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私が証明できなかったもの

作者: 嘉ノ海 祈
掲載日:2026/01/26

 私は長い間、正しいことだけを信じて生きてきた。

 証明できるもの、再現できるもの、論理で閉じることのできるもの。それ以外は、私の人生には不要だと思っていた。


 そう思うようになったのは、随分昔のことだ。


 妻は、私がまだ助教授だった頃に亡くなった。

 病室で彼女が何かを言おうとしたとき、私はその言葉を聞き取れなかった。心電図の音と、自分の鼓動の方がうるさかったからだ。

 

 子どもはいなかった。

 葬儀のあと、部屋に戻ると、世界は驚くほど静かだった。


 それ以来、私は人との距離を数式のように扱うようになった。

 近づきすぎなければ、失うこともない。

 そうやって、研究だけを残した。


 夜の研究棟が好きだったのは、そのせいだ。

 誰もいない空間では、孤独が「問題」にならない。


 あの猫に出会うまでは。


 冬の夜、裏口の非常灯の下に、猫はいた。

 白と灰色のまだら模様で、片耳が欠けている。

 逃げもせず、鳴きもせず、ただ私を見ていた。


 次の日も、その次の日も、同じ場所にいた。

 理由を探したが、答えは出なかった。

 やがて私は、理由がなくても足が止まることを知った。


 ある夜、研究棟の休憩室に置いてあった煮干しを一本、指で折って地面に置いた。

 

 猫はすぐには食べなかった。

 私を見て、少しだけ目を細め、それから静かに口をつけた。


 乾いた音が、小さく夜に溶けた。

 その沈黙が、不思議と心に残った。


 私たちは、言葉を持たない関係になった。

 名前はつけなかった。

 名前をつければ、失う準備をしてしまう気がしたからだ。


 吹雪の夜、猫は震えていた。

 私は迷った。規則、理性、過去の自分。

 それらをすべて無視して、研究室の鍵を開けた。


 机の下で丸くなり、猫が眠ったとき、私はふと思った。

 あの病室で、私はこうして隣にいられただろうか、と。


 研究が行き詰まった夜も、評価されなかった日も、猫は何も変わらなかった。

 責めない。慰めない。

 ただ、そこにいる。


 私は初めて、「役に立たない存在」に救われていた。


 春、猫はいなくなった。

 探しても、呼んでも、答えはない。


 黒板の前で立ち尽くし、私は数式を消した。

 失う痛みは、もう知っているはずだった。

 それでも胸が痛むのは、私は確かに、もう一度誰かと生きてしまったからだ。


 ――愛とは、理解することではない。

 ――失うとわかっていて、なお共に在ること。


 証明はできない。

 だが私は、生涯で初めて、それを避けなかった。


 研究室に差し込む春の光は、遠い日の病室と、煮干しの乾いた匂いをまとったあの猫の温もりを、同時に思い出させた。


 夜の研究棟の裏口で、非常灯だけが、もう誰も待たずに灯っている。

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