12 将棋神話
やけに風の冷たい日だった。
秋も深き頃の色なき風は、寂しさと共に海辺の寒さまで運んでくる。
その寒さについ負けてアトリエの扉を閉めると、今度はニスの香りが部屋一杯に充満して頭まで痛くなってくるのだ。
春夏は良かったが、まさかこんな落とし穴があるとは。
何か暖房があればいいのだが、そこら中が木屑だらけのこの狭い部屋で、火事の元になりそうなものはなるべく使いたくなかった。
まだ暦の上では秋だというのに、これでは先が思いやられる。
冬場になったらどうなるんだ、これ。
「ぶえっくしょい!」
オッサンみたいなくしゃみが出る。
さ、寒い。
これは風邪を引いたかもしれない。
鼻の頭が心なし赤い気がする。
だが負けるわけにはいかなかった。
そうまでして何をしているかと言えば、成形の終わった駒に文字を書いている。
無駄にカッコよく言えば、駒に命を吹き込んでいる。
ほとんどの作業はモチさんに任せっぱなしだが、こればっかりは俺の仕事だ。
インク壺に小筆を下し、一枚一枚丹念に最後の仕上げを行う。
書体は『錦旗』。
基本にして王道のフォーマットだ。
駒の字は『錦旗』に始まり『錦旗』に終わるという言葉もある。
将棋において最も愛された字であろう。
「ふぁっくしょん!」
あ、危ねぇ……。
くしゃみで書き損なうところだった。
ずずっと鼻水をすすり上げる。
なんだろう、身体は寒いのに顔だけ妙に熱い。
「あ、あの、さすがに今日はもうやめた方が良いのでは──」
俺の仕事を見ていたモチさんが言う。
さすがに今日は上着をしっかり着ていて、たわわな果実は鳴りを潜めている。
ちょっとだけ寂しい。
「いえいえ、これだけが唯一の仕事ですから。モチさんが頑張っているのに、俺だけやめるわけぶええっくしゅ!」
あー。
頭がボーっとする。
やっぱり換気が上手くいってないのか。
これじゃシンナー中毒になっちゃうよ。
「しっかり寝れてますか? 風邪は万病の元と言いますし」
心配そうな声だった。
確かに睡眠時間は足りてないかもしれない。
モチさんのお陰で多少楽になったとはいえ、その分執筆活動の時間を増やしてしまった。
それに最近は執筆以外にもやる事があった。
リオンとの戦いが日々きつくなっていくせいで、研究を強いられている。
二枚落ちではマジで負けたくないから。
そのせいで睡眠時間を削ってしまっている。
この風邪は免疫力が下がった証拠だろうか。
「だ、だいじょうぶです。ちょっと熱っぽいだけで──」
「無理しないでくださいね」
彼女がそう言った途端、むにょん、と何とも言えぬ感触が背中に伝わった。
「おわっ! ──も、モチさん?」
「あ、すいません。こうすれば少しは暖かいかな、と」
どうやら背中にぴっとりと身体をくっつけているらしかった。
確かにこれは、あ、あたたかい……。
でもこれ、別の意味で身体が熱くなってしまうのでは。
「動きにくいでしょうか?」
「い、いえ。ありがとうございます。ぜひそのままで」
俺はその好意に甘える事にした。
しかしながら、いつにも増してこの人の思考が読めない。
表情に乏しい彼女は、クールビューティーに見えてその実すんごい優しい。
実際、その温かさを文字通り肌で感じている。
でも、それでいて職人としては物凄く厳しかったりもする。
成形に納得が行かないと盤を割ったりしちゃうし。
俺の目じゃ何がどう違うのかよくわからんが、そういう職人気質なところは嫌いじゃなかった。
「それにしても、ラウル様はどこでこのような字を知ったのですか?」
何気ない質問のつもりだろうが、それは俺にとって最大の秘密に関する事だ。
「えーっと、そうですねぇ。神の、啓示を受けまして」
頭が回らんせいか、妙な事を口走っていた。
「か、神、ですか」
ちょっと引き気味にモチさんは繰り返した。
この世界の宗教については、あまりよく知らない。
ただ、多神教っぽかった気がする。
キリスト教というよりは、ギリシャ神話的な内容だったはずだ。
「そうです。この将棋は遥か古代の神が創造した遊戯なんです」
「なるほど。そういう事だったんですね」
モチさんは何だか納得したようだった。
「突然思いついたにしては、このゲームは完成され過ぎていると思ってました。まさか古代の神から啓示を受けていたとは……」
どうしよう。
信じてしまった。
まぁ、このゲームが遥か昔からあったことは事実ではある。
「古代の神々も将棋を指していたんですね。それはどんな神だったんでしょう?」
「え? それはですね、えーっと」
ええい、ままよ。
俺は将棋の神々について語った。
「──その昔、暗黒の巨人と呼ばれた古き神がいました。名前はオーヤーマ」
「オーヤーマ?」
「はい。オーヤーマは圧倒的な実力と権力で神界を支配していたんです」
俺にしてみりゃ、それはまさに神々の世界の話だ。
そこから先は、自分でもびっくりするほど舌が回った。
ずっと憧れてきた世界の話だから。
──オーヤーマにはマスダーという兄がいた。
この二人の兄弟は神界の統一を目指し、互いに切磋琢磨し、そして激突した。
やがてマスダーが病に倒れると、オーヤーマはついに神界を統一し、暗黒の時代が訪れた。
暗黒の時代は長く続いたが、そこに新たな神が生まれ、再び戦いが始まった。
新たな神の名は、太陽神ナッカーラ。
この太陽神はついに暗黒の巨人を破り、神界は新たなる王の誕生に沸いた。
だがそれも長くは続かなかった。
次に現れたのは光の神タニーガ。
光の速さとも謳われるその圧倒的なスピードは、太陽神ナッカーラを下すだけには留まらず、神界の在り様まで変えてしまったと言われている。
「──では、現在の神界の頂点はタニーガなのですか」
モチさんは神妙な顔で話を聞いてくれる。
自分で言っといてなんだが、なんで信じてくれるんだろう。
「いえ。本当にやばいのはここからだったんですよ」
俺は少し勿体ぶって、話を続けた。
「タニーガの次に現れたのは、破壊神ハーヴ」
この破壊神が何もかもぶっ壊した。
それはもう、完膚なきまでに。
あらゆる神々を駆逐して、絶対的な王として君臨するまでになった。
その圧倒的にして絶対的な強さは、かの暗黒の巨人オーヤーマを彷彿とさせるほどだった。
「破壊神ハーヴ。──それほどまでに強かったのですね」
「ハーヴの強さを説明するのに、このような話があります」
彼の伝説を、俺は語った。
「神界には、年に一度開催される大きな将棋大会が七つあるんです。ということは、過去10年で延べ70人の優勝者が出るということになりますよね?」
「そうですね」
「その優勝者のうち、半分の35人がハーヴです」
「( ゜д゜ )」
背中にぴったり張り付いてるから、モチさんが今どんな顔をしているかわからない。
でもなぜか想像が出来た。
「面白いですね。もっと聞かせて欲しいです」
「そ、そうですか。──じゃあ、もっと細かいマニアックな話をしましょうか」
たとえば、滝を止めた伝説の神ヒフミンについてだとか。
たとえば、太陽神ナッカーラと女神リーフの許されぬ恋の話だとか。
たとえば、泥沼の猿神ヨネロングの奇行だとか。
神界の話は語り出したら切りがない。
気がついたら、駒の墨入れはとうに終わっていた。
ラウル君はタニーガ推しです。
でも棋風に最も影響を与えたのはオーヤーマですね。
現在の中年以上のアマチュア棋士は、そういう人多いんじゃないでしょうか。




