆に会えない。
この世界でいつも私の傍にいてくれた、ラグ、セリーン、ブゥ。それにエルネストさん。
そして、家族や友達にも会えないままだ。
――ゆっくりと目を開く。
「な!?」
突然、昨日と同じ子守唄のメロディをハミングし始めた私にフィエールが驚き声を上げた。だが、すぐに嘲笑うかのように鼻を鳴らし言う。
「無駄なことを。その状態で歌が使えないことはわかっているのだ」
それでも私は歌い続ける。
フィエールの言う通り意味が無いことはわかっていた。――でも、歌わずにはいられなかった。
(私がこの世界で出来ることは、これしかないんだから)
強くもない、頭が良いわけでも、運動神経が良いわけでもないこの私がこの世界に来て唯一手に入れた能力。
それがこの銀のセイレーンの力。――歌の力だ。
(今私に出来ることは、歌うことだけ……!!)
徐々に声を大きくしていく私に、フィエールも流石に焦ってきたのか怒りを露わにし始めた。
「おい、いい加減に黙らんと今ここで斬り捨てるぞ!!」
私はその怒声に、怖さに負けないように更に大きな声で歌う。
眠れ、眠れ、そう強く想いながら。
自分のこの力を信じて。
――皆と、また会うために……!
「!!」
その時、背後でフィエールが息を呑むのがわかった。
異変が起こったのはそれとほぼ同時。
朝からずっと同じ速度で走り続けていたアレキサンダーが急にバランスを崩したように横にぐらついたのだ。
そして気付く。身体が揺れたせいで一瞬目の端に映った自分の髪の毛が銀に輝いていることに。
すぐ背後にいるフィエールがそれに気付かないはずがない。
「アレキサンダー、しっかりしろ!! くそ、目が……っ」
手綱でアレキサンダーを誘導しながら辛そうな声を出すフィエール。彼にも効き始めているのだ。
私はそのまま歌い続ける。――だが、そこまでだった。
「止めろと言っているのが、わからんのかぁ!!」
「っ!!」
それまで私を支えていた腕が離れ、頭を横殴りにされた。
一瞬目の前が真っ白になる。
支えをなくした私の身体はそのまま落下する、――そう思った。
だが、その衝撃は無く、その代わりに覚えのある浮遊感に襲われた。
「な、なんだあれは……!!」
そのとき聞こえたのはフィエールの裏返った声とアレキサンダーの狂ったような嘶き。でもその声も視界も、直後凄まじい音によって掻き消えた。
それは風の音。
そして精一杯に開けた視界の中見えたのは、大きな白い竜。――いや、
(ビアンカ……!)




