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大原雅人の風景

 二学期になった。

 夏も終わり九月、また新たな学期がはじまる。


「雅春、焼けたねぇ」


 ひと月ぶりに見る雅春は見違えるほど日焼けしていた。この子が夏休み明けにこうなっているであろうことは私には容易に想像がついた。驚きはしたが、ある意味安定の雅春だった。


「部活と、田舎では泳いでばかりいたからなぁ……沙綾はあまり変わらねえか」

「あたしは山形の山奥で薪割りとかやってたから。筋肉ダケはついたぞ」

 と力こぶを作ってみせる。

「薪割りって……」


「行かないかもって聞いてたけどやっぱり行ったんだね」私は言った。

 たしか今年は弟が受験で田舎には行かれないと言っていたが、

「あっちの方が涼しいから勉強も捗るだろうってことになってね。余計な誘惑とかもないし?」


「なんか二人とも逞しくなったねえ」


 ただ肌の色が黒くなったとか腕に筋肉がついたというだけではない。少し見ないうちに容姿だけでなく佇まいもガラリと変わって見える。そう、彼らはそういう意味で、変わっていた。成長していた。このころの少年少女の成長は目に眩しくてしかたない、とあらためて思う。彼らに合わせて私も少しは見た目を変えておくべきだったろうか。


「あぁン?」と沙綾が絡んでくる。「誠一郎、それ女のあたしに言うことか? まったくコイツのデリカシー欠如ったら……」

「ごめん。そういうつもりで言ったんじゃないんだよ。何て言うかさ、しばらく見ないうちにふたりとも大人になったなァ、みたいなことで……」

「親戚の叔父さんか!」と笑う。


「そういう誠一郎はほぼ変わってねーな」と雅春。

「僕も部活三昧だったけど、基本室内だからね……」



 振り返れば忙しい夏休みだった。休みに入ってすぐ、私は大原会長に無理をさせまいと、部誌作成の仕上げを自ら買って出ることにした。


 実際にやってみると意外にやることが多かった。ほとんどは印刷会社との打ち合わせが主であったが、料金的な検討はもちろん、製本の方法や使用するフォント、紙の質や色を決めたり表紙のデザインを決めたり、見本データのチェックをしたりと、時間が足りないことにいまさら気づいたのだった。


 しかし私はその忙しい作業を愉しみをもってこなした。私が手掛ける部誌は製本も印刷じたいも簡素なものではあったが、一般の書店で販売されている妻の書籍もこうやって多くの工程を経て作られている。その一端を知ることができたのは私にはとても嬉しいことだった。


 最終的に、どうにか部誌は完成をみることができ、予定通り発注した部数が段ボール箱で印刷会社から納品されてきた。表紙に『最終号』と銘打たれた冊子の束を前に、ささやかながら大原部長とショートケーキでお祝いもした。


「いつもは十一月の文化祭で配布していたけれど、今年は無理だろうね」

 と大原部長はすまなそうな顔をした。

「仕方ないですよ」

「顧問に相談したら、わたしが引退する前に校内で配布しようということになった。かまわないかい?」

「もちろんです」



 月が変わると空模様は雨がちになり、尻すぼみな今年の夏は、急に季節を飛び越えたように終息した。


 散策部は九月後半の大原詩子生徒会長引退と同時に廃部となることが決定した。

 私はそれまでは、なるべく西校舎の部室に通うことにした。


 彼女の兄、大原雅人がその光景を見た場所を特定するため、私はひとりでフィールドワークに出ることにしたのだった。


 私が活動日誌を手にしたときに見た場所は、難なく特定できた。大原詩子は兄の見たこの町の風景がどういう場所から見たどういうものだったのかをまだ知りえない。が、彼のヴィジョンが見えた私だけにはわかる。それが強力な決め手だった。相安寺と北谷津高の間の見晴らしの良い高台といえば限られた場所しかない。


 ただ、あれは秋の風景。夏の名残の季節には、まだあの見事な夕景を見ることはできない。


 たとえ秋になったとしても、あの繊細な色の移り変わりは、よほど特殊な気象条件が重ならないと出会えないだろうと私には思われた。


 大原部長はあれから部室に顔を出さない。生徒会の引継ぎで多忙をきわめているようだ。あらたな生徒会長には二年の真壁という男子が当選した。


 私は毎日、午後になると空模様に注意するようになった。



 それから約ひと月が経ち、九月も終わりが差し迫ったある日。


 その日も大原詩子は少しだけ部室に顔を出して、

「すまない、これからまた生徒会の引継ぎがあるんだ」

 と言って、部室を出て行った。


 その日は何だか胸がざわつく感じがあった。いやなものではない。どちらかといえば期待のような、予見のような、何かがおおきく転換するときに感じる、あの高鳴りだ。


 だから私は一人部室に残って西日をぼんやりと眺めていた。


 そういえばこういうボーっと物思いに耽る余裕はこのところ私にもなかったと思いつつ、頬杖をついて窓の外を移りゆく空をただ眺めているとき。


 それは起きた。


 傾き始めた陽が空を染め――。

 薄い紫色に徐々に染まっていく。


「今日だ!」


 私はひとり叫び、慌てて椅子を蹴り、廊下を走った。

 西校舎を出て、本校舎にある生徒会室へ。


「大原部長!」


 生徒会室には数名の生徒と教師がいて、真剣な表情で議論している最中だった。

 そこへ私が現れ大声を出したものだから、みな訝しんで批難の眼差しを一斉に向けてくる。


「なんだよお前、いきなり」


 背の高い男子生徒――新会長だ――が立ち上がってこちらへ来ようとする。


 私は彼をすり抜けて、

「部長、一緒に来て下さい!」

 構わずに、大原詩子の腕をつかんで立たせようとする。


「部長? 会長のところの部員なの?」

 生徒会役員の一人と思われる女子が、あからさまな批難の顔を向ける。


 当の大原詩子は鳩が豆鉄砲を食らったように私を見上げて、

「ちょっと……織原くん?」

 私は深く腰を折って、

「すみません皆さん、少しの間だけ彼女をお借りします!」

「おいおいおいおい」

 生徒たちが何事かと唸る。

 私はそれを無視して彼女の手を引く。

「織原くん、強引すぎるぞ」

 大原詩子も明らかに気分を害しているようす。


「お願いですから、一緒に来て下さい!」

「なんだよ……」


 彼女は渋々立ち上がって、私に引かれ生徒会室を出た。


「今しかないんです!」


 そうだ。あの風景が見られるのはおそらく、ほんの数十分の間だけ。

 間に合うだろうか。


 夕暮れに染まり始めた空の下、私は大原詩子の手を引いて、校門を出る。

 学校の敷地沿いにぐるっと裏手の坂を上り、相安寺へ向かう高台へと……。


「ハァハァ……」


 情けないことに、すぐ息切れを起こした。

 どうしてもっと早く走れないのだろうと自分が情けない思いで一杯になる。


 私にはとてもきつい道のりだったが、どうしてもその景色が消えてしまわないうちに間に合わせなければならない。


 ここに至って、大原詩子は黙って私についてきた。

 私の様子から私がどこへ連れて行こうとしているのかをすでに察したのかもしれない。


 やっとのことで高台へたどり着いたとき、私は喘ぐ息で、


「これを、どうしても見せたくて……」


 この高台から見下ろす、紫の夕景に染まったうつくしいこの町。

 大原雅人が見た風景だ。


 一陣の風が吹き抜けた。


「これ……が……?」


 私はけんめいに息を整えながら、これが大原雅人のみた風景にちがいないと言葉で説明をしようとしたが、それはもはや必要ではないと咄嗟に引っ込めた。


 彼女の様子からそれを確信していることが伝わってきた。


「あああああああ!」


 大原詩子がとつぜん、絶叫してその場にうずくまった。

 彼女は自分の胸を抱きしめて涙を流すのだった。


「僕……外しますので」


 それだけ言って踵を返そうとしたとき、


「いや……いてくれ」


 涙声でそう彼女は言った。



 大原詩子はそれから言葉も発せず、草の上にすわりこんでこの夕景に見とれていた。

 そんな彼女の背中を、私は後ろからずっと見つめていた。


 それから数分もしないうち、完全に夕日のいろは消え、空は落ち着いた夜の色になった。


「ありがとう……」


 しばらくのち大原詩子は、涙を拭って私を振り返る。


「僕は何もしてませんよ」

「そんなことはない。ありがとう……ほんとうに」

 

 私は大原詩子に近づいて、隣に腰をおろした。


 彼女は呟くように私に向かって、

「人は死んでしまっても、その人がいた証はまわりの大切な人たちの心にずっと残る……ってよくある話だろ」

「はい」

「わたしは思うんだ。それは慰めごとだよ。死んでしまったら周りの人には失意しかのこらない」

「そう……ですね」


 私の両親も早くに亡くなっている。その気持ちは理解できないでもない。


「兄の人生はあくまで兄の人生で……わたしの人生はわたしの人生でしかない。けっして同じものではない。兄はわたしの物語の一部でしかないし、わたしは兄の物語の一部でしかなかった。でもね」と彼女はこちらに視線を向けて、「わたしは散策部の部長をやって、生徒会の会長をやって、ずっと感じてきた。そうやって人は物語をつなぐんだ。そうやってつないできたものを『歴史』っていうんじゃないかなって」


 私は何も言うことができず、大原詩子を見つめ返すと、彼女はちょっと照れたように笑った。


「だからキミにも、よかったら、今日のことを……兄のことを……キミの物語としてキミの歴史に書き加えてくれるなら嬉しい」


「はい。そうさせてください」と私は返した。

「ずっと忘れずに……」

「はい」



 かねてより決まっていたとおり、それから間もなく散策部は部員数が規程に満たないという理由で当然ながら廃部となってしまった。


 ごめんなさいと謝りながらも、しかし大原詩子は清々しくあった。


「いろいろ本当にありがとう。キミにその気があれば生徒会でも立派にやれると思うんだけどな」

「まだ言いますか。何度も言いますが、生徒会のように忙しい活動は僕には無理です」と私は苦笑した。「本当は僕、毎日が超忙しくて、時間なんて足りてなかったんです」

 睡眠不足で眠くてたまりませんと言うと、

「遅くまで深夜アニメとかばかり見ているんじゃないのかい?」

 大原詩子は笑う。

 心外ではあるが黙って頭を掻くふりをした。

「それじゃ廃部寸前の部活なんか続けさせて、却って悪いことをしたかな」

「そんなわけないじゃないですか……」

「あははは」

 彼女は屈託のない笑顔を見せた。


 おっさんの頭脳で勉強について行けるよう毎日勉強をしながら、朝のランニング、弁当づくりは正直しんどい。世間の高校生はこれに加えて受験だなんだと大変なプレッシャーを抱えてなお懸命に毎日を生きている。みな本当に輝いていて、本当に眩しい。嘘で塗りかためた高校生もどきの私など、本当は近づくべくもないほど別物で偽物なのだと思うだに、心の底でチリチリとしたわけの分からない感情が燻っているのに気づかざるをえなかった。

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