絵描き令嬢は理想の天使に救われる
私、リディア・フィリーは伯爵令嬢でありながら、小さな頃から絵を描くことが好きだった。
有名な彫刻や絵画を模写するのはもちろん、暇さえあればスケッチに出かけていた。
学園に通っている間も色恋には目もくれず絵を描き続けた。友人達はどんどん婚約していったけれど私は絵を描いて過ごし、気がつけば卒業してしまっていた。
でもそれでいい。男性と関わるとろくなことがない。
幸い我が家には兄がいるので、私が結婚できなくても問題はない。
代替わりへ向けて着々と力もつけているし、昨年結婚して来年には子供も生まれる。後継の心配もなく安泰だ。
卒業後も絵ばかりの私に両親はもどかしいようで、結婚は良いものだとしきりに勧めてくる。
心配させて申し訳ないけれど、私はあまり男性と関わりたくない。
◇◇◇◇◇
「リディア様。私はあちらへ控えていますので、何かあったらお呼び下さい」
「わかったわ、ありがとう」
その日、私は侍女と共に湖に来ていた。
いつもスケッチに出かけた時は、集中したいので遠くから見守ってほしいお願いしている。わがままを言って申し訳ないと思うけど、おかげでゆっくり描けるのでありがたい。
この湖はいろんな花が咲いていて、湖畔を歩けばボート乗り場や教会がある。
少し離れると違った顔を見せるのでスケッチのモチーフには事欠かない素敵な場所だ。
今日は何から描こうかしら…と見回すとベンチが目に留まった。
空の青に色とりどりの花、その中にある白いベンチ。
とても良さそうに見える。
「あの木陰なら全部見渡せそう」
ちょうどいい場所を見つけて浮かれていたのかもしれない。
私は足元をよく見ていなかった。
ぐにっ
「つっ…!」
嫌な感触と声がした。
急いで足元を見た瞬間、時が止まったような衝撃を受けた。
「……天使様…?」
さらりと流れる髪。優しさを含みつつも芯のあるような、凛として整った顔立ち。
まるで私の頭の中の天使様がそのまま現れたような男性が、私の足の下に横たわっていた。
◇◇◇◇◇
「本当に申し訳ございませんでした!」
「俺もあんなところで横になっていて悪かった。これ以上の謝罪は不要だ」
「では、絵のモデルになっていただけますか!?」
「…その話とこの話は別だと何度も言っている」
天使様はアレン様というらしい。家名は名乗らなかったけれど、私もなのでお互い様だ。
何より、今の私にはアレン様がどこのどなたであるかを気にする余裕はなかった。
この方を描きたい…私の理想の天使様!
せっかく巡ってきたチャンスを逃したくないと必死だった。
「どうしてもダメですか?」
「目立つことは苦手だ」
「展覧会などには出しません。手元に置いておくだけです」
「そもそもどうしてそんなに俺を描きたいんだ」
もっともだ。
いきなり踏まれたと思ったらあなたを描かせてほしいと迫られるのだ。
何故と思うのもわかる。
思い出したくないことだけれど、これも描かせてもらうためと覚悟を決めた。
「……少し長くなりますが、最後まで聞いていただけますか?」
まだ学園に通っている時のこと。
先生の勧めもあって、学園内の展覧会へ出展したことがあった。
その時に描いたのは天使様。特に誰かをモデルにすることもなく、思うままに描いた。
ところが偶然とは恐ろしいもので、私の描いた天使様が同学年のある令息にとてもよく似ていたらしい。
大賞は逃したものの、ほどほどに良い賞を受賞したこともあってたくさんの方の目に留まり、モデルはあの方ではないかと噂が一気に広がった。
本当は彼を描いたのでは?
リディア様はあの方がお好きなのでしょう?
聞かれる度に否定した。そもそも噂が出るまで彼の事を知らなかったので描きようがない。
けれど噂は一向に消えず、ついには当の令息本人が接触してくるようになった。
その場を見た人からやはりそうなのだと噂が噂を呼ぶことになり、頑なに否定することが真実である証拠だとすら言われるようになった。
どこへ行ってもその令息が現れるようになって、怖くなった私はひたすら彼を避け続けた。
それは卒業するまで続いた。
「私は天使様を描くのが好きでした。でもこのできごとがトラウマのようになってしまい、描こうとすると手が震えて描けなくなってしまいました。描いた絵にまた何か言われるのでは…と思って、それ以降展覧会へ出すこともできませんでした」
「…………」
「アレン様を見た時、この方だと思いました。あなたを描けばもう一度天使様が描けるようになるのではと思ったのです。…お願いします。どうかモデルになってくださいませんか?」
「………描けなくなったことは同情するが…やはりモデルになるのは難しい」
長い沈黙の後、はっきりとお断りされてしまった。
それもそうだ。自分の理想だから描かせてくれだなんて自分勝手にも程があるし、アレン様には会ったばかりの私のモデルになる義理がない。
無理なお願いをしたことを自覚すると、だんだんとこの場にいることすら申し訳なくなってきた。
「…ご迷惑おかけして大変申し訳ございません。お休みのところ失礼致しました」
「待て」
立ち去ろうとした私の手をアレン様が掴んだ。
「……そういうことだったのか」
「え?」
「いや、こちらの話だ」
そのままアレン様が推し黙る。
手を取られたままで動けない私はアレン様の言葉を待った。
「気が変わった。モデルになってもいい」
「え……本当ですか!?」
「ははっ…落ち着け」
アレン様が吹き出したように笑う。
初めて見る笑顔にどきりとした。
「すみません、でも、あの、いいのですか?」
「ああ。かまわない。ただ今日は時間が取れない。そうだな…一週間後にまたここで良ければ」
「はい!大丈夫です!ありがとうございます!」
ではまた一週間後、とアレン様とそのまま別れた。
入れ替わるように侍女が来て何があったか尋ねられた。話し込んでいる私達の様子をうかがっていたらしい。
アレン様とのことを話したら、ようございましたねと言ってくれた。足元を見ていなかったことに関してはしっかりと叱られたけれど私の心は嬉しさで溢れていた。
それにしても、どうして急にモデルになってもいいと言って下さったのかしら。
◇◇◇◇◇
翌日、私は両親とお兄様と共にマキニス侯爵邸で開かれる夜会へ来ていた。身重のお義姉様の代理でお兄様のパートナーを務めるためである。
侯爵様の起こす新しい事業に関する夜会だそうで、その事業の末席に我が家も加わることになったらしい。
決起集会のようなものと聞いていたけれど、あまりの規模の大きさに驚いた。それだけ大切な事業なのだろう。
「いやあ、ご子息もすっかり立派になられて。フィリー家も安心ですな」
「ありがとう存じます。娘にも早く結婚をして安心させてほしいのですが、なかなか」
「お綺麗なお嬢さんではないですか。焦らずともすぐにどなたか見つかりますよ」
侯爵様と談笑していると、何故か突然私の結婚話になった。
まさか侯爵様にまで私の結婚への心配を吐露するとは…。
密かにお父様に腹を立てていると、侯爵様の隣にいた方の顔が明るくなった。
「それはちょうどいい!実は私の甥もまだ一人でして。……デイル!ちょっとこっちに来てくれ!」
呼ばれた男性が振り返り、こちらへやって来る。
「叔父上、どうされました?」
「こちらのフィリー殿の御息女がお一人だというのでね。これも何かのご縁だ。ご挨拶しなさい」
「またですか…叔父上、いつも言ってますよね。僕は……おや」
男性と目が合うなり私は凍りついた。
「お久しぶりです、フィリー嬢」
私の前にはあの時の令息、デイル・ヴァロン様が笑みを浮かべて立っていた。
「お待たせしました。果実水でよかったですか?」
「…ありがとうございます」
私達が学園で同学年だったと知ると、積もる話もあるだろうと二人にさせられた。
積もる話などないし、あんなことのあった相手といることが嫌でたまらない。
早くお父様達のところへ戻りたい…震える手を抑えるように差し出されたグラスをぎゅっと握った。
「卒業されてからはどうされていたのですか?」
「何も。お話しするようなことは特にしておりません」
「つれませんね。フィリー嬢にお会いできないかと夜会へ行く度に探していたんですよ」
卒業後でも探されていたと知って鳥肌が立つ。
まだ私に付きまとおうと言うのか。
「私にはお会いする用はございません。すみません、気分が悪いので失礼致します」
「おや、それはいけませんね。大丈夫ですか?」
近くのテーブルへグラスを置いて移動しようとするも、ヴァロン様の方が一足早かった。
手を貸すように引き寄せられ、そのままぐっと顔が近づく。
「……やっと捕まえた。もう逃がさない」
私にだけ聞こえるよう耳元で囁かれ、弾かれるように顔を上げた。
それまでと全く違う顔で、にやりとヴァロン様が笑う。
「絵に描くほど僕がお好きだったのでしょう?お望み通りお付き合いして差し上げようと思ったのに、あなたはすぐに逃げてしまう。まあ、照れるのもわかりますが」
「…ち、ちが…」
「今夜叔父上についてきて正解でした。あなたと再会できて、あなたのご家族ともお会いできた。それも事業の相手としてだなんて」
心臓が早鐘を打ち、喉もカラカラになって声が出ない。
早く立ち去りたいのにその場から動けず、血の気の引いた顔でヴァロン様を見る。
「この事業の要は我がヴァロン家なんですよ。この意味、わかりますよね?」
「あ…」
「実に素晴らしいご縁だ。仲良く致しましょう、フィリー嬢。………末永く」
その後どのように帰って来たのかよく覚えていない。
何かの間違いであってほしいと願ったけれど、ヴァロン様から婚約の打診が届いたと伝えられた。
ヴァロン様と結婚だなんて冗談じゃない。お断りしたい。
…けれど。
『この事業の要は我がヴァロン家なんですよ。この意味、わかりますよね?』
婚約を受けなければ私のせいで事業が失敗すると暗に伝えられ、逃げ道はなかった。
◇◇◇◇◇
「浮かない顔をしているな」
「アレン様…」
あの夜会から数日後。
アレン様とお約束した日だったのに、私の頭はヴァロン様との婚約のことでいっぱいだった。
「すみません。少し考えごとをしていて…」
「考えごと?」
「はい…」
ずっと一人で抱え込んでいたから、誰かに話したかったのかもしれない。アレン様なら事情をご存知だし…と、ぽつぽつと夜会からのできごとを話していた。
アレン様は何も言わず、静かに耳を傾けて下さった。
「できることなら婚約を破棄してしまいたい…でも私が彼と結婚しなければ、私のせいで事業が、立ち行かなくなってしまいます。両親も…やっと私が結婚する気になったと喜んでいて…今さら結婚したくないとは、言い出せなくて……っ…」
「………」
アレン様がそっとハンカチを差し出してくれて、初めて自分が泣いていることに気づいた。
お礼を言って受け取ると、アレン様の優しさがじわりと沁みる。
「お話、聞いて下さってありがとうございます。少し落ち着きました。これも運命ですよね…潔く家のためにお嫁に行きます」
「それでいいのか」
「……はい、いいのです」
「俺はそうは思わない」
「え?」
顔を上げるとアレン様が真っ直ぐ私を見ていた。
「過去に恐怖を感じた相手へ嫁ぐことが家のためになるとは思えない。ましてやデイル・ヴァロンなど。悪手にも程がある」
「アレン様…?」
「君の両親は娘に縁談を望むあまりに相手を見誤ったな」
アレン様が立ち上がり、私を見下ろして微笑む。
それはまるで迷い子に救いを下さる天使様のようで。
「君の不安は俺が取り除こう。しばらく待ってくれ、フィリー嬢」
名乗っていないはずの家名や、話していないはずのヴァロン様の名前を何故アレン様がご存知なのか。
何もかも忘れるほどの神々しさだった。
◇◇◇◇◇
待ってくれ、と言われてから一月後。
私とヴァロン様の婚約は、ヴァロン様が捕まったことにより白紙となった。
ヴァロン様は叩けば叩くほど埃が出る方だったらしい。
私に婚約を迫った時のように、強迫まがいなことをあちこちで行っていたのだそうだ。
中には思いつめて自死を選んだ方もいるらしく、一歩間違えば私もそうなっていかもしれないと思うとぞっとした。
私に付きまとっていた件も明らかになっている。
当時、何度否定しても噂が消えなかったのは、彼が自分がモデルだと吹聴していたかららしい。
こんなにも自分に似ているのだから好かれているに違いないと思い込み、いつの間にか彼の中ではそれが真実になっていったようだ。
両親は私とヴァロン様の関係を知り酷くショックを受けたようで、何も知らず結婚話を進めて悪かったと謝罪された。
両親の憔悴した姿を見て、もっと早く相談すればよかったと思った。
一人でよく頑張ったわね、とお母様に抱きしめられると涙があふれて止まらなくなり、いつの間にかお父様、お兄様とお義姉様も加わって、家族で抱き合って泣いていた。
ヴァロン様との関係を完全に断ち、拗れていた両親との関係も修復された。
私の心は一気に晴れやかになった。
◇◇◇◇◇
「この度は本当にありがとうございました」
「礼には及ばない。君の憂うものがなくなって何よりだ」
私の向かいにはアレン様ことアレンディオ・マキニス様がご機嫌な様子で座っている。
ヴァロン様とのことに方が付いたので、お約束通り絵のモデルになってもらっていた。
アレン様は、なんとあの夜会が開かれたマキニス侯爵家のご子息だった。
マキニス様が尽力して下さったので、ヴァロン様が捕まったことで事業への影響もない。
湖で踏んでしまったことを思い出して青くなったが、あのような場所で人が横になっているなど誰も想像できないからと、改めて謝罪を受け入れて下さった。
マキニス様には本当に感謝しかない。
「以前からデイル・ヴァロンの素行は気になっていたが、まさか君が絵を表に出さなくなった原因まで奴にあったとまでは読めなかった」
「あの…一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「マキニス様は私のことをご存知だったのですか?」
身元を明かした覚えはないのにどうして?との思いからたまらず尋ねる。
今まで通りアレンでいいのに、とマキニス様が笑って続ける。
「君は前に学園の展覧会に天使の絵を出展したと言ったな。実は俺はその絵を見ている」
「え!?」
「繊細な筆使いでありながら圧倒的世界観を見事に描き切っていた。俺は一目で君の絵に心奪われたんだ」
「うそ…」
「教師から別の展覧会にも出さないかと何度か誘われなかったか?」
「は、はい、誘われました…」
「それは俺が、君の絵に合いそうなテーマの展覧会を見かける度に教師へ紹介していたからだ。もう一度君の絵を見たかったし、何より君に直接会う機会を得たかった。それを全く…デイル・ヴァロンめ」
マキニス様は私が絵を出さなかったのがよほど残念だったようだ。
それだけ私の絵を気に入って下さっていたことが素直に嬉しい。
「君は紹介した展覧会に出すことはなかったが、だからと言って教師に君に会わせてほしいとも言えなかった。卒業してからはもう二度と目にすることもないだろうと思っていたが… こんなに近くにいたとはな。俺は運が良い」
「そこまで気にかけて下さって、とても光栄です」
「当然だ。好きだからな」
さらりと笑顔で好きだと言われてどきりとする。
……私のことじゃないわ。絵に心奪われたと言っていたじゃない。勘違いしてはダメ。
冷静になろうとすればするほど顔が熱くなっていく。
「フィリー嬢、どうした?手が止まってるぞ」
「す、すみません!」
いけない。せっかくモデルになって下さっているのにぼうっとしてしまった。
「動けないのもつらいですよね?急いでラフを仕上げます。それが終われば自由に動いて下さって大丈夫ですので…」
「いや、問題ない。君に見つめられるのは心地良い」
マキニス様の言葉にまた手が止まってしまった。
気のせいだろうか。私を見る瞳の奥に、何か熱いものを感じる。
視線に耐えられず目を逸らした。
「もう少しで仕上がりますので…終わったらお茶を入れて少し休憩致しましょう」
「ありがたいがその前に絵を見てもいいか?君から俺がどのように見えているのか、とても気になる」
「…っ!」
動揺して黒檀を落としてしまう。
マキニス様が拾って下さったのでお礼を言って受け取ろうとしたら、そのまま手を握られた。
「あの…」
「綺麗な手だ。この手があの素晴らしい絵を描くのだな」
じっと見つめられながら指を撫でられ、恥ずかしくて顔が上げらない。
先程から様子のおかしいマキニス様に混乱する。
「マキニス様、その、離していただけないでしょうか…」
「アレンと呼んでくれるなら」
「むっ無理です!」
「ではこのままだな」
そのままゆっくりと手が持ち上げられ、何だろうと目で追う。
少しずつ、私の手にマキニス様のお顔が近付いてくる。
唇が指先に触れそうになり、叫ぶようにアレン様と呼べば、ふわりと嬉しそうな顔で笑った。
それはとても優しく、甘く痺れるような微笑みで。
「ずっと君に焦がれていた。こうして会えて、触れることができて嬉しい」
色恋に興味のなかった私でもわかる。これは絵のことじゃない。
どうして?と思うもアレン様から目が離せない。
頬も、耳も、首も、手も。何もかもが熱い。
きっと私は全身が真っ赤になっているだろう。
やっと伝えられた、とアレン様が笑みを深めた瞬間。
私の目にはアレン様が天使様ではなく、一人の男性として映った。
特別な感情を抱くのには十分だった。
この絵が描き終わる頃には、私達はどうなっているんだろう。
初めての感情に淡い期待とほんの少しの怖さを感じながら、アレン様と見つめ合った。
最後までお読みいただいてありがとうございます。
初めて書いたお話ですので、お見苦しい点があったら申し訳ないです。