ショートストーリー完結
【思い遣りのポケット】
健太は、クラスでいちばんドジだった。
体育では、ボールを投げれば後ろに飛んだ。
算数では、三と八をよく間違えた。
給食では、週に一度は何かをこぼした。
「健太って、ほんとバカだなぁ!」
みんなが笑う。
健太も笑う。
「いやぁ、今日も絶好調!」
先生まで笑っていた。
*
ある朝、教室の花瓶が割れていた。
床には水が広がり、花が散らばっていた。
「誰がやったの!」
先生が尋ねた。
誰も答えなかった。
健太が手を挙げた。
「たぶん、ぼくです!」
「たぶんって何!」
「昨日、近くを歩いたから!」
みんなが吹き出した。
先生はため息をついた。
健太は雑巾を持ってきて、床を拭いた。
本当は、誰が割ったのか知っていた。
朝いちばんに登校したとき、花瓶の前で泣いている美咲を見つけたのだ。
美咲は、先生に怒られるのが怖くて震えていた。
健太は何も聞かなかった。
ただ、花を拾った。
*
雨の日。
傘を忘れた翔太が、昇降口で立ち尽くしていた。
「うわっ、ぼくの傘、壊れてる!」
健太が叫んだ。
傘を開くと、骨が一本曲がっていた。
「こんなの、いらないや!」
健太は傘を翔太に押しつけた。
「捨てといて!」
そう言って、雨の中を走っていった。
翔太が傘を開くと、少し曲がっているだけで、十分使えた。
翌日、健太は風邪をひいていた。
「バカは風邪ひかないって嘘だな!」
みんなが笑った。
健太も笑った。
*
冬になった。
転校してきた大地は、まだクラスになじめずにいた。
ある日、給食の時間に牛乳を倒してしまった。
机から床へ、白い牛乳が広がった。
「うわ、きったねー!」
誰かが叫んだ。
大地は真っ赤になって、うつむいた。
そのとき。
ガシャーン!
健太が、自分の牛乳をひっくり返した。
「うわー! こっちのほうがすげぇ!」
教室中が笑った。
「健太、またかよ!」
「一日に二人もこぼすなんて!」
健太は頭をかいた。
先生が呆れた顔で雑巾を取りに行った。
大地も、少し笑った。
健太は床を拭きながら、大地に小さく言った。
「牛乳って、よく滑るよな」
大地はうなずいた。
それが、二人の最初の会話だった。
*
卒業式の日。
先生は、一人ずつ名前を呼んだ。
健太の番になると、あちこちから笑い声が上がった。
「転ぶなよー!」
「ちゃんと歩けよー!」
健太は大きく手を振った。
そして、壇上の階段で本当に転んだ。
体育館が笑いに包まれた。
健太も笑った。
*
卒業から十年が経った。
同窓会が開かれた。
健太は来なかった。
「そういえば、健太って何してるんだろう」
誰かが言った。
「相変わらずドジしてるんじゃない?」
みんなが笑った。
美咲が口を開いた。
「私ね、あの子に一度もお礼を言ってないの」
花瓶の話をした。
すると翔太が言った。
「俺も、傘をもらったことがある」
大地が顔を上げた。
「俺も……あいつに助けられた」
しばらく沈黙があった。
それから、一人、また一人と話し始めた。
なくした消しゴムが、翌朝机に戻っていたこと。
破れた図書室の本が、いつの間にか直っていたこと。
全部が健太の仕業だったかどうかは、誰にもわからなかった。
ただ、誰かが言った。
「あいつ、いつもポケットに何か入れてたよな」
「そうそう。パンパンだった」
「何が入ってたんだろう」
誰も答えられなかった。
*
健太は小さな町の交差点にいた。
買い物袋を抱えたおばあさんが、横断歩道の前で困っていた。
健太は自転車を止めた。
「あっ、すみません!」
おばあさんが振り向いた。
「ぼく、向こうまで行くんですけど、荷物が軽すぎて困ってるんです」
「まあ、変な人ねぇ」
おばあさんは笑った。
健太も笑った。
荷物を半分持って、横断歩道を渡った。
「ありがとうね」
「いえいえ、助かりました!」
おばあさんは不思議そうな顔をした。
健太は手を振って、自転車に戻った。
ズボンのポケットには、小さな穴が開いていた。
昔から、よく物を落とした。
だから母親が、何度も縫ってくれた。
今日もまた、糸がほつれていた。
健太は指を突っ込んでみた。
向こう側が見えた。
「ありゃ。またか」
健太は笑った。
ポケットは、いつも空っぽだった。
誰かのところには、何かが残っていた。




