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第一話 「行進は、黙して語らず」

 その日も、都心の空は重たかった。


 灰色の雲が低く垂れ込めているのに、雨が降る気配はない。湿った風が、ガラス窓の隙間から忍び込んで、どこか生ぬるい。

 俺、鳴神悟は、いつものように汚れたコーヒーカップを手に、モニターの前にいた。


 フリーのジャーナリストという響きは、聞こえこそ良いが、実態はほとんど漂流者に近い。

 テレビ局に顔が利くわけでもなければ、政治家と繋がっているわけでもない。

 それでも、事件の匂いがすれば、どこへでも駆けつけてきたつもりだった。


 だが、この“静かな異変”だけは違った。


「……まただな」


 モニターに映るのは、都内某所で発生したデモの様子。

 もっとも、見慣れたシュプレヒコールや拡声器の音はどこにもない。

 ただ、人々が、群れになって歩いている。それだけだ。


 プラカードを持っている者もいる。だが、その文字は読めないほど雑で、意味を成していない。

 スローガンもない。統一感もない。

 足並みはばらばらなのに、全員がまるで同じ方向に引き寄せられているかのように、黙々と、歩いていた。


 最初にこの異常を感じたのは、三日前。

 フォロワー数の少ないアカウントがアップした動画に、妙な違和感を覚えた。


「兄がデモに参加した。でも、帰ってこない。噛まれて変わった。目は開いてるのに、どこかへ行ってしまったようだった」


 そのコメントに添えられた短い映像には、顔色の悪い若者が、突然隣の人間に襲いかかる様子が映っていた。

 だが、その直後にアカウントは削除された。

 その後、他のニュースメディアが取り上げることもなかった。


 デマ。扇動。陰謀論。

 いくらでも片付ける方法はある。

 けれど俺の中には、かつて戦場で見た、「人が変わっていく瞬間」と同じ匂いが、はっきりと漂っていた。


 だからこそ俺は、現場へと足を運んだ。


 ビルの屋上に腰を下ろし、望遠レンズを通して彼らを見た。

 今日も、静かな“デモ”は行われている。

 警察は遠巻きに様子をうかがっているだけで、制止する様子はない。

 むしろ、距離を取りたがっているようにさえ見える。


 その群れの中、俺の視線はある一人の少女に釘付けになった。


 制服姿。髪は乱れ、シャツには血のようなシミ。

 両手の指先が震えている。

 彼女は群れの中でも異質だった。


 他の者たちは顔を伏せ、前だけを見つめているのに、彼女だけが


 俺を、見た。


 レンズ越しとはいえ、確かに視線がぶつかった。

 絶対にあり得ない距離なのに、その瞬間、俺の背筋を冷たいものが這い登った。


 彼女の目が、俺を捕えて離さない。

 目尻から、ぽたりと涙が零れたように見えた。


「……嘘、だろ……?」


 俺は無意識にシャッターを切った。

 だがその瞬間、彼女が突然振り返り、隣にいた中年の男性に噛みついた。


 その動きに、まったく迷いはなかった。

 喉元に歯が食い込み、鮮血が噴き出す。

 男は悲鳴を上げる暇もなく地面に崩れ落ちた。


 群衆の誰も、止めなかった。

 ただ見ていた。

 まるでそれが、日常のひとコマであるかのように。


 そして彼女は、血塗れの顔で、再びこちらを見た。

 喉が動く。声にならない何かを、必死に伝えようとしている。


「……たす、けて?」


 そう読めた気がした。

 否、錯覚であってくれ。

 そう思いたいのに、心の奥底が、確信を叫んでいた。


 この少女は……まだ、中にいる


 死んだはずの身体の中で。

 噛みつき、殺すための手足を持ちながら。

 心だけが、叫び続けている


「……やめてくれ、そんなのって……」


 震える手でカメラを下ろした時、

 俺の周囲に、複数の群れが集まり始めていた。

 建物の下だけじゃない。

 駅前、ビルの影、路地裏。


 何百という“黙った行進者”たちが、各地から一つにまとまり始めている。


 そしてその中心で、彼女が、また歩き出す。


 血の跡を引きずりながら。

 涙を流しながら。

 声なき助けを、誰にも届かない祈りを、胸に抱えて。


 この街は、確かに変わり始めていた。

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