第9章:新生活と神崎の視線
春。夏希は都心から少し離れたアパートで、IT企業に就職し新生活を始めていた。
仕事は忙しく、プログラミングの論理的な世界に身を置くことで、複雑な人間関係から逃れようと努めた。
しかし、彼女の心は依然として過去の残響、特に弟・篤の支配と上田教授の脅しが残した深い傷に苛まれていた。
職場では、上司である神崎隼人の存在が夏希の心をざわつかせた。
神崎は三十代後半の有能なプロジェクトマネージャーで、理知的で物腰も柔らかかったが、時折、夏希に向ける「何かを探るような」深い眼差しに、夏希は反射的に身構えた。
彼の優しい評価や褒め言葉は、夏希にはかつての男たちが発した「支配の言葉」のように聞こえてしまう。
「夏希さん、君は本当に優秀だ」という神崎の言葉は、建前であるはずなのに、夏希には彼が自分を「所有」しようとしている前兆のように感じられた。
夜、一人になると、過去の記憶がフラッシュバックする。
彼女は過去と決別するため、意を決して、篤が言及していた「例の記録」がアップロードされた匿名掲示板にアクセスした。
画面に映し出された、自分に関する無数のコメントと動画のサムネイルは、夏希の心を突き刺した。
怒り、絶望、そして、奇妙なことに「自分はまだ誰かに見られている」という、歪んだ安堵感が混ざり合う。
彼女の心に眠っていた「依存」の種が、再び芽を出し始めていた。
翌日、夏希は神崎に「仕事ぶりについて何か気になる点があるか」と問いかけた。
彼女は彼の評価を通じて、自分の存在を再び確かめたいという、無意識の依存欲求に突き動かされていた。
神崎は夏希の核心を突いた。
「君は完璧ですよ。ただ、たまに『何か』に怯えているように見えることがある。それは、仕事とは関係ないことでしょう?」
彼の洞察力は鋭く、夏希は自分がこの男の支配を求めている恐ろしい自己を発見した。




