「散策部」の原点
彼女はその紫延川のほとりで、私の少し前を歩きながら、思い出を話すように言葉の順序を選びながらゆっくり話しはじめた。
「わたしには、三つ年のはなれた兄がいたんだ……」
いた、という表現と彼女の様子から彼女の兄の身に起きたことを容易に想像することができたが、あえて黙っていた。
「兄も北谷津の卒業生でね。散策部の部長だった……以前にも言ったがこの部はもともと『歴史散策部』と言ったんだよ」
「覚えています」
「ある日、わたしの兄が部名から『歴史』を取って散策部に変えた。だから兄が散策部の部長としては初代ということになるのかな」
「なぜ部の名前なんかを変えたのでしょう?」
すると彼女は吐息混じりの乾いた声で、
「兄にとってはそうする必要があったんだろうね……。本当のところなぜなのかは、もう聞きたくても聞けないんだ。兄はわたしが高校一年のとき事故で死んでしまったからね」
予想どおりだった。私は何も言えず、ただ彼女の次の言葉を待った。
「でも、その理由はつきとめたよ」
「えっ……」
「兄が逝ったのは、三つ違いのわたしが兄と入れ替わりに北谷津に入学して、半年ほど経ったころだった。わたしは入学当初から生徒会活動を志していたけれど、少しでも兄に近づきたくて、兄が部長をしていたという散策部にあとから入った」
彼女は足下の小石を蹴った。俯いた本当の理由を私に知られまいとでもするかのように。
「そしてこの日誌を見つけた」
と彼女はおもむろに鞄から一冊のノートを取り出した。
「これは?」
「わたしがこの部にこだわるのはこの日誌のせいだ。常に持ち歩いている。兄が遺した部活動日誌だよ」
「へえ……」
表紙は黄ばみ、カドの擦り減った、よくあるノートブックだった。
大原部長はパラパラとページを捲って読み始めた。
『十月一日。本日は相安寺へ。住職に寺の歴史を聞く。住職には懇切丁寧に相安寺の縁起をご説明いただいた。収穫は十分。次の部誌は内容の濃いものになるだろう。取材を終えた、その帰り道だった――』
彼女はそこでいったん言葉を切り、ページを捲った。
『――得も言われぬ素晴らしい風景を見てしまった! 感激だ! この感動を表現するには僕の語彙などあまりにも稚拙と言わざるをえない。不覚にも涙があふれて止まらない。歴史散策部の部長たるこの僕が、いまさら気づくなんて! この町はこんなに美しかったのか! ああ、この世とも思われない夢のような風景!』
「……兄はその風景とやらによほど感動したんだろうね」
大原詩子は自身の感想をはさみ、そして続けた。
『歴史を調べるばかりでなく、僕はこの土地についてもっと知りたい。町をつつむすべての生活についても』
「そして兄は翌年、部活再編の時期に部の名前から「歴史」を取り去ったんだ。町の風景、そして生活する人、そんなことまで題材にして、部誌を作ったり文化祭で展示発表した。兄の部活動の原点となった風景が何だったのか、今となってはこの日誌から推測するしかないんだが」
彼女はノートを閉じて胸の前でつつみこむように抱えると、
「わたしはその場所、その風景を知りたいんだ」
と声を震わせた。
「それがどこなのか分からない。わたしは兄の感動したその風景を知るためにこの部を存続させているといってもいい。自分勝手だろう? 友人の名前を借りて部員がいるように見せ、生徒会長の権力を行使して廃部寸前の部を存続させているのは事実。ひとから誹りを受けたって否定なんかできないんだよ」
「じゃあ、あの小森という先輩は……」
「わたしがいつまでも散策部に……いや兄に拘っているので散策部の活動をさせまいとしているんだ。あいつにしてみればいい加減前を向けというつもりのようだが……的外れなんだよな」
寂しげに言うと大原詩子はその日誌を私に手渡してよこした。
「いいんですか?」
彼女はうん、と頷いた。
私はそれを手に取り捲った。
瞬間、そこから思いがあふれ出して、私の眼前に迫ってきた。
――ああ!
私にはその風景が見えてしまった。
それも私の特異な能力の一つと言われたらそうかもしれない。
私にはものに込められた人の思いや幻影が見えてしまうことがある。
それは、とある高台から見下ろしたこの町。
紫に染まる夕暮の空の風景。
気象の関係で夕暮れと夜の光のあわいがこんな紫色になるのだ。
おそらく年に一度くらいしか見られない、見事な夕景。
夕暮れとも夜ともつかぬ光に包まれ、薄暗い街がぼんやりとたゆたっている。
そこに立ち尽くすひとつの影。
――あれは大原詩子の兄だ。
私は感動をおぼえると同時に、やみくもに触れるべきではない兄妹の絆に無遠慮に立ち入ってしまったような、罪悪感めいたものを突然おぼえて、私はあわててノートを彼女に返した。
「みつかると……いいですね……」
「そうだな」
紫延川の水面に乱反射する西日がハレイションを起こして、眼鏡の奥の濡れた瞳をけんめいに拭う彼女の姿を私に見せまいと包み隠すかのように、煌めいていた。




