第四話「夕餉の香りと、嵐の予感」
「……ふぅ。今日も、生き延びたな」
重い校門をくぐり、俺は一つ溜息をついた。
雨上がりのアスファルトが夕陽を反射して、妙に眩しい。物置での彩音との「共犯関係」、そしてさくらのあの少しだけ温度の低い視線。今日は、一週間分の感情を使い果たした気分だ。
普通なら、ここから自分の家という名の「避難所」に帰るところだが、俺の足は自然と、自宅の二軒隣にある春野家へと向かっていた。
俺の家は、今やただの「寝床」だ。
海外赴任で一年の大半を空に浮いている親父は、たまに送ってくる絵葉書と、機械的な送金だけでその存在を証明している。母親がいなくなったあの日から、俺の家のキッチンには火が灯っていない。
「……お邪魔します」
勝手知ったる他人の家。玄関を開けると、出汁の効いた優しい香りが鼻をくすぐった。
「あ、恒一! おかえり、ちょうど今お味噌汁作ったところだよ」
エプロン姿のさくらが、キッチンから顔を出した。学校での制服姿もいいが、こうして髪をラフにまとめて家事に勤しむ姿は、嫌でも「家族」という言葉を想起させる。
「……ああ。さくら、今日も悪いな。親父から連絡は?」
「相変わらず。おじさんも忙しいんだろうけど、恒一を放っておきすぎだよね。ほら、ぼーっとしてないで手洗ってきて。今日は恒一の好きなアジフライだよ」
「……分かった」
洗面所で手を洗い、リビングの椅子に座る。
ここが俺の、唯一「空席」ではない場所。
春野家の人々は、俺を「かわいそうな隣の子」としてではなく、最初からそこに席がある「当然の家族」として扱ってくれる。それは救いであると同時に、俺が守るべき「孤独の壁」を内側から溶かしてしまう毒でもあった。
「……いただきます」
「はい、召し上がれ。あ、恒一、キャベツもちゃんと食べてよ? 野菜不足なんだから」
さくらは自分の皿には目もくれず、俺の食事内容をチェックしてくる。
「……食ってるよ。さくらこそ、そんなに見るな。味がしなくなる」
「あはは、ごめんごめん。でもさ、恒一が美味しそうに食べてると、作り甲斐があるんだもん」
さくらは満足そうに微笑み、ようやく自分の箸を動かした。
その穏やかな空気の中に、俺はふと、今日の放課後の出来事を持ち込んだ。
「……さくら。さっきの物置のこと、美優に何か言ったか?」
「美優? ううん、別に。……『恒一を閉じ込めるなんて、相変わらず無茶苦茶するね』って笑っといた。美優も反省してたよ、『橘くんに悪いことしちゃったなー』って」
「……そうか」
「でも……小鳥遊さんとは、仲良くなったの?」
さくらの箸が、一瞬だけ止まった。
「……仲良くなったわけじゃない。ただ、あいつも一人が嫌いなだけだと分かっただけだ」
「ふーん……。恒一が自分以外の女の子の内面をそんな風に言うの、珍しいね。……昔は、私以外の隣には、誰も入れないって顔してたのに」
「……昔の話だろ。それに、今はお前の家で飯を食ってる。それで十分だ」
俺がそう言うと、さくらは少しだけ目を丸くし、それからくすぐったそうに笑った。
「そうだね。恒一は、ここでご飯食べてればいいんだよ。それが一番安全だしね」
「安全」
その言葉に、わずかな違和感を覚えた。
さくらにとって、俺が他の女子と関わることは「危険」なことなのだろうか。
いや、違う。彼女はただ、俺が再び傷つくのを恐れているだけだ。あの日、暗い部屋で膝を抱えていた俺を、最初に連れ出したのは彼女なのだから。
彼女にとって俺の「隣」は、慈しみ育ててきた庭のようなものであり、そこに新しい種が蒔かれることを、彼女自身も無自覚に恐れている。
食事を終え、自分の家に戻ってベッドに倒れ込んだ。
暗い部屋。時計の針の音だけが響く。
さくらの家での温もりが消え、再び「本来の俺」に戻る瞬間だ。
――ピコン。
スマホが鳴った。メッセージアプリの通知。
『橘くん! 寝てないよね!? 明日の朝、一時間早く学校来て! 体育館の裏!』
……小日向美優。
この女は、親に拒否権という概念を教わらなかったのか。
『……拒否する。俺は一秒でも長く寝ていたい』
『ダメ! 実行委員の特権で強制召集! 橘くんにしか頼めないことがあるの! 断ったら、明日一日中、橘くんのクラスで大声で校歌歌うからね!』
……テロリストか。
俺は溜息をつき、スマホを枕元に投げ捨てた。
美優の明るさは、時に暴力に近い。だが、彼女のあの有無を言わせぬ勢いは、俺の重い腰を浮かせてしまう何かがあった。
翌朝。不本意ながらも、俺は一時間早く登校した。
朝靄の残る体育館裏。そこに美優の姿はなかった。
「おかしいな...........」
俺は行方不明の美優を探しながら用具室に入った。
「あ................」
するとそこには着替え途中の裸の美優がいた。
「あ、ごめんごめん。カギ閉め忘れてた」
「ご、ごめん..........」
「いいよいいよ。カギ閉め忘れてた私も悪いし。ラッキーくらいに思っててよ。私結構いい体してると思うし」
おい、それでいいのか
「私めちゃくちゃ汗かくから着替えるとき一回裸になるんだよねー」
「.....あんまり男にそういうこと言うもんじゃないぞ........」
美優は悪気なさそうに俺に言った。
「まあ確かに恥ずかしいけど、橘くんにならいいかなって。それとも何?興奮しちゃってる?」
美優はからかうように言った
「.................」
言い返せない。
美優は笑いながらパンツ、シャツ、制服と着替えていく。とんでもないスピードだ。
「いやー朝早くから来てくれてありがとう。大好き!」
「……校歌を歌われたくないだけだ」
美優は笑いを止めて、真剣な表情で俺に向き合った。
「……あのさ。これ、誰にも内緒だよ? ……私、今回の球技大会、本当はすごく不安なんだ」
「……お前が? 陽キャの権化みたいな顔して、何言ってるんだ」
美優は苦笑いしながら、自分の腕をさすった。
「私、バスケ部のエースって言われてるけど……。本当は、周りの期待に応えなきゃって、ずっと無理してるんだ。実行委員に立候補したのも、『小日向ならやってくれる』っていう空気に負けちゃって……。でも、実務的なこと、私全然ダメでしょ? だから……」
美優は一歩、俺に近づいた。
「橘くんみたいな、冷静で、周りに流されない人の『隣』にいたいんだ。君が名簿を持ってそこにいてくれるだけで、私、自分が空っぽじゃない気がするんだよね」
彼女の瞳は、いつもの爛々とした光ではなく、助けを求めるような、どこか脆い色を湛えていた。
美優にとって、俺は「自分を飾らなくて済む唯一の場所」になりつつあった。
「……勝手な奴だな。俺を杖か何かだと思ってるのか」
「あはは! 杖かー、いいね! 世界一頑丈な杖! ……ねえ、橘くん。大会が終わるまででいいから。私のこと、支えてくれる?」
美優が俺の手を握った。
スポーツを嗜んでいる者の、少しだけ硬くて温かい手のひら。
それでも女の子らしい自分よりも少し小さな手。
「……勝手にしろ。ただし、俺のペースを乱すなよ」
「やった! 約束だよ、橘くん!」
美優は再び満面の笑みを浮かべ、俺の周りを跳ねるように走り出した。
その背中を見ながら、俺は思う。
誰もが羨むエースの彼女が、実は「空っぽ」の恐怖と戦っていること。そして、その穴を埋める相手として、あえて「影」にいる俺を選んだこと。
「あ、恒一? ……何してるの、こんなところで」
背後から、凍りつくような声。
振り返ると、そこには登校してきたばかりのさくらが立っていた。
彼女の視線は、まだ熱を持っている俺の手と、嬉しそうに走り回る美優の間に注がれている。
「……さくら。……早かったな」
「うん。……恒一、美優と何か『約束』したの?」
さくらの声は穏やかだった。
けれど、その瞳の奥には、昨日よりもずっと深い、けれどまだ名前の付かない「何か」が渦巻いていた。
一人が正解だと思っていた。
けれど、朝の光の中で、俺を巡る「トナリ」の争奪戦は、俺の知らないところで既に始まっていたのだ。
どうも。しろもちです。
いやー主人公うらやましいっ!まあ僕はチラリズム信者なので!別にいいけど!
ところでさくらが若干重たくなってきましたね。面白い展開になってきましたね。
五話もほぼ完成しているので楽しみにしていてください!




