第一話「トナリの空白」
「……ふぅ。今日も、ここだけは無事か」
昼休み。喧騒の渦と化した学食で、俺、橘恒一はいつもの場所に辿り着いた。
大黒柱の陰。日当たりが悪く、冬は底冷えがする。おかげで、リア充どもの視界には入らない。
俺はトレイを置き、二百八十円の素うどんを一口啜った。
「……あぁ、美味いな。この『無』に近い味が、今の俺にはちょうどいい」
鞄から文庫本を取り出し、栞を抜く。活字の海に飛び込もうとした、その時だった。
「……っ! げほっ、ごほっ! ……ちょ、何これ、殺す気!? 辛すぎ、バカじゃないの!?」
ガタン! と激しい音を立てて、俺の目の前の椅子が引かれた。
顔を上げると、そこには一人の女子生徒がいた。ポニーテールを揺らし、涙目で口元を仰いでいる。
「……あの。そこ、俺の席なんだけど」
俺の存在に気づいていなかった女子生徒は驚きつつも、即座に強気に言い返した。
「……はぁ!? 何よあんた、いつからそこにいたのよ! 幽霊か何か!?」
「最初からいた。というか、幽霊にうどんが啜れると思うか」
「知らないわよそんなの! 私が先に座ってたんだから、あんたが他行きなさいよ!」
「先に、と言っても、俺は入学以来この席以外に座ったことがない。ここは俺の指定席だ」
「はぁ!? 席に名前でも書いてあるわけ? ほら、見なさいよ、書いてないわよね!」
彼女――小鳥遊彩音は、テーブルの裏まで覗き込む勢いで噛みついてきた。
「名前は書いてないが、俺の『恒常性』がここに帰属している」
「何よその難しい言い方! むかつくわね! 大体、あんたみたいな陰気な男に、この私が席を譲るわけないでしょ!」
「……強情だな。というか、そんなに辛いなら無理して食うなよ。鼻の頭に汗かいてるぞ」
「うるさい! これは私のプライドなの! 激辛を克服して、誰にも頼らない強い女になるための試練なんだから!」
彩音は再び、地獄のように赤い汁に挑み始めた。
俺はふと、彼女の周囲に漂う「拒絶」の空気を感じ取った。この激辛の匂いは、他者を寄せ付けないための壁のようなものか。一人でいたいからこそ、あえて周囲を威嚇するような食事を選ぶ。……少しだけ、自分に似ているのかもしれない。
「……うどんで修行するな。修行なら滝にでも打たれてこい」
「あんたに言われる筋合いはないわよ! ほら、本ばっかり読んでないで、少しは周りに気を使いなさいよ!」
「……はむっ。……っ、……っ〜〜〜〜! 辛っ! 辛いわよこれ!!」
こいつ……マジで独り言が大きいな。
俺は溜息をつき、本に視線を落とした。
最悪だ。一人が正解なはずの昼休みに、激辛の匂いと、うるさい女子が居座っている。
「あはは! 恒一、何やってるの? 女の子と喧嘩なんて、子供かあんたは」
上から降ってきたのは、聞き慣れた、けれど今は最も聞きたくない明るい声だった。
「……さくら。お前、いつからいた」
「今来たところ。ねえ、この子だれ? 恒一の新彼女?」
「死んでも違う。ていうか彼女とかいたことねぇよ」
「死んでも違うわよ!!」
幼馴染の春野さくらが、俺の横に当然のように座った。俺の腕に自分の腕を少しだけぶつけながら、ひょいと俺のうどんを覗き込む。
「また素うどん? もっと栄養あるもの食べなよ。」
「余計なお世話だ。……さくら、お前も他へ行け。テーブルが狭い」
「いいじゃん、幼馴染の特権。あ、小鳥遊さんだっけ? 恒一がごめんね。この子、極度のコミュニケーション障害だけど、噛んだりはしないから」
「誰がコミュ障だ。俺はただ、静寂を愛しているだけだ」
「はいはい、静寂静寂。ねえ、それより今日さ、帰り道にあるスーパーの特売、付き合ってよ。重いもの買うからさ。恒一ってば、私がいないとマジで野垂れ死にそうだし」
「……俺をなんだと思ってるんだ」
「手のかかる大型犬? さ、決まり。断る権利はないよ。晩ご飯のおかず、分けてあげてもいいからさ。放っておくと勝手に消えちゃいそうで怖いんだよね」
さくらは俺の制服の裾をクイッと引き、いたずらっぽく笑う。その視線は、恋愛感情というよりは、保護者が迷子を監視するような、雑で、それでいて隙のないものだった。
「……物で釣るな。というか、さくら、お前も他へ行け。テーブルが狭い」
「釣られるくせに。ねえ、小鳥遊さんもそう思わない? この子、意外とチョロいんだよ」
「誰がチョロいか! ……というか、アンタたち仲良すぎでしょ。見てて暑苦しいわよ!」
彩音が顔を真っ赤にして口を挟む。
「仲良いっていうか、腐れ縁かな。ね、恒一?」
「……俺は一人がいいんだ。さくら、お前が隣にいると、俺の孤独の密度が下がる」
「あはは! 孤独の密度って何よそれ! 哲学しすぎ!」
さくらの笑い声が、俺の防壁を軽々と飛び越えてくる。
彼女にとって俺は、まだ「世話の焼ける隣の家の弟分」でしかない。
その事実に、俺は少しだけ安心し、そしてほんの少しだけ、形容しがたい感情を抱いた。
「おーい! さくらー! やっと見つけた! 体育館の倉庫の鍵のリスト、どっちが持つか決めなきゃいけないでしょ!」
嵐のような足音と共に、テーブルがガタついた。
小日向美優。バスケ部のエースで、学年一の陽キャが、俺の背中をバシッと叩いた。
「あ、美優! ごめんごめん、忘れてたわけじゃないんだけどさ」
「もう、探したよー! ……って、うわ、ここだけ人口密度高っ!」
「橘くん! さくらから聞いてるよ! 君、実は中学の時、持久走で学年一位だったんだって?」
「……さくら、お前余計なことを」
「だって本当のことじゃん」
「橘くん、君に決めた! 今度の球技大会の実行委員、男子の枠が一つ空いててさ。私と一緒にやろうよ! リストの管理とか、橘くん得意そうだし!」
「……断る。俺はそういう、みんなで汗を流すみたいなのは生理的に受け付けない」
「あはは! 面白いこと言うね! 大丈夫、汗は私が代わりにかくから、橘くんは隣で名簿とかチェックしててよ!」
美優は俺の顔をぐいっと覗き込んできた。距離が、あまりにも近い。石鹸の爽やかな香りが、激辛うどんの匂いを塗り替えていく。
「……近い。離れろ」
「えー、照れてるの? 可愛いとこあるじゃん! さくら、橘くんって意外とイジりがいあるね!」
「でしょ? 突き放せば突き放すほど、こっちを見ろって言ってるみたいでさ」
「言ってない。……やめてくれ、二人で俺を解析するのは」
そこに、彩音が立ち上がった。
「ちょっと、アンタたち! さっきからなんなのよ、この男の周りに集まって! 私はまだ、この男と席の権利を争ってる最中なのよ!」
「あ、小鳥遊さん! 橘くんのこと、気に入っちゃった?」
「なっ、……誰が、こんな、暗いだけの男を! バカじゃないの!?」
「いいじゃんいいじゃん、みんなで橘くんを囲んじゃおうよ!」
彩音はトレイを乱暴に掴むと、俺を鋭く睨みつけた。
「……もういいわよ。あんた、その目。……私と同じような顔して本読まないでよ。イライラするわ!」
「……あ?」
彼女が何を言おうとしたのか、問い返す前に、彩音は激辛の匂いを残して去っていった。
美優はそれを「待ってよー、小鳥遊さーん!」と追いかけていった。
俺のパーソナルスペースが……完全になくなった……
「あはは、恒一、モテモテだね。じゃ、私も行くね。買い物、忘れないでよ?」
さくらも手を振って去っていく。
俺は溜息をつき、逃げるように学食を後にした。
向かったのは、人気のない旧校舎の裏。
そこには、埃を被った渡り廊下がある。
「……はぁ。……これだから、人は嫌なんだ」
手すりに寄りかかり、荒くなった呼吸を整える。
俺は、一人がいい。
一人なら、予定を狂わされることも、自分のペースを乱されることもない。
母さんがいなくなったあの日、俺の「トナリ」に広がった、あの空っぽの風景。
それだけが、俺が信じられる唯一の現実のはずだった。
「あ……」
廊下の隅から、か細い声が聞こえた。
そこには、一人の少女がうずくまっていた。
白石詩織。クラスでもあまり目立たない女子生徒。
彼女の足元には、散らばったプリントの束があった。
詩織は震える手でそれを拾おうとしていたが、指先が小さく痙攣し、上手く掴めずにいた。
その「震える手」を見た瞬間、俺の記憶が、鋭い痛みを伴ってフラッシュバックした。
――母さんがいなくなった後の、あの静まり返った家。
独りで台所に立ち、届かないはずの棚に手を伸ばした、幼い俺の手。
誰にも気づかれず、ただ静かに震えていた、あの時の感触が、目の前の少女と重なった。
「……貸せ。半分、俺が持つ」
俺は膝をつき、彼女の隣でプリントを拾い上げた。
「あ……橘、くん……。えっと、あの……ごめんなさい……邪魔、だよね……」
「いい。……お前みたいな静かな奴のトナリなら、独りでいるのと大して変わらない。……ほら、行くぞ」
「……あ、……ありがとう。……橘くん……」
詩織は、消え入りそうな声で俺の後に続いた。
渡り廊下を渡る、二人の足音だけが響く。
「……橘くんの隣……なんだか、すごく、安心する……」
「……何がだ」
「みんな、キラキラしてて、眩しくて……私、どうしていいか分からなくなるから……。でも、橘くんの隣は……なんだか、静かな海の中にいるみたいで……」
彼女は俺の隣に並び、少しだけ、本当に数センチだけ、距離を詰めた。
「……橘くん。私……橘くんの隣に、これからも……いてもいい、かな……?」
「……好きにしろ。俺はただ、静かに本を読んでいるだけだ」
「……ふふ。……うん。それがいい、です……」
詩織は、花がほころぶような、本当に小さな微笑みを浮かべた。
それは、他の三人が持っていた、俺を侵食するようなエネルギーとは全く別種の……。
俺の欠けた心を、そっと埋めてくれるような、穏やかな温かさだった。
一人が正解だと思っていた。
誰かを隣に置くなんて、いつか来る別れの準備に過ぎないと。
けれど。
彩音の「不器用な衝突」
さくらの「当たり前の存在」
美優の「強引な導き」
詩織の「静かな共鳴」
俺の「恒常的」な孤独。
母さんが残した、あの「空席」という名の痛みが。
今、四人の少女たちの体温によって、ゆっくりと書き換えられようとしていた。
これは、俺が俺自身の寂しさを認め、本当の救いを見つけるまでの、長い長いリハビリテーションの始まり。
橘恒一と、四人の少女たちが紡ぐ「空白」を埋める物語。
その最初の「空白」が、夕暮れの廊下で、そっと埋まった。
どうも、しろもちです。
これから「ひとりのトナリ」を個人で連載させていただきます。
初めての作品なので、温かい目で見守っていただけると幸いです!




