18.悪魔の仔
村を出た先は再び鬱蒼とした森の中だった。
しかしこれまでと違っていたのは、そこにはちゃんと人が通るための道が出来ていたこと。
その道をまっすぐに進んでいくと、すぐに水平線らしきものが見えてきた。
赤茶けた色だった地面も徐々に白い砂が目立つようになってきていた。
雨足は依然弱まらず、私は目に雨水が入らないように手で庇いながらラグの後を追っていた。
すでに靴はぐしょ濡れの状態で、足が地面に付く度グチャと嫌な感触がした。
前を行くラグに訊きたいことはたくさんあったけれど、その背中が質問を一切拒否しているように見えて声を掛けられないでいた。
一体どうするつもりなのだろう。
本当にカルダが火をつけたのなら絶対に許せないが、確かな証拠がないのだ。怒鳴り込んで問い詰めたとして、あのカルダが簡単に吐くとは思えなかった。
それにもし認めたとしても、よそ者の私達にはどうすることも出来ない。下手をすると私達の方が不審者として捕まってしまいかねない。
(でもそんなこと、ラグにだってわかってるはずだよね)
彼は感情任せに後先考えず行動するタイプではない。きっと何か策があるのだ。
あれから何も言わず私の後ろにいてくれるセリーンも、それをわかっていて彼についてきているように思えた。
雨雲を映し不安を煽るような色をした海に向かい30分ほど進んだ頃だろうか、木々の間から村の家々に比べると随分と立派な白い建物が見えてきた。
「あれかな?」
「多分な」
答えてくれたのは背後のセリーン。
ラグはやはり何も言わなかったが、先ほどよりも少し足を速めた。
森から抜けると目の前に黒く荒れた海が広がった。激しい雨音と潮騒の音が煩いくらいに耳に響く。
(天気良かったら、きっとすっごくキレイだったろうなぁ)
視線を浜に戻すと沖に向かって伸びる長い桟橋らしきものが確認できた。
今は一隻も船は泊まっていなかったが、もうすぐここにヴィルトさんが言っていたランフォルセからの連絡船が来るのだろう。
白い建物は丁度森の境に建っていた。
その窓からはほのかに灯りが漏れていて、確かに中に人がいるのだとわかった。
私達は木々の陰に紛れるようにしてその建物へ近付いていった。
「どうするの?」
バンガローに似た木造の建物の目の前まで来て私は小さくラグに声をかけた。
するとラグは何かに気付いたように正面のドアではなく、灯りの漏れる窓へと近寄った。
窓の横の壁を背にして中の様子を伺うラグ。私もセリーンもそのすぐ後ろについて背を低くした。
すると、中から人の声が聞こえてきた。
「話し声! やっぱ二人いるんだ」
私が小さく言うと、黙れというふうにラグに睨まれてしまった。
耳を澄ませて聞いていると、どうやら中にいるカルダともう一人は揉めているようだった――。
◆◆◆◆◆
「全くどうしてくれる! また収穫が減ったと総督にどやされるのは俺なんだぞ!!」
「うるせぇな。問題ねぇって言ってるだろうが」
後から聞こえてきたそのやる気の無い声はカルダのものに間違いなかった。
瞬間あの時のことを思い出しそうになり、小さく頭を振って私はもう一度耳を澄ました。
「何が問題無いだ! 何で火なんか付けたんだ!!」
カルダ以外のもう一人のその怒鳴り声に、私はセリーンと目を見合わせた。
「気に食わねぇんだよ、村の奴ら。絶対に何か隠してやがんだ。だから思い知らせてやったのよ、この俺に逆らうとどうなるか、な。……それに、俺が見たあの女」
「女、女って、酔っ払って見た幻覚なんじゃないのか!?」
「幻覚じゃねぇって言ってんだろうが! 見せただろうこの腹の痣!! あの女が出てきやがったらこっちのもんだぜ。とっ捕まえて、上にはそいつが火を付けたと言えばいいじゃねぇか」
そして、へっへっへとあの厭らしい笑い声が聞こえてきた。
私はあの黒焦げになった農園を思い出し強く強く拳を握った。
だが、もう一人の男は当然のことながらまだ納得していないようだった。
「出てこなかったらどうする気だ! それでなくともあの村はいつもいつも収穫が少ないってのに……あぁ、また総督に怒鳴られちまう。お前も、覚悟しておけよ!」
「うるっせぇな。初めから言ってただろうが、俺にゃ向かねぇ仕事だってな。あーこんなとことっととおさらばして早く国へ帰りてぇぜ……」
◆◆◆◆◆
どこまで自分勝手な奴なんだろう。
怒りで身体を震わせていると、目の前にいたラグが動いた。
私は慌てて彼の後を追う。
ひさしのある正面に回った彼はドアの前に立ち、濡れて目に掛かってしまっていた前髪を鬱陶しげに払った。
そんな彼に思い切って言う。
「やっぱり私が先に」
だが私が言い終わらないうちに、なんと彼は目の前の木造のドアに思い切り蹴りを入れた。
凄まじい音を立てて、向こう側に倒れていくドア。
あまりに突然の行動に目をまん丸にしていると、すぐにドタドタと激しい足音が近付いてきてカルダともう一人の男が姿を現した。
「なんだテメェらは!!」
こちらに向かいそう怒鳴ったカルダの目が、私を見つけてニヤリと歪む。
「そうか、早速炙り出されてきたってわけかい」
そのにやけた顔を見た瞬間、全身に震えが走った。
思い出したくないのに、あの時の恐怖が一瞬にして蘇る。
でもそのときふいに肩に優しく手を置かれ、それがセリーンだと気付き、なんとか耐えることが出来た。
(しっかりしなきゃ!)
私は気力を奮い立たせ精一杯カルダを睨みつけた。
と、ラグが自分が倒したドアを踏みつけながら中に入っていく。
その全く躊躇の無い動きに今度はカルダではないもう一人の男の方が慌てるように喚いた。
「な、なんなんだお前達は!」
その男はカルダに比べると大分軟弱そうに見えた。見た目も態度も。
しかし先ほどの会話からして、カルダよりも上の立場の者のようだ。カルダは全くそのことを気にしていない様子だったが。
「へっへっ、言った通りだったろうが。こいつが俺が見た怪しい女だ!」
カルダが私を指差し嬉しそうに言う。
「まさか3人もいやがったとは。見ろ。あからさまな不法入国者じゃねーか。お前ら、一体どこから入って来やがった。何のためにあの村にいやがった!」
不法入国者。その言葉に私はどきりとする。
確かに、私達は何の手続きもしないままこの国に入ってしまった。やはり、この世界でもそれは犯罪行為になってしまうのだろうか。
(だとしたら、すっごくマズイんじゃないの!?)
一気に不安になった私はラグの背中を見つめる。
だがラグは全く気にしていない様子で腰に手をやり、突然、カルダ達へ向けナイフを突きつけた。
瞬間そのまま切りかかるのではと焦る。だが違った。
「オレの名はラグ・エヴァンス。調査のためこの国へ来た」
抑揚の無い、しかしはっきりとした声。
それを聞いた途端、カルダの顔が驚愕に歪んだ。
「ストレッタの魔導術士!?」
カルダではない、もう一人の男がラグのナイフを見て完全に裏返った声を上げた。
カルダの態度もその瞬間から豹変する。先ほどまでの威勢はどこへやら、気持ち悪いくらいの愛想笑いを浮かべたのだ。
「こ、これはとんだ失礼を。まさかこんな辺鄙なとこにストレッタの術士様がいらっしゃるとは思いませんで……」
なぜラグがストレッタの術士であるとわかったのか、それはこの後すぐにわかった。
ラグがもう不要と判断したのか慣れた手つきでナイフを腰に収めた、そのときだ。
(あ!)
見覚えのあるものがナイフの柄の部分にしっかりとはめ込まれていた。
それは以前ルバートの街に入るとき、ラグが身分証をと兵士に見せたバッジのようなもの。
それを見た兵士達が今のカルダたちと同じように酷く驚いたことを思い出す。
前はその意味がわからなかったけれど、今なら少しわかる。
魔導術という特別で圧倒的な力を持って今このレヴールを支配しているという、“魔導術士養成機関ストレッタ”。
――おそらく、その人間だという“証”なのだろう。
「しかし、調査とは一体……? 俺たちは何も聞いてませんが」
カルダが顔を引きつらせながらも笑顔で訊いた。
私もそれは気になった。調査って……?
すると、ラグは感情の無い声でとんでもないことを口にした。
「お前達はまだ知らないだろうが、ランフォルセに“銀のセイレーン”が現れた」
「!?」
私は思わず声を上げそうになってしまった。
(そんなこと、言ってしまって大丈夫なの!?)
しかし彼のことだ、きっと何か考えがあるのだろうと、私は極力動揺を顔に出さないようにカルダ達の方をじっと睨みつけていた。
カルダはラグが何を言っているのか瞬間理解できなかったのだろう、大きく眉を寄せ確認するようにもう一度その言葉を繰り返した。
「銀のセイレーンて、あの伝説の……ですかい?」
「あぁ、そうだ。そのときに闇の民を一緒に見たという目撃情報があってな。それでストレッタからこうしてオレが派遣されてきたってわけだ」
こちらがヒヤヒヤするような事実と嘘を、ラグはスラスラと躊躇することなく口にしていく。
案の定カルダの顔から笑みが消える。
私が言うのもなんだが、いきなり言われて信じられる話ではないだろう。
だがカルダはどうにかもう一度ひきつりまくった愛想笑いを浮かべた。
「それならそれで、俺達に先に言ってくれたら良かったじゃないですかい。そしたらこんな――」
「混乱を避けるため、出来る限り内密に調査し、終わり次第すぐに戻るつもりだった。内容が内容なだけに、な。……まぁ、結果問題は無かったんだが、帰るに帰れなくなってな」
それまで事務的だったラグの声音がそこで変わる。
「つい先刻、村の農園から突然火の手が上がった。この嵐のお蔭で幸い村は無事だったようだが、農園の作物は全滅だった」
「そ、そうなんですよ! 俺達もこれは不味いってんで、今その話しをしていたところなんで」
額にびっしりと汗を浮かばせながらも、しらばっくれるカルダ。
ラグは続ける。
「あの農園作りには確かストレッタもかなりの資金援助をしていたはずだ。もし何者かが故意に火をつけたのであれば、ストレッタも黙ってはいない」
「……っ」
カルダの顔から完全に笑みが消える。
私もここの農園がストレッタと関係していたとは思わなかった。いや、これもラグの嘘なのだろうか……?
「お前があの村の担当か。何か心当たりは?」
「い、いや、俺は何も知りませんです」
「……なら、これは知っているか? オレ達術士の中には特殊な力を持った奴がいてな、万物の声が聞こえるんだ。……例えば、炎に焼かれていく草木の悲鳴、とかな」
ぞっとするような低い声音。
その力を持っているのは神導術士であるライゼちゃんで、ラグにその力はないはず。わかってはいるけれど、まるでラグにもあのときの悲鳴が聞こえていたかのようにその声には怒気が含まれていた。
と、そのときだ。
「!?」
急にこちらを振り返ったラグに腕を取られ、私はそのまま強引に引き寄せられた。
「お前、さっきこの女がどうとか言っていたな」
ラグのすぐ隣に立たされた私を見て、カルダの表情が強張る。
「こいつはオレの連れでな、調査の助手にとストレッタから連れてきたんだ。こいつが、その特殊な力を持っている」
(えぇ!?)
まさかの展開に私は内心焦る。
でもそんなハッタリもカルダには効果抜群だったらしく、その顔が面白いほどに青ざめていた。
私は動揺を隠し、ラグのハッタリに合わせて思いっきりカルダを睨みつけた。
「で、教えてくれたそうだ。農園の草木が最後の力で、誰が、自分達に火をつけたのかを、な」
まっすぐにカルダを睨み見ながら小声で「そうだな?」と訊かれ、私は大きく頷く。
そしてこれまでの憤りを全てぶつけるように、カルダに向かいビシっと指を突きつけた。
「あなたが、あの農園に火をつけた!!」
「ぐぅっ」
小さく呻きその場から一歩後退ったカルダが後ろにいた男とぶつかる。
それだけのことで後ろの男はバランスを崩し床に倒れこんだ。男は顔面蒼白。立ちあがろうともせずに、ただこちらを見上げている。
ラグの詰問はまだ終わりではなかった。
「それともう一つ。……お前、昨夜こいつに何をしたか、覚えてないわけねぇよな?」
カルダの顔に再び動揺が走る。
それを見てか、ラグが口の端を上げた。
「――ストレッタの人間に手を出すなんざ、いい度胸してるじゃねぇか」
その言葉が止めとなったのか、カルダがその場にがくんと膝を付いた。
顔を伏せ、力無く肩を下ろしたその姿はとても小さく見えた。
(これで、終わった?)
そう思った。
だが、カルダはまだ観念したわけではなかった。
「ストレッタがなんだってんだ……」
小さく聞こえたそんな声。
そして次の瞬間、こちらを見上げたカルダの凄まじい憤怒の形相に私はビクリと肩を竦めた。
「魔導術士がなんだってんだ!!」
そんな怒声と共に再び立ち上がった彼の手には、いつの間にかナイフが握られていた。
ラグは私を後ろに突き飛ばし、すぐさま腰のナイフに手をかける。
「ラグ!」
セリーンに受け止められた私は思わず悲鳴を上げる。
しかし焦ったのは私だけではなかった。
「お、お前何を!? この人は、あの――」
後ろで倒れていた男がカルダを制止するように何か言いかける。だが、
「うるっせぇ! こいつら皆殺しちまえば、真実も消えてなくなるぁああああああ!!!」
カルダはそう叫びながらナイフを振り上げこちらに向かってきた。
こんな至近距離では術を使うヒマもない……!
「セリーン!」
助けを求め、私を庇うように前に出ていたセリーンの腕を掴む。だが彼女は動かず、ただ涼しい顔で彼らを見つめるだけだった。
ドンっと鈍い音がその場に響く。
恐る恐る視線を戻すとカルダはまだナイフを振り上げた格好のままだった。だが、その目は大きく見開かれ、だらしなく開いた口から掠れた呻き声が漏れた。
手からナイフが零れ落ち、乾いた音を立てる。
ラグが離れると、支えを無くした身体はゆっくりと崩れ落ちていった。
(し、死んじゃった?)
だが、ラグの左手に握られたナイフに血は付いていなかった。
おそらく、ナイフの柄でカルダのナイフを防ぎ、鳩尾に強烈な右拳を打ち込んだのだ。
これまで何度かラグの闘い方を見てきたけれど、とにかく彼の動きは素早い。今も、カルダのナイフが振り下ろされるより早く、その懐に飛びこんだのだろう。
どう見ても体格では相手の方が勝っているというのに。
――やはり彼は、とんでもなく強い。
右手に持ち替えたナイフを鞘に仕舞い、彼はもう一度気を失っているカルダを冷たく見下ろした。
ずっと響いていたはずの激しい雨音が、思い出したように耳に入ってくる。
と、呆然と一部始終を見ていたもう一人の男が、自分に向けられたラグの視線に気付き、ひっと情けない悲鳴を上げた。
「お前が、ここの責任者か?」
「は、い、いえ、次の連絡船で総督が来られるはず、です」
「その連絡船はいつ着く」
「お、おそらくもうそこまで来ているはずで……は、早ければ明朝には……」
「なら、そいつにこいつのしたことを全て話せ。放火に暴行、それとストレッタに対して吐いた暴言、全部だ。わかったな」
「は、はい!」
「それまでこいつは逃げないように縛ってどこかに転がしておくんだな」
「はい!」
ラグの言うこと全部に、まるで小さな子供のように頷き返事をする男。
そして、ラグは最後付け加えるように告げた。
「それと、今後同じことが起きないよう、派遣する人間は十分厳選するようにと伝えておけ」
私はハっとして、男に背を向けこちらに歩いてくるラグの顔を見上げた。
そこからは何の感情も読めなかったけれど、彼は、もうこの国にカルダのような最低な人間が派遣されることのないよう、言ってくれたのだ。
そしてその言葉にも、男は大きく返事をしたのだった。
「戻るぞ」
傍らを通り過ぎざま短く言われ、私は戸惑いながらも頷きそれに続いた。
家を出てからもう一度振り返ると、男は未だ怯えた顔でラグの背中を見つめていた。
外はまだ雨が降っていたけれど、先ほどより弱まった気がする。見ると、海の向こうの空が少し明るくなってきていた。
きっと、もう間もなくこの雨は止むだろう。
私は濡れて固くなった砂浜を再び歩きながら訊く。
「ねぇ、ちゃんとその連絡船が来るまで、カルダ見張っていなくて平気かな?」
「平気だろう」
答えてくれたのはすぐ後ろにいたセリーン。
「カルダは気付いていなかったみたいだが、もう一人の男は確実に気付いていた」
「え?」
セリーンの視線が私からラグへ移る。
その目は鋭く細められていた。
「ラグ・エヴァンス」
セリーンの通る声にラグが足を止めた。
「まさかとは思っていたが、貴様があのラグ・エヴァンスか」
「……だからなんだ」
振り返らずに答えたラグとセリーンを私は交互に見つめる。
――なんだろう、とても嫌な雰囲気だ。
これまで何度か言い合う二人を見てきたけれど、こんなにも不安な気持ちになるのは初めてだった。
ラグ・エヴァンス。それがラグのフルネームであることはつい先ほど知ったばかりだけれど、何かその名前に特別な意味があるのだろうか。
と、セリーンが再び口を開いた。
「なぜ、ストレッタが生み出した“悪魔の仔”が、こんな場所にいる」
(悪魔の仔……?)
雨音と潮騒の響く中はっきりと聞こえたその言葉に、胸がドクンっと嫌な音を立てた。
一呼吸置いて、ラグのいつもと変わらない不機嫌な声が聞こえてくる。
「言ってるだろう、このクソむかつく呪いを解くためだ」
「ストレッタが、簡単に貴様を外に出すとは思えない。本当に、それだけの理由か?」
「満足に術の使えない術士を置いておくほどストレッタもアホじゃない。……それ以外の理由が必要か?」
ラグの自嘲するような声音にセリーンは口を噤んだ。
そしてラグは再び歩き出す。
セリーンは少しの合間その背中を見つめていたが、私の視線に気付きふっと笑った。
「悪かったな。私達も行こう」
「セリーン、悪魔の仔って?」
訊かずにはいられなかった。
セリーンはもう一度先を行くラグを見つめて、教えてくれた。
「……昨日話しただろう、ストレッタの術士数人が一つの街を滅ぼしたと」
「うん」
「その中に、まだ年端の行かない少年がいた。――いや、その少年が一人で街を滅ぼしたと言ってもいい。それほどの力を持っていたんだ。その少年は後に、“悪魔の仔”と呼ばれるようになった。その少年の名が、ラグ・エヴァンス。……あの男だ」
(ラグが、一人で街を……?)
ドクドクと心臓の音が煩くて、知らずのうちに胸元を押さえていた。
「ストレッタは奴を寵愛しただろうな。奴のお蔭でストレッタの名が広まったと言っていい。なにせ幼い少年でもそれほどの力を持っていると、世界にその名を知らしめることが出来たのだからな」
ふいに、ライゼちゃんのセリフが蘇る。
――ストレッタは、悪魔を生み出しました。
「……もしかして、ライゼちゃんも気付いてた?」
「おそらくな。私も奴の名を聞いたときはまさかと思ったが、ストレッタがそう簡単に奴を手放すとは思えなくてな」
「そう、だったんだ」
(ラグが、悪魔の……?)
それが事実なら、ラグは子供の頃に大勢の人を殺したことになる。
――恐ろしい映像が頭を過ぎる。
朝見たあの可愛らしい少年が、独り、無数の死体の前に立つ姿。
そしてその少年の顔が、昨夜見た、あのラグの表情と重なった。
「さぁ、もう行こう。村の方が気になる」
「あ、あのね、セリーン」
歩き出そうとしたセリーンを引き止めるように私は声を掛けた。
セリーンが振り返る。
「ラグね、多分だけど……その時のこと、すっごく後悔してるような気がするんだ」
セリーンが、驚いたように目を瞬く。
「ま、まだラグとは会ったばかりだし、いつも怒られてばっかで、たまに本気で怖いけど……でも、あ、悪魔なんて言われるほど、冷たい人じゃないと思うんだ。……だから、その」
口に出しながら、自分が何を言いたいのかわからなかった。
ただ、“悪魔の仔”という呼び名がとても嫌だった。
私はその時に亡くなった多くの人を知らない。
その時に大事な人を亡くした人の悲しみを知らない。
私が知るのは、今のラグだけ。
その私がそう思うことは、いけないことなのかもしれない。
(セリーンだって、戦争中に大事な人を亡くしているかもしれないのに)
急に不安になって次の言葉が出ないで居ると、濡れてぺしゃんこになった頭にポンと手を置かれた。
優しく目を細めたセリーンがそのまま私の頭を撫でる。
「セリーン、……怒ってない?」
「なぜ私が怒る必要がある。いや、今の言葉を奴に聞かせてやったらどんな反応をするだろうと思ってな」
「やっ、ヤダヤダやめて! 絶対またものすっごく怒られるから!!」
本気で焦ってそう言うと、セリーンが手を離し珍しく声を上げて笑った。
「はははっ! 冗談だ、言ったりしないさ」
ホッとするが、セリーンはすぐに笑うのを止め、もう一度真剣な顔で言った。
「奴が当時のことをどう思っているかは知らんが、奴を心底恐れ、心底憎んでいる者が多いのは事実だ。奴と行動を共にする以上そのことを知っておいたほうがいい」
「……うん」
しっかりと頷くと、セリーンの表情が和らいだ。
「さ、もう行こう。ライゼたちに今あったことを伝えるのだろう」
「そ、そうだよね。早く行かなきゃ!」
見るともう海岸にラグの姿は無かった。
私たちは彼に追いつくため、大分弱まってきた雨の中を走った。
――ラグがその時のことを後悔しているかどうかなんて、本人にしかわからないことなのに。
なぜそんなふうに思ったのだろう。
私はもしかしたら、彼に後悔していて欲しいのかもしれない。
後悔しているなんて、絶対に言わなそうだけれど。だからなのかもしれないけれど。
あの小さな少年が、どんな思いで戦争の真っ只中にいたのか、知りたいと思っている自分がいた。




