2.呼ぶ声
「…………」
遠く、何か聞こえた気がした。
「……華音」
それは私の名前。
誰かが、私の名を呼んでいる。
目を開けて声の主を探そうとしたけれど、辺りは真っ暗で何も見えない。
それとも、私はまだ目を瞑っているのだろうか?
「華音」
「華音」
次第に増えて行く声。
それは徐々に大きく、切羽詰まったものへ変わっていく。
「華音!」
そして気付く。
この声は、母のものだ。
「華音! どこなの、どこに行ってしまったの、華音!!」
泣き叫ぶその声に、胸が痛いくらいに締め付けられる。
(――お母さん、お母さん!!)
その呼び声に答えるように叫ぶ。
でもやはり何も見えず、ただずっと母の叫び声だけが頭に響く。
「華音!!」
次に聞こえたのは父の声。
聞いたことのない、悲痛なその声に私はまたありったけの声で叫ぶ。
(お父さん、私はここにいるよ! お父さん!!)
父と母の声が重なって、でも姿が見えなくて、どうすることもできなくて、私は絶望する。
急に、冷たい風が全身を襲った。
寒くてこれ以上動けなくてその場に蹲ると、今度は友達の声が聞こえてきた。
皆泣いている。泣きながら私を呼んでいる。
もう一度顔を上げて私は叫ぶ。
(私はここだよ!)
「華音!」
ひと際大きく聞こえたその声はとても懐かしいもの。私はその名を呼ぶ。
(響ちゃん!)
叫ぶと同時、闇を割って一筋の光が差し込んだ。
こちらに差しのべられる大きな手。
私はそれを掴もうと必死に手を伸ばし――。
「うわっ」
確かな感触と、驚いたような声に私は重い瞼を開けた。
最初に見えたのは木の天井。火があるのかオレンジの光と黒い影とがゆらゆらと揺らめいている。
やはりさっきはちゃんと目を開けていなかったのだ、だから真っ暗で何も見えなかったのだ。
そして次に視界に入ったのは自分の手と、もうひとつの――。
「!」
青い瞳と目が合って一気に覚醒する。
……さっきのは全部、夢。
寒いことと暗いことにあまり変わりは無かったけれど、それでもこちらを見下ろすその瞳の色になぜか酷く安堵した。
「ラグ」
「あ、あぁ」
小さく名を呼ぶと彼も小さく答えてくれた。
それだけのことが無性に嬉しくて……。
「何笑ってんだ」
訝しげに言われて自分が笑っていることに気が付いた。
「怖い、夢……見てたから、なんか安心して」
「…………」
夢。夢だけれど、もしかしたらあれは――。
「手」
「手? ……あ、ごめん!」
私はずっと握ったままだったラグの手を慌てて離す。
(あの手、ラグだったんだ)
悪夢を見て手を握るなんて、まるで小さな子供みたいだ。
急に恥ずかしくなった私はとりあえず状況を把握するために辺りを見回す。
枕元に置かれた蝋燭の炎が頼りなく揺れる薄暗い部屋。私はふたつ並んだベッドのひとつに寝かされていた。
ラグはその傍らの椅子に腰かけている。
「ここどこ? 私……っ」
起き上がろうとした途端、頭に激痛が走ってもう一度枕に頭をついてしまった。
「ぶぅ?」
耳元で聞こえた小さなその鳴き声に顔を向けると、心配そうにこちらを見るブゥの円らな瞳があった。
大丈夫だよと笑いかけながらその小さな耳を撫でるとブゥは気持ちよさそうに目を細めた。
「ブゥが起きてるってことは、もう夜?」
「あぁ。……ここは宿だ。お前、昼間道でぶっ倒れて」
「あ、」
また頭が痛んだ気がした。
皆の前で倒れるなんて、情けないことこの上ない。
この世界に来てから少しは体力が付いたと思っていたのに、そんなこと無かったみたいだ。
横になっているおかげでかなり楽だったけれど、身体はまだだるく、とても熱い。
「……セリーンは? あ、あとさっきの、アルディートさん、だっけ」
「あいつらなら、今下の食堂だ」
「そっか」
――沈黙が訪れる。
私はブゥの頭を撫で、ラグもそれを静かに見下ろしている。
(きっと、呆れてるんだろうなぁ)
怒鳴られないのが不思議なくらいだ。
逆に落ち着かなくて、いっそのこと早く怒鳴ってくれたらいいのにとまで思ってしまう。
(……もしかして、めちゃくちゃ怒ってる?)
そうだ、ラグは早くストレッタに行きたがっていた。
出来ればランフォルセの使者よりも早く銀のセイレーンを始末したという報告をしたいと。
そのためにこうして休む間を惜しんで来たというのに……。
いよいよ沈黙が怖くなった私はやはり先に早く謝ってしまおうと意を決して口を開く。
「ご、ごめんね、ラグ。私もう平気だから、早くストレッタに」
「……なんでお前が謝んだ」
「え?」
「悪かった」
私は目を見開く。そして耳を疑った。
今、ラグの口から出た言葉は間違いなく謝罪の言葉。
私がポカンと見上げていると、徐々に彼の視線が逸らされていく。
「無理、させちまって……。お前が、その、何の訓練も受けていない普通の女だってことを忘れてた、っつーか」
言葉を探すように途切れ途切れ話していくラグ。
そして気付く。彼の顔は真っ赤だ。おそらく熱のある私と同じくらいか、ひょっとしたらそれ以上に――。
「さっきも、あいつに、アルの奴に見つかっちまってイライラして、つい」
「ぷっ」
思わず、私はそこで噴き出してしまった。
「なっ、何笑ってやがる!」
結局怒鳴られながらも、私の笑いは止まらない。
てっきり先ほどの沈黙は怒りからくるものだと思っていたけれど。
(もしかして、謝るタイミング待ってた?)
そう思ったら、安堵した分もプラスでなかなか笑いが治まらなかった。
ブゥもいつの間にか枕元から飛び立ち楽しそうに空中を旋回している。
「大体お前も言わねぇのが悪ぃんだからな! 平気だ平気だって言うからオレは」
「ご、ごめん! だって、あはははっ!」
彼はそんな私にまだ何か言いたそうにしていたが、諦めたように大きなため息をひとつついた。
「そんだけ笑えるなら、医者は呼ばなくていいな」
「え? うん、ありがとう。こうやって寝てれば多分すぐに治ると思う。だからストレッタに早く行って報告を」
「それなんだが、すでに遅かったみてぇだ」
「え!?」
驚く私にラグは悔しげに続けた。
「想像以上にランフォルセの奴らの行動が早かった」
ラグはアルディートさんから聞いたという話をしてくれた。
ランフォルセからの使者は昨日ストレッタに到着し、そしてルバートでの一件を報告し今朝早くに帰っていったのだと言う。
「そう、なんだ。……折角急いだのにね」
「先に向こうに報告されたってのが痛ぇが、どちらにせよ銀のセイレーンはオレが始末したって話は伝えにいかねーと」
危惧していた通り、使者からの話を聞き何も知らなかったストレッタは昨日からちょっとした騒ぎになっているらしい。
「で、やっぱりというか当然というか、オレが真っ先に疑われているらしい。だからこの後すぐにでもアルと出発するつもりだ。あいつの術があれば明け方にはストレッタに着けるからな」
「あ、やっぱりアルディートさんも術士なんだね」
ラグが当然のようにアルディートさんの話をするものだから忘れそうだったけれど、まだ私はあの人のことを何も聞いていないのだ。
「あ? あぁ、そうだ。ストレッタでの、オレの……先輩、みてぇなもんだな」
「やっぱり! なんかストレッタの術士のイメージがガラッと変わっちゃったな」
「あいつはあの中でも相当の変わりもんだ」
「でもアルディートさんはラグのことお気に入りみたいだね。さっきかなり喜んでたし」
私が笑って言うとラグはものすっごく嫌そうな顔をした。
「あいつは勝手にオレを弟分だと思ってんだよ。すぐにガキ扱いしやがって……だからあいつには絶対に知られたくなかったんだ」
「呪いのこと?」
「あぁ」
「ごめんね。でも私、てっきりストレッタの人達は皆ラグの呪いのこと知ってるんだと思ってた」
そう言うとラグは急に眉を寄せ口を噤んでしまい、焦った。
彼に呪いの話は禁句だということを忘れていた。
「ち、違うんだね!」
「……術が思うように使えなくなったってのは皆知ってるが、ガキの姿になっちまうのを知ってるのは上のほんの一部だ」
案外すんなり答えてくれて少し拍子抜けする。
――今なら、まだ詳しい経緯を聞いていないその呪いのことを話してくれるだろうか。
呪いというよりも、エルネストさんについて訊きたい衝動にかられた。
「あの、さ」
「そうだ。一応言っとくが、お前が銀のセイレーンってことアルには言うなよ」
「え? あ、そうだよね。うん」
「とりあえずアルには適当に旅の途中で知り合ったって言っといたからな。話合わせろよ」
「う、うん」
そう立て続けに念を押すように言われ、ちゃんと出来るかどうか不安になってしまった私は結局エルネストさんのことを訊くどころでは無くなってしまった。
「そういや、お前食欲は?」
「え? あ、あったかいものが食べたいかも」
「さっきセリーンの奴が食堂から何か持ってくるって言ってやがったから、それ食ってまた寝てろ」
「本当に? 嬉しい!」
久しぶりの料理が本当に嬉しくて歓声を上げると、それに合わせるようにまたブゥがくるくると空中を回って私は笑ってしまった。
でもそんなブゥを見ていて私は大変なことを思い出した。
「そうだ! ビアンカは大丈夫かな? あのまんまなんだよね!?」
「さぁな、明日また確認しに行くってセリーンの奴は言ってやがったが」
「大丈夫かなぁ、もし死んじゃったりしたら――え?」
またしても大きな大きな溜息が聞こえて見上げると、心底呆れた様な彼の顔があった。
「今お前は自分の心配だけしてりゃいーんだよ! わかったな!」
「は、はい」
「ストーーーーップ!!」
そんな大声と共に勢いよく部屋のドアが開け放たれびっくりする。
アルディートさんがその場で仁王立ちしていた。
「お、ま、え、なぁ! 可愛い彼女が心配なのはわかるが、怒鳴るとかマジでありえねーし!」
言いながらツカツカとこちらに歩み寄ってくるアルディートさん。
その後ろにセリーンの姿が見えて、私はほっとする。彼女は私と目が合うと優しく微笑んでくれた。
「お前は昔っから女性への接し方がなってないというか。いいか、俺が手本を見せてやる!」
「へ?」
セリーンから視線を戻すと、いつの間にかベッド際に立っていた長身のアルディートさんにぎゅっと手を握られた。
「大丈夫かい、カノン。気がついて本当に良かった。俺は君が心配で心配で、片時もそばを離れずに看ていたんだよ」
「は、はぁ」
「アールーーーー!!」
芝居がかったその台詞に私が生返事をするのと、ラグがまた真っ赤な顔で大声を上げたのはほぼ同時のことだった。
「改めてよろしく、カノンちゃん。俺のことはアルって呼んでくれな」
そう言って、にっこりと笑ってくれたアルさんに私も笑顔で「はい」と返事をした。
「しっかしラグにこんな可愛い彼女が出来たなんてなぁ」
「だっから、違うって言ってんだろうが!!」
「こんな無愛想な奴だけどこれからもよろしくな、カノンちゃん」
「人の話を聞けぇ!」
二人の会話はまるで漫才のようだった。
(ラグ、完全に子供扱いだよ)
あの嫌そうな顔の意味が良くわかった。
ラグは先ほどから終始顔を真っ赤にして怒鳴っていて、それでも自分のペースを崩さないアルさんは流石ラグと長い付き合いなだけあるのだろう。
(でも私を彼女と勘違いするなんて……あ。ってことはラグ今彼女いないんだ)
ストレッタに彼の帰りを待っているような人がいるのではと以前考えたが、どうやらいないよう。
人のことは言えないが、正直やっぱりと思ってしまった。
(ラグの彼女とか、全然想像出来ないもんなぁ)
私の中でラグは誰とも寄り添おうとしない“一匹狼”のイメージが強い。
だから彼が女の子と仲良くしている姿が全く想像つかなかった。
(その点アルさんは女の子の友達がいっぱいいそうなイメージ。さっきのも、良く考えたら思いっきりナンパだったよね)
と、そのとき、いらついたようにセリーンが声を上げた。
「おい、男は一度部屋から出て行け。カノンが落ち着いて料理を食べられないだろう」
ベッド脇のテーブルにはセリーンが持ってきてくれた料理が置かれていた。
……確かに、皆に食べている姿を見られるというのは少し恥ずかしい。セリーンの心使いに感謝だ。
「そうだな。ラグ、お前も腹減ってんだろ。ストレッタに戻る前に、まずは腹ごしらえだ。じゃ、またあとでなセリーン、カノンちゃん!」
アルさんは手を振りながら不機嫌そうなラグとその頭に乗ったブゥと共に部屋を出て行った。
残ったセリーンは嵐が去ったとばかりにため息をついて、私を振り返った。
「さ、温かいうちに早く食べろ。とても美味かったぞ」
「うん、ありがとう」
身体を起こし、スープ皿の蓋を開けるとふわっと湯気が広がった。大きな具がたっぷり入ったス―プだ。
「美味しい!」
それは味も見た目もボルシチにとても良く似ていた。
ここ何日か料理と言えるものを食べていなかった私は夢中でそれを胃の中に納めていった。体が内側から温まっていくのがわかる。
幸せを噛みしめているとセリーンがふっと笑った。
「それだけ食欲があれば、じきに良くなるな」
「うん! あ、ねぇ、ラグもまだご飯食べてなかったの?」
「あぁ、さっきもあの男が言っていただろう、ずっとこの部屋でお前を看ていた」
「そう、なんだ」
とても嬉しかったけれど、ずっと寝ているところを見られていたと思うと少し、いや、かなり恥ずかしかった。
(私、寝言とか、よだれとか大丈夫だったかな……)
思わず口元を確認してしまう。
「奴も私と同じことを考えていたのかもな」
「え?」
「ひょっとしたら私たちの知り得ない、異世界の病なのでは、と」
「あ……」
そうだ。私がこのレヴールのことを何も知らないのと同じで、セリーン達にとっても私の住む世界のことは何もわからない。そんな世界から来たという人間がいきなり倒れたりしたら……もし私が逆の立場だったとしたらどうしていいかわからずに困惑するに決まっている。
(ラグも、それで……?)
「そうでなくて本当に良かった」
「心配かけちゃってごめんね! ありがとう!!」
私はスプーンを置いて改めてセリーンにお礼を言う。後でラグにももう一度お礼を言わなくては。
出会ってからまだ間も無い、しかも知らない世界から来たという完全に余所者の私をこんなに心配してくれるなんて……。
――いつも思う。
私はラグとセリーンがいてくれたから、この知らない世界でもなんとかこうして生きていられるのだ。二人がいなかったらと思うと心底ぞっとする。
ラグは自分の呪いを解くために私を必要としている。いつもそばにいてくれるのは利害が一致しているから。
そうとわかってはいるけれど、それでも嬉しかった。心から感謝していた。
そしてセリーンは私にとっていつの間にか何でも相談出来るお姉ちゃんのような存在になっていた。
「セリーン達がいなかったら私……。いつもそばにいてくれて、本当にありがとう!」
なんだか急に胸がいっぱいになってしまって、熱もあるせいか泣きそうになりながら言うと、セリーンはそんな私の頭を優しく撫でてくれた。
「きっと、旅の疲れが出たんだろう。カノンにとってレヴールは未知の世界だものな。しかもつい数日前にはあんなに暑い国にいて、今は極寒の地だ。身体もおかしくなる。――しかし、カノンは凄いな」
「え?」
この状況で凄いと言われても、何がなのかさっぱりわからない。
「言葉だ」
「言葉?」
「……気付いていないのか?」
首を傾げているとセリーンは眉を寄せながら続けた
「この世界の言語だ。カノンはこれまでこのレヴールの3つの国の言語を完璧に使いこなしているんだが」
「ぇ、えぇ~~!?」
思わず大きな声が出てしまっていた。
気付くも何も、全くの無意識だ。私は日本語を使っているだけ……のつもりでいた。
この世界で初めて人と話したランフォルセの城下町で言葉が通じ確かに不思議に思ったけれど、それ以来すっかり言葉のことなど忘れていた。
「私、ずっと、今も自分の国の言葉を話してるつもりで。皆もその言葉を話してるんだとばっかり……」
セリーンも驚いたようだった。
「そうだったのか。……それも、銀のセイレーンの力なのかもしれんな」
「う、うん」
「ちなみに今私が話している言語は私の故郷のものだ。あの男共が先ほど使っていたのがこのレヴールで一番広く使用されている言語。そしてライゼ達フェルク人はまた全く違う言語を使う。私もあまり早いと聞き取れなかったが、カノンはあの親子と普通に会話していたからな」
「…………」
この世界に来てから驚くことばかりだけれど、これは今まで気付いていなかった分かなりの驚きだった。……まぁ、異世界に来てしまったこと自体が一番の驚きではあるのだが。
日本では学校で英語を勉強したくらいで、しかも会話なんて出来るレベルでも無かったのに。
(このレヴールじゃ、私バイリンガルってこと?)
「不思議なものだな。ま、今その理由を考えても仕方ない。さぁ、早く残りも食べてまた横になるといい」
私はまだ少し茫然としながらこくりと頷いたのだった。
それからしばらく横になってウトウトしていると、ラグとアルさんが戻ってきた。
二人はまた漫才のような会話をしながら、これからストレッタへ向かうと言った。
「戻ってくるまでに、治しておけよ」
「うん、ありがとう! ラグも気をつけてね」
私がそう答えると、その視線がセリーンに向かった。
「わかっている。カノンのことは私に任せてさっさと行って来い。で、あの子の姿で早く戻ってこい」
「アホか」
「セリーン、俺もすぐに戻ってくるかんな! 待っててくれよ!」
「…………」
華麗に無視されたアルさんはがっくりと肩を落とし、それを見ていたラグは呆れた顔をしていた。
そして、二人は行ってしまった。勿論ブゥも一緒に。
本当は先ほどセリーンに言ったお礼の言葉をラグにも言いたかったけれど、アルさんの手前言えなかった。
またすぐに会えるのだ。戻ってきたらちゃんと言おう。……そう思っていた。
この時は、まだ――。