1 プロローグ
今日、俺は前世を思い出した。
それは父に頼まれた薪割りの最中に起きた。
──みーんみーん、じじじじじじ、みーんみーん。
夏も盛りの蝉時雨である。
照り焦がすようなサンサンの太陽の下。
すでにビショビショのシャツをたくし上げ、さらに汗を拭う。
手に力をこめ、斧を大きく振り上げる。
少年が一人、薪を割っていた。
「よっこらせ!」
振り上げたそれを、直立させた薪めがけて、振り下ろす。
パカンと割れた薪の破片が頬を打ち、少年は思わず「痛っ」と顔をしかめた。
「いってぇ……」
触ってみると、血が出ていた。
この茹だるような暑さの中、汗だけでなく血まで流れるとは。
少年は嘆息する。
「俺の顔に傷をつけるとは、やってくれるじゃないか」
彼は誰に聞かせるでもなく独りごちると、顔を傷つけた憎い破片を探した。
見つけた破片は特徴的な五角形の、どこか見覚えのある形をしていた。
「ん、この形、どこかで──」
その時だった。
彼が前世の記憶を取り戻したのは。
前世の記憶。
まず真っ先に思い浮かんだのは、高校二年の将棋大会の事だった。
心を折られた将棋大会。
夢を諦めた将棋大会である。
元々将棋が好きだった父の影響で、物心のついた頃には将棋を始めていた。
小学校に上がる頃にはもう大人に混じって将棋をしていたし、当然ながら学校では負けなしの強さだった。
近くの将棋道場でも大人達にちやほやされて、「これは将来プロになるぞ」なんてよく言われていたものだった。
そして当然、自分もその気だった。
プロになるつもりで将棋に励んでいた。
ただ家が地方ということもあり、奨励会(プロの育成機関)には入らなかった。
入会は高校を卒業してからでも間に合う。
そんなふうに甘く考えていた。
そして運命の日はやってきた。
高校二年のとある将棋大会。
俺は準優勝した。
決勝の相手は強豪校の三年だった事もあり、悔しくないといえば嘘になるが、まあ納得はしていた。
問題が起こったのはその後である。
たまたま会場に来ていた見学の小学生。それも低学年の子だったと思う。
その子とお遊びで将棋をして、負けた。
知らずに手を抜いてしまったと思い、再び対局して、やはり負けた。
言い訳のしようもないほどに、ボロクソに負かされた。
聞けば、やはりというか、奨励会の子供だった。
奨励会の3級であるとその子は言った。
その日から俺は、プロを目指すことを諦めた。
あの強さで3級なら、高二の俺が今から奨励会に入ったところで、プロになれる気がしなかった。
プロになれる条件は4段。
それを二十六歳までに達成できなければ、強制的に退会となるのだ。
夢を諦めた者のその後の人生というのは、ちょっぴり味気なくはある。
それでも人並みに幸や不幸を噛みしめて生きてきたと思う。
結婚もしたし、子供を授かることも出来た。
孫の顔だって見れたし、将棋も趣味として上手に付き合えた。
悔いのない人生だったかと問われれば、首を傾げるところはある。
でも、そんなのは誰だってそうじゃないか。
大満足の人生なんて、そうそうあるものじゃない。
とにかく俺は自分なりに精一杯生きた。
精一杯生きて、そして死んだ。
──みーんみーん、じじじじじじ、みーんみーん。
ふう。
今日はやけに蝉がうるさい。
ノスタルジックに耽る少年──つまり俺を正気に戻したのは、蝉の声だった。
ふうっと汗を拭きつつ、先ほど俺の頬を打った五角形の破片を眺める。
それは将棋の駒の形をしていた。
俺は転生したのか。
一生分の記憶を一度に取り戻すというのは、なかなか奇妙な体験だ。
人格が変わってしまったかもしれない。
「俺の名前はラウル。港町の外れに生まれた農家の長男。年は今年で十六歳」
この世界での自分を忘れていないか、声に出して確認してみる。
うん、大丈夫な気がする。
再び破片をじっくりと見つめる。
その破片を人差し指と中指に挟んで、ぴしりと切り株に打ち据えた。
ああ、良い音が鳴る。
また将棋が指したい。
でもこの世界って、将棋ないんだよな。
ここは日本ではない。
ていうか地球ですらない。
地球によく似た世界ではあるが、ここはいわゆる異世界だ。
文明レベルだって違う。
前世の知識で言うとどの辺のレベルなんだろう。
俺の住む街には港があった。
そこで大きな船がしょっちゅう出入りしているところを見たことがあるが、それはさながら大航海時代のようだった記憶がある。
だとすれば、文明レベルは15世紀~17世紀といったところか。
この世界って、将棋とかチェスのような駒を動かすゲームって無いんだよな。
将棋は対戦ゲームだから。
俺一人ルールを知っていても意味がない。
将棋を遊ぶためには、どうにかしてこのゲームを流行らせなければいけない。
「──よし!」
俺は家からナイフを持ち出して、薪割りそっちのけで駒を作り始めた。
この世界に将棋を広めよう。
こんなに奥が深くて面白いゲームなんだ。
きっとみんな好きになってくれるはずだ。
俺の名前はラウル。
苗字はないが、名乗る時はアドニスのラウルと名乗っている。
アドニスとはこの街の名前だ。
この街に住む平民はみんなアドニスを名乗るから、ちょっと不便ではある。
だからいつか、将棋のラウルと呼ばれるようになってやるのだ。
というわけで、まずはこのアドニスに将棋を広めよう。
その前段階として、俺の家族に将棋を教えるところから始めようか。
アドニスのラウル。十六歳。
それは奇しくも、前世で夢を諦めた年齢だった。
この度はこのような駄文をお読みいただき、誠にありがとうございます。
ちなみに筆者の棋力はぴよ将棋で三段に勝てるぐらいです。
よろしければ、これからもお付き合いのほど宜しくお願いします。