3.グラーヴェ兵
その夜はゆっくり熟睡することが出来た。
あの嫌な夢をまた見ずに済んだのは、セリーンが私が寝付くまで傍にいてくれたからかもしれない。
目が覚めると、いくらか調子が良くなっているのがわかった。
起き上がっても少し眩暈がしたくらいで昨夜のような激しい頭痛は無い。ほっとして窓の外を見るとまだ薄暗く、だが雪が降っているのが確認出来た。
(今、何時頃だろ)
……酷く喉が渇いていた。
頭痛は無くなったものの、身体の気だるさは残っている。おそらくはまだ微熱程度あるのだろう。
視線を移すともう一つのベッドでセリーンが静かに寝息を立てていた。
口には出さないだけでセリーンもきっと疲れているはず。彼女もここまで北国に来るのは初めてだと言っていた。
起こしてしまうのも悪いと思い、私はこっそりベッドから降り一人で階下にあるという食堂に行くことにした。
部屋には何の暖房設備も見当たらなかったがなぜかそれほど寒さを感じず、廊下は流石に寒いだろうと覚悟するが、ドアを開けても部屋の中とそう変わらず不思議に思った。
雪国の建物だ、そういう構造になっているのかもしれない。天井は木組みになっていたが、見ると壁はレンガ造りで、触れてみるとほんのりと温かかった。
(これ、もしかしてペチカ……?)
童謡『ペチカ』。冬にとても似合う、少し寂しげな、でもとても綺麗で温かい歌。
その歌を一緒に歌いながら、昔おばあちゃんに訊いたことがある。ペチカって何? と。
(ペチカは壁に備え付けられた暖炉で、建物全体を温めるって言ってたよね)
これなら宿の中で防寒服は必要ないだろう。
きっと階下に行けばわかると、少しワクワクしながら階段を下りていく。
階段を下り切るとそこには受付カウンターがあり、でも今は誰もいないようだった。
やはりまだ夜が明けたばかりなのだろう。
雪のせいもあってか辺りはシンと静まり返っていて、まるでこの宿に――いや、この町に私しかいないような錯覚に陥る。
ぎしりという床の軋む音が今更ながらにとても大きく感じた。
そのまま食堂と思わしき扉を開けると、案の定中にも誰もいなくて、でも目当てのものは見つけることが出来た。
「やっぱり、ペチカだ」
今は火は付いていなかったけれど、それは確かに祖母に教えてもらったペチカの様相そのままだった。
昨日のスープもだけれど、やはり異世界と言えど元いた世界との共通点は多い。
(大きな違いは、やっぱ術の存在かなぁ。歌だって不吉だからって皆が歌わないだけなんだし……)
「歌、か……」
ペチカをじっと見つめながら思わず小さく呟いていた。
(ヤバイ。今、すっごく歌いたい)
『ペチカ』を歌いたいという、どうしようもない衝動。
しかも今ここには他に誰もいない。
この場に自分一人という状況が、とてつもない誘惑となって私に襲いかかっていた。
ごくりと唾を飲む。
(小さい声でなら……ちょっとだけなら……)
私はもう一度辺りをキョロキョロと見まわし、人がいないことを再度確認した。
そして小さく息を吸う。と、
――絶対に歌うんじゃねぇぞ!!
そんなラグの声が頭に響いた気がした。
お蔭で私は何とか衝動を抑えることが出来た。
……今彼がここにいない理由。それは私にあるのだということを思い出した。
(ルバートで私が歌を歌わなければ、ラグはストレッタに戻る必要無かったんだもんね)
私は一度深呼吸をし、パンと両頬を叩いた。
(今は我慢、我慢!)
彼がいない今、特に勝手な行動は出来ない。
……ここは異世界。そしてまだ良くわかっていない銀のセイレーンの力。
軽い気持ちでも歌うことによって、何が起こるかわからない世界なのだ。
私は部屋へ戻ることにした。
水が欲しくて部屋を出てきたけれど、勝手に厨房に入るのはやはり気が引けた。
皆が起きる時間までもう一寝入りしようと、食堂を出ようとした、その時だ。
向こう側からドアが開き、心臓が飛びあがった。
食堂に入ってきたのは黒髪をきっちりオールバックにした男の人。
宿の人が起きてきたのかと思ったが、その格好を見てすぐに違うとわかった。
しっかりと防寒対策された旅人の様相、そして腰には長剣を携えていた。
30代半ば程だろうか、私を見て酷く驚いたように目を見開いているその男の人に、私は慌てて挨拶をした。
「おはようございます!」
向こうもまさかこんな早朝に人がいるとは思わなかったのだろう。
なんだか悪いことをしていた気分になり、私は弁解するように早口で続ける。
「の、喉乾いちゃって、何か飲み物もらおうと思ったんですが、早過ぎたみたいで」
はははと空笑いしながら言うと、ようやくその人が口を開いた。
「お前は、……銀のセイレーン!」
「!?」
焦って自分の髪を確認するが黒髪のまま。
そうだ、歌っていないのに、銀に変わるわけがない。なら何で……!?
その人の目つきがいつの間にか驚きから怒りの色に変わっているのに気付き、私は後退る。
「まさか、こんなところで再び会えるとは。私の運もまだ尽きてはいなかったようだ」
再び……?
その言葉を頭で反芻しているうち、彼の手が剣に掛かった。
それを目にした途端、私は思い出す。
(あの時の、――お城にいた一番偉そうなグラーヴェ兵!!)
ガクガクと足が震え出す。
剣が鞘から引き抜かれるのを見ながら覚束ない足取りで更に後退すると、背後にあった椅子が早朝の静けさの中派手な音を立てて倒れた。
上にいるセリーンに助けを求めたくとも、一つしかない入り口の前に男がいる。
大声を上げたくても恐怖で喉が閉まってしまったのか小さく掠れた声しか出てこない。
ラグはとっくにこの町を出て居ない。――誰もいない!
「あの時お前に逃げられ、それからこの私がどんな屈辱を味わったか……」
その恐ろしい形相に、この世界に来て初めて味わった「死」への恐怖が瞬時に蘇る。
(私、ここで死ぬの? この世界で? 元の世界に帰れないまま、此処で一人で?)
――そんなの嫌だ!!
私は震える足に渾身の力を入れ、とにかく相手との距離をとろうと思いきって背を向け駆け出した。といってもそこまで広くない部屋。逃げ回るにも限りがある。でも剣が届かない距離をとれば切られることはない。その間隙を見て2階のセリーンのいる部屋に行くことが出来れば――だが甘かった。
頭に激痛が走る。一つに結んでいた髪の毛を引っ張られたのだとわかると同時、私はバランスを崩してその場に倒れ込んだ。
そのままぐいと髪の毛ごと持ち上げられ痛みに顔をしかめながらも薄目を開ける。間近に男の顔があった。
「二度は無い」
言うなり男は私の口に布のような固まりを押し込んできた。
いきなりのことにえずきそうになるが、それも出来なくて苦しくて涙が滲む。
「これで歌えまい?」
その言葉で漸く理解する。この人は銀のセイレーンである私の口を、歌を封じたのだ。
更に男は私に猿轡を噛ませ、あっという間に両手も拘束されていた。
だがこれほど近くにいても剣で切られることは無かった。
今すぐに殺されるわけではないのだろうか。
恐る恐る見上げると男はにやりと笑った。
「歌が無ければお前など恐ろしくもなんとも無い。……いっそここで始末してやりたいが、王の信頼を取り戻すのが先だ。しかし、お前がこの町にいるということは、やはりストレッタが銀のセイレーンと手を組んだという読みは当たっていたようだな。知らぬ振りなど小賢しい真似を……」
ラグが危惧していた通りのことを言うグラーヴェ兵に私ははっとする。
昨日の朝ストレッタを発ったというランフォルセからの使者。それがこのグラーヴェ兵なのではないか。いや、きっとそうに違いない。
おそらくこの男もこの宿に泊まっていたのだ。
私は「んー」と声を上げながら首を振る。ストレッタと私が手を組むなんて全くの誤解だ。
「なんだ? 何か言いたそうだな。安心しろ……というのもおかしいが、お前を始末するのは私の仕事ではない。お前をどうするかは王が決めることだ。……まぁ、おかしなことを考えれば両足を切り落としてでも連れていくがな」
恐ろしいことを言われてもう一度強く首を振る。
先ほどから男の口から出る「王」とは、ランフォルセ国王のことだろう。
(ってことは、この人の目的は私をあのお城に連れ帰ること……!?)
折角一度逃げ出したのに、冗談ではない。
「善は急げだ。このまま出発するとしよう」
「!?」
言うや否や私は荷物のようにひょいと片手で抱え上げられてしまった。
「んーー!!」
「黙れ! そうか、やはりこの宿に仲間がいるな? あの時の術士の子供か? それとも話で聞いた赤毛の」
「私のことか?」
その声に顔を上げるとセリーンが食堂の入り口に立っていて私は歓声を上げる。
彼女はすでに長剣を構え戦闘態勢を取っていた。
「カノン、すまなかった。私としたことが」
「そういった会話は私に勝ててからにすべきではないかな!?」
そう言って男は私を食卓の上に乱暴におろした。
息が詰まったが、すぐに視線を二人に向ける。――動いたのは二人ほぼ同時。
セリーンの剣の方が長い分有利に見えた。それに今まで一緒に旅してきて彼女の強さはわかっていた。だからすぐに勝負はつくものだと思った。
だが刃同士のぶつかる高く重い金属音はなかなか鳴り止まなかった。それどころか、セリーンの顔に焦りが見え始める。
広い場所でならともかく、この狭い上に障害物の多い部屋では彼女の扱う大剣は逆に不利だと気付いたのは、男が余裕の表情を浮かべ喋りはじめた時だった。
「話には聞いていたが、女だてらになかなかやるではないか。――だが、私は下級兵とは違うぞ」
男の笑みを含んだ声音に、セリーンの顔が屈辱に歪む。そして、
「カノン逃げろ!」
視線はそのままでこちらへ叫ぶセリーン。
私は慌てて身体をくねらせながら食卓から下りた。足はまだ自由だ。でもこの状態のセリーンを残して逃げるつもりはない。
(男は私はまだ始末しないと言った。でもセリーンは?)
おそらくは躊躇することなく――。
私は恐怖に負けないよう頭をフル回転して考える。何か、今の私にでも出来ること。
ちょっとでもいい、相手の注意を逸らすことが出来れば……。
(そうだ!)
私は歌い始めた。昔おばあちゃんが良く歌ってくれた、子守唄を。
男の動きを少しでも鈍らせたかった。
――と言っても口には布が詰まっているため、ハミングだ。
それでも狙い通り、男は焦ったようにこちらに視線を向けた。やはり男にとって私の歌は脅威なのだ。
私にとっても初めての試みだった。果たして詞無しでも銀のセイレーンの力は発揮されるのか。
どちらにしても男の注意が逸れたことをセリーンは見逃さなかった。
鋭く目を光らせ相手の脇腹に大剣を叩きつけた――かのように見えた。だが肉が裂ける嫌な音の後苦悶の声を上げ剣を取り落としたのは、セリーンの方だった。
「んんーーー!!」
私は利き腕を押さえながら崩れ落ちるセリーンを見て鼓膜が破れんばかりの悲鳴を上げる。
暗がりの中でも彼女の腕を伝い流れてくる赤いものがはっきりと見えた。そして横腹からも溢れてきたそれに私は絶望する。
「隙をついたつもりか? 甘かったな。もう剣は握れまい。今楽にしてやる」
そう言って剣を振り上げた男の背に向かって私は無我夢中で走り出す。
男はすぐにそれに気付きあっさりとその場を退いた。
私はセリーンを庇うように男の前に出て彼を睨み上げる。
「なんだ、もう歌は終わりか? やはり口を塞がれては歌は使えないようだな。……庇ったところでその女はもう終わりだ。腱を斬った」
その言葉に目を見開きセリーンを見下ろす。セリーンは私を見なかった。痛みに顔を顰めながらも男の方を睨み上げ、ただ浅い呼吸を繰り返している。
床に広がりつつある彼女の血液から目を逸らすように私は男に視線を戻した。男はセリーンを冷たく見下ろしながら言う。
「剣士が剣を持てなくなっては死んだも同然。それにその出血だ。どうせじきに死ぬ」
“死”という言葉がなぜか酷く遠く聞こえた。
……セリーンが、死ぬ?
まるで夢の中の出来事のように現実味が無かった。でも、その言葉は恐ろしく重く胸に圧し掛かった。
私は、男の前に一歩踏み出し頭を下げていた。
「……ほう。大人しくついて来るということか?」
「――っ!?」
セリーンが背後で驚くのがわかった。
この男の目的は私を連れて行くことだ。セリーンを殺すことではない。私が言うことを聞けばこれ以上この男にセリーンを傷付ける理由はない。
きっともうすぐ宿にいる誰かがこの食堂に来るはず。早く手当をしてもらえればきっと、セリーンは助かるはずだ。
「よし。ならば行くとしよう」
男は再び私を軽々と担ぎあげると食堂を出た。そのとき一瞬セリーンと目が合ったけれど、私はどういう顔をしていいかわからなかった。
「主よ。金はここに置いていくぞ」
廊下に出るなり男の発したその声に、向かいのカウンター奥で人影が動いた。
この騒ぎだ、やはり気付いている人がいたのだ。おそらく気付いていながらも恐ろしくてずっと隠れていたのだろう。
男がカウンターに向かってコインを放り投げるのと、店主らしき初老の男性がゆっくりと顔を出したのはほぼ同時のことだった。
「あ、ありがとうございました」
震える声でそれでも客に対し礼を言った店主と目が合い、私は必死で頭を下げる。セリーンを早く手当てして欲しかった。
それが通じたのかその人が何度も頷くのを見て、私は少しほっとする。
宿を出ると、外は何事も無かったかのように静かに雪が降っていた。そのピンと張り詰めたような空気の冷たさに私は身を竦める。
と、宿の脇に馬と犬を掛け合わせたような大きくて毛の長い動物が繋がれているのを見つけ私はぎょっとする。
もしかしなくとも、男はこれに乗るつもりなのだろう。男の姿を見つけその馬もどきは嬉しそうに嘶いた。その声は馬そのものだ。
「また走ってもらうぞ、アレキサンダー。城に着いたら、たらふく美味いものを食わせてやるからな」
そう言うと、アレキサンダーという名らしい馬もどきはやる気を見せるように鼻を鳴らした。――と、
「!」
いきなり放るようにその背に跨らされ、一瞬目が回る。
男はアレキサンダーを繋いでいた紐を手早く仕舞うと私の後ろにひょいと跨ってきた。
「こいつから落ちたら即死だからな。死にたくなかったら大人しくしていろ」
言われ私は小さく頷いた。でも出来ることなら後ろで縛られている腕を解放して欲しかった。どこも掴まれないというのはなんとも心もとない。
と、男は私の身体をがっしりと抱え込むようにして手綱を握った。……確かに、これなら暴れたりしない限り落ちずに済みそうだ。
セリーンは大丈夫だろうか。もう手当てを受けているだろうか。
彼女が早く、また愛用の大剣をその手に握り優雅な剣さばきを見せてくれることを、心の底から願った。
――こうして、私はこのグラーヴェ兵と共にノーヴァの町を出たのだった。