28.出航
「はぁ!?」
グリスノートがひっくり返ったような声を上げ、周囲にいた仲間たちも大きくざわついた。
「何言ってんだお前!」
「もう決めたの! 私も一緒についてく!」
――つい昨日、女は船には乗ってはいけないのだと話してくれたリディ。
(急にどうしたんだろう……)
皆が見つめる中、兄妹の言い合いは続いた。
「んなのダメに決まってんだろうが! 今まで通り、俺たちが帰ってくるのを大人しく待ってろ!」
「今までずーっと我慢してきたわ! でも、もう待ってるのは嫌なの!!」
これまで押し隠してきた感情を爆発させるかのような叫び声に、こちらも胸がぎゅっと締め付けられた。――ふいに思い出したのは、グリスノートの部屋の窓際にぽつんと置かれた寂しそうな人形。あれはきっと、家でひとり家族の帰りを待つリディ自身だ。
グリスノートもそんな妹の想いに一瞬言葉を失くしたようだ。しかし。
「――て、テッドの店はどうすんだ! それにオルタードが許すはずねぇだろうが!」
「オルタードは好きにしろって言ってくれたわ! テッドにはこれからちゃんと話すもの!」
「はぁ!?」
その視線がオルタードさんの家を睨み、すぐにまたリディに戻った。
「俺は許さねぇぞ!」
「なんでよ!?」
「お前が女だからだ!」
「カノンやセリーンさんも一緒でしょ!? 私一人加わったところで変わりゃしないわ! それに私がいれば食事だって大分まともになるわよ!」
そこでまたグリスノートがぐっと言葉に詰まるのがわかった。
……そういえばこの船で食事はまだしたことないけれど、グリスノートたちは普段船内でどんな食事をしているのだろう。半月ほどずっとこの船で過ごすのだ。食事は美味しいに越したことはないけれど……。
「そういう問題じゃ、」
「それに私だってアヴェイラに会いたいもの!」
「――っ!」
その言葉にグリスノートは今度こそ口を噤んだ。
先ほども聞いた気がする『アヴェイラ』という名前。
(もしかしてそれが、例の術士の海賊……?)
「急いで支度してくるから、勝手に出航しないでよね!」
兄をびしっと指差すとリディはそのままくるりと背を向け、岩山の方へと駆け出した。
グリスノートが船縁をどんと叩いて毒づく。
「何を考えてんだあいつは!」
「やっぱり、寂しいんじゃないッスか?」
彼の横にひょろりと背の高い青年が立った。いつもグリスノートの傍にいる気がする人だ。グリスノートよりも大分年上に見える。セリーンと同じくらいだろうか。
「というか、頭……じゃなかった船長。嫁さんも一緒に連れて行く気なんスか?」
「!」
彼が私を見下ろし、その場にいた人たち全員の視線が一斉に集まってきてびくっと肩をすくめる。
するとグリスノートはさも当然のように答えた。
「そりゃ結婚してすぐだからな、いきなり離れるなんて寂しいよなぁ、カノン!」
「えっ」
船の上から手を振られて思わず固まっていると、いたるところからヒューっと歓声が上がった。
すぐ横からは大きな舌打ち。
「まぁ、カノンだけ置いていくわけにもいかんしな」
セリーンがそう溜息を吐いた。
……そうだ。本来ならお嫁さんは町に残らなければならないのだ。
私は引きつりまくった笑顔で、とりあえず手を振り返しておいた。
「なら、リディアンちゃんの言う通り、問題ないんでは?」
「……」
「船長が、嫁さんもリディアンちゃんも守ればいいだけの話じゃないっスか。俺たちも美味い食事は大歓迎っス。なぁ?」
その問いかけに近くにいた仲間たちが一斉に「おーっ!」と嬉しそうな声を上げた。
グリスノートは仲間たちのそんな反応に渋面をつくり、それからガシガシと頭をかいた。
「仕っ方ねぇな……。リディー!!」
入り江全体に響き渡る大きな呼び声に、岩山を登っていたリディがぴたりと足を止めこちらを振り向くのが見えた。
「ちんたらしてっと置いてくからなー!」
兄のそんな怒鳴り声にリディはすぐに同じくらいの声量で返した。
「わかってんわよー!!」
そうしてまた彼女は岩山を駆け上がり始める。
それを見届けてからグリスノートは今度は仲間たちに向かって大声で呼びかけた。
「よーし、準備の続きだー! 急ぐぞ、てめぇらー!」
そして再び仲間たちの威勢のいい声が上がったのだった。
「リディ良かった」
ほっと胸を撫でおろす。
「リディにとっては、兄と共に船に乗ることが“夢”だったのかもしれんな」
セリーンの言葉にハっとする。
小さな頃は一緒に船に乗りたいとせがんだ、そう話していたリディ。
「うん、きっとそうだね」
だとしたら、この船旅はグリスノートの夢であり、リディの夢でもあるのだ。
「それに、海賊の飯は酷いと聞いたことがあるからな。リディが同乗してくれるのは有難い」
「そ、そうなんだ……」
思わず顔が引きつってしまった。もしそれが本当なら、心底有難い。
なんにしても、女の子が増えるのは単純に嬉しかった。
出航の準備が整ったのはお日様が真上に昇った頃だった。
入り江には大勢の人々が見送りに出ていた。やはり女性や小さな子が多い。
「気を付けて」
「いい風が吹くように祈っているわ」
「父ちゃん、早く帰って来てね」
そんな見送りの言葉が飛び交い、強く抱きしめ合っている家族も見かけた。
今回の船出はいつもとは違うのだ。きっと皆不安なのだろう。
そんな人たちを横目にしながら桟橋を渡っているときだ。
「カノン!」
呼ばれて振り向くと、あのエスノさんがこちらに向かって走って来る。
昨日のこともあってなんとなく気まずく思いながらそちらに駆け寄ると、筒状に巻かれた大きな布を手渡された。
「これを、グリスノートに渡しておくれ」
「え?」
「この日のために皆で作っていたんだ。渡したらすぐにわかるさ」
「わかりました」
頷くと、エスノさんは満足げに微笑んだ。
「今日という日が来たのも、あんたが嫁になると決めてくれたお蔭だよ。本当にありがとう」
「い、いえ」
なんとか笑顔を返すと、エスノさんは船の方を眩しそうに見上げた。
「あの子はこの町の希望なんだ。ちょっと変わったとこもあるけどさ、あの子のことよろしく頼んだよ、カノン」
「え、あ、はい」
そう返事しながら、ちくちくと胸が痛んだ。
「なんだそれ」
少し遅れて船に乗り込んだ私に不機嫌そうな声が掛かる。ラグとセリーンが私の手元を見ていた。
「わからないけどグリスノートに渡してくれって、えっ!?」
「貸せ、オレが渡してくる」
「え、ちょっと!」
私の手から奪うように持って行ってしまったラグを慌てて追いかける。
甲板の中央付近にいたグリスノートは近づいてくる私たちにすぐに気づいたようだ。
「これを預かった」
「あ?」
目の前にずいと差し出されたそれを見てグリスノートは眉を寄せた。
「あの、エスノさんが渡してくれって」
「エスノおばちゃんが?」
言って彼はそれを受け取った。
「今日のためにみんなで作ったって」
私が言い終わらないうちに、バサリとグリスノートはそれを広げてみせた。
柔らかな風にたなびいたそれを目にして、彼の瞳が大きく揺れるのを見た。
それは旗だった。あの海賊旗ではない。
スカイブルーに翼を広げた白い鳥のシンボル。
「グレイス……?」
思わず声が出ていた。
グリスノートがつんのめるようにして船縁の方へと駆けていく。そしてその旗を高く掲げ、彼は大きな声で叫んだ。
「最っ高な旗をありがとなー! 絶対にいい話を持ち帰るから楽しみにしてろよー!!」
わーっと大きな歓声が返ってきて、それにまた笑顔で答えているグリスノートを見てつい顔が綻んでしまう。
(この町の“希望”かぁ)
「見惚れてる?」
「へ?」
いつの間にかリディがにんまりと笑って私を覗き込んでいた。
そしてこそっと小さな声で続けた。
「いつでも本当のお嫁さんになっていいんだからね?」
「え、」
リディはにっこり笑ってからパタパタとグリスノートの方へ駆けて行ってしまった。
兄妹並んだ背中を見て小さく息を吐いていると、横からまた舌打ち。
「お前、あの野郎と絶対に二人きりになるなよ」
「え?」
空よりも深い青が睨むように私を見ていた。
「帰るんだろ。元の世界に」
急に、そんなふうに言われてどきりとする。
「――も、勿論!」
そのために今、お嫁さんのふりまでしてここにいるのだ。
するとラグは私から視線をグリスノートへと移した。
「なら、あの野郎には極力近づくな。どうせ、町を離れればふりも終わりだろ」
「う、うん。そうだね」
しっかりと頷く。
そうだ。私は帰るのだ。だからお嫁さんとか、この世界の人を好きになるなんて絶対にありえない。だって、好きになんてなってしまったら――。
(好きになって、しまったら……?)
「よーし、てめぇら出航だー!!」
「アイ、アイ、サーー!!」
そんな大声にハっと我に返る。グリスノートが船首の方へ向かいながら次々仲間へ指示を送っていく。
いくつもの帆が勢いよく張られると、船が桟橋からゆっくりと離れていく。
いよいよ出航の時が来たみたいだ。
「行ってきまーす!」
リディが町の皆に手を振っているのを見て、私もそちらへ足を向ける。
エスノさんや昨日一緒に準備をした小さな女の子、皆がこちらに手を振ってくれていて。
「ありがとうございましたー!」
心の中で嘘をついてごめんなさいと謝りながら私も大きく手を振った。
だんだんとその姿が遠のいていき、手を下ろしかけたときだ。
「オルタード……!」
リディが身を乗り出し上ずった声を上げた。
よく見れば確かに人垣の中に小さくオルタードさんの姿があった。
「オルタードーー! ありがとー! 兄貴のことは私に任せといてーー!!」
その甲高い声は泣くのを必死にこらえているように聞こえた。でも彼女は笑顔だった。
オルタードさんは杖をつきただじっとこちらを見つめていたが、ふと傍らに気配を感じると恭しく胸に手を当て頭を下げた。セリーンが彼の方を見て綺麗に微笑んでいた。
かつてお嬢様と執事だったふたりの姿が一瞬、見えた気がした。
岩山に遮られ皆の姿が見えなくなり船が入り江を抜けると、いよいよ目の前には大海原が広がった。
「そういえばカノン、今回は船酔いは平気そうか?」
「えっ! あ、あぁ~、平気……だといいな」
船酔いのことなどすっかり忘れていた。今度は半月ほどずっと船の上なのだ。そう思ったら急に胃の辺りがもやもやしだして、思いっきり潮風を吸い込む。
「え、カノンって船酔いするの?」
リディに訊かれて苦笑する。
「うん。この間初めて船に乗ったらね。でももう慣れたと思いたいんだけど」
「私もこれが初めてだけど、私も船酔いするのかしら……きゃ!?」
そのとき、急な強い風に船体がぐらりと揺れた。
私はすぐ傍らにいたセリーンが支えてくれたおかげで転ばずに済んだけれど、リディは――。
「……あ、ありがとう」
「初めてなら、どこかに掴まってろ」
ラグがリディの腕から手を離し、そっけなく言った。
「はい……」
返事をしたリディの顔がまた真っ赤に染まっているのを見て、なんだかまた胃のあたりがもやもやした気がした。
「無事にヴォーリア大陸に着くといいな」
「そう、だね」
セリーンの言葉に答えながら、私はもう一度真っ青な大海原を見渡しいっぱいに深呼吸をした。
向かう先に、今度こそきっとエルネストさんはいる。そんな確信があった。
彼に会えたらやっと元の世界に帰れる。やっと、家族の元に帰れるのだ。
(でもその前に例の術士の海賊と対峙することになりそうだし、それに――)
ちらりとラグの方を見れば、彼もまた睨むように海の向こうを見つめていた。その髪の結び目にはブゥがゆらゆらと揺れていて。
視線を戻して私はぎゅっと強く拳を握る。
――大丈夫。私もいる。セリーンだっている。だから絶対に大丈夫。
バサバサという音に気付いて振り仰ぐと、眩しい太陽の下先ほどの新しい旗が空の色に溶け込み本当にグレイスが羽ばたいているように見えた。
(エルネストさん、待っていてください。今度こそ会いに行きます!)
遥か先、水平線の向こうで彼が優しく笑いかけてくれている気がした。
第六部 了




