くるくるホウレンソウ
俺の名前はデイヴィッド・タナカ。
いや違う。デビッドじゃないぞ。デイヴィッドだ。そこを間違うとカッコよくないからな、気をつけてくれ。
気に入っているのだ、この名前。カッコいい『デイヴィッド』と絶妙に地味な『タナカ』の組み合わせが良くないか? いかにもこの仕事をしている俺に似合っていると思っている。
本名は田中K太郎なのだが、本名でこの仕事は出来ない。
俺の仕事は諜報活動員。わかりやすくいえば国際スパイだ。誰にも秘密だけどな。……あ、言っちまった。
まぁ、いい。あんたにならバラしたって構わないだろう。俺とあんたとじゃ住んでいる世界が違うようだからな。
現在、俺は東シナ海を日本へ向けて飛んでいる。組織の小型飛行機を自分で操縦してだ。もちろん許可はとってある。
北京で一仕事済ませてきたところだ。なに、大した仕事じゃない。中国の軍事設備にちょいとした仕掛けをして来ただけさ。ふふ……。
日本に帰ったら久しぶりの休みだ。
この仕事は不規則で、休みがいつとれるのかもわからない。
しかし、今夜から明後日の朝までは休んでいいとボスから言われている。
恋人の結と水族館デートの約束をしてある。ふふ……。楽しみだ。
そろそろ結婚の話を持ち出してもいいかな……。
彼女にはもちろん俺の仕事のことは隠してある。俺はトラックドライバーだということになってるが……。
結婚したら、打ち明けよう。
俺は世界を股にかける国際スパイだと。
彼女……。俺に惚れ直すだろうか。ニヤニヤ……。
ピリピリリ、ピリピリリ──電話だ。
画面を見るとボスからだった。
『帰還中か? デビッド』
「あっ、はい。お言葉ですが、デビッドではありません。デイヴィッドです」
『どっちでもいい。聞け、デビッド』
「デイヴィッドとお呼びください。でなきゃ電話切りますよ」
ボスはバリバリの昭和人間だ。DVDを『デーブイデー』と発音する世代だ。難しいのはわかるが、俺のためにどうか正しく発音してほしい。
『じゃあコードネーム0011』
「私そんなコードネームなんですか!? 知らなかった……。っていうか009の次はふつう010じゃないんですか?」
『緊急の仕事だ。今からアメリカへ飛んでくれ』
俺は言葉を失った。
今からアメリカだって? そんな……。ユイと約束をしているのに……。
『アメリカが今、おまえが持ち帰っているその〚パンダさんワッペン〛を欲しがっているんだ。届けてあげてくれ』
「……はい」
断ることは出来なかった。ボスの命令は絶対なのだ。
電話を切ると、俺は予定を頭の中で組み立てた。
しまった。こんなことになるなら今朝、飛行機に燃料を入れなければよかった。中国と日本を往復出来るだけの燃料はタンクの中にあったのだが、中国で仕事を終わらせて電話したら『インドに飛んでくれ』とか突然言われることもあり得るので、満タンにしておいたのだ。
アメリカ往復は燃料タンクを満タンにしておかなければもたない。
頭の中で計算してみると、このままアメリカに行けば、往復して日本に帰り着く50km手前で太平洋に墜落することになる。
本当ならアメリカで給油して、余裕をもって日本に帰還したいところだが、アメリカで給油するためのカードの期限が切れているのだ。ボスに新しいカードを早くくれるよう催促してもう3ヶ月になる。
仕方ない……。一度日本に帰り、補給して行くしかないだろう。
その前にユイに電話をかけた。明日のデートに行けなくなったことを伝えておかねば……。
『ハイ! K太郎』
1ベルで電話に出た。ウキウキした声だった。相当明日のデートを楽しみにしてくれているようだ……。
「ハロー、結。残念だが……、仕事が急に入って、明日の水族館デートはなしになった」
『ええー!?』
「すまん。埋め合わせはする」
『まぁ……。仕事ならしょうがないよね……』
「すまん……」
ユイの声はとても寂しそうだった。
ごめん、ユイ。本当にごめん。俺だって負けずに寂しいのだ。
『……にしても、トラックドライバーの仕事って、一週間ぐらい前からスケジュール決まってるものだって聞いたよ?』
「すまん……。うちの会社は特殊なんだ」
『……ほんとうにK太郎って、トラックドライバーなのかなぁ?』
「ど……、どういうことだ?」
『だってあたし……K太郎がトラックに乗ってるとこ、見たことないし』
「今度、写真に撮って見せるよ」
容易いことだ。組織の変装用グッズから運送会社の制服を借りて、それで写真を撮ればいい。トラックは適当にそのへんに停まってるやつでいいだろう。
ユイに俺の本当の仕事を明かすのは、結婚してからだ。恋人同士とはいえ、今はいわば他人の関係。彼女が正式に身内になるまではバラすわけにはいかない。
『……わかった。じゃ、お仕事気をつけてね』
「また連絡する。すまない。お土産に糞甘いチョコ菓子でも買って帰るよ」
『……今度、いつ会えるの?』
結にそう聞かれ、俺はこう答えるしかなかった。
「わからない」
『わからないって……』
「だが、今週の休みが潰れたんだ。来週末はきっと休める」
『じゃあ来週末、水族館デートよ? じゃあね』
「あっ! おい待て待て」
一方的に電話を切られてしまった。
参ったな。本当に休めるかどうかもわからないのに。
まぁ、たぶん、きっと間違いなく休みは貰えるだろう。ここまで48日ぶっ続けで働いているのだ。そろそろ休みをくれる頃だろう。
雲の下に九州が見えてきた頃、ボスからまた電話が入った。
『0011。今、どこにいる?』
「あっ。日本に一度着陸するところです。燃料を補給するために……」
『なんだと? 今朝補給しておかなかったのか?』
「補給したんですが、アメリカ往復するには満タンにしておかないと……」
『まぁ、いい。ちょうどよかった。日本に着陸するなら京都院八ツ橋本店に寄って生八ツ橋を八箱買ってきてくれ』
「そ、そんな暇ないですよ!」
『うーん……。そうか。それじゃ俺が直々に買いに行くしかないな。腰が痛いし、仕事の疲れが嫌というほど溜まってるんだが……。仕方ないな。おまえが無理だって言うんならなぁ……』
「……わかりました。買ってきます」
『そうか! ありがとう! ハハハッ! ところで洒落には気づいてくれたか? 生八ツ橋を八箱だぞ? 八と八が揃って末広がりだ。縁起がいいだろう? 面白いだろう? 笑うとこなんだぞ、ここ』
「そうですね」
『あっ、そうだ。そういえば0010が俺の命令に従わないからクビにしようと思ってるんで、裁判になった時のためにあいつの悪口を思いつく限り並べ立てた書類を作って提出してくれ』
「またそんなの書かせるんですか」
『従わないとおまえにも食らわすぞ? 他の諜報員たちにおまえの悪口書かせるぞ? 0011はボスの面白い話に笑わなかった非道いやつですと書かせるぞ?』
「わかりましたよ。書きます、書きます」
俺は0010に恨みはこれっぽっちもない。というか、じつは顔も名前も知らなかった。
ボスが『こう書け』と言う通りに書くだけだから楽といえば楽なのだが、気は重い。知らないやつの悪口を書かされて、それを証拠にそいつをクビにしなければならないのだ。
今までにも二人ほどそうやって悪口を書かされ、路頭に迷わせてきた。従わないと俺の悪口をみんなに書かれることになるから仕方がなかった。
ボスの悪口ならいくらでも自分のことばで書けるんだがな……。
そんなことを考えているうちに飛行場に着いた。
思った通り、中国往復程度では燃料はそれほど減ってはいなかった。しかしアメリカを往復するためには満タンにしておかねばならない。
ちょこっとだけ燃料を入れてタンクを満タンにすると、飛行機をそこに停めたまま、俺は自分の車に乗り込んだ。
一度帰るのだ、自分のアパートの部屋へ。
アパートまでは車で5分ほどの距離だ。
俺は冷蔵庫から冷やご飯を詰めたタッパーと作り置きのおかずを取り出すと、保冷バッグに入れた。
これを持って行かないと、現地で食糧を調達していたら金が物凄い勢いで飛んでいく。
自前で準備しておけば一銭も使わないで済むところ、すべて外食にすると一仕事で下手すれば万の金が飛ぶ。金を使いに仕事に行くようなものだ。いつ何を言われるかわかったものじゃないので冷蔵庫の中にはいつも食糧の用意がしてある。
組織からは一応旅費として毎月一万円を貰っているが、そんなものではとても足りないのだ。自分の身は自分で守らなければならない。
「ただいま、マッくん」
俺は部屋でマリモを飼育している。マッくんと名前をつけているかわいい丸いマリモが水槽の底でコロコロしているのを見ると癒やされる。
コイツはマリモだが、ミルクが大好物だ。帰るたびに水槽にミルクを垂らしてやると、転げ回って喜ぶ。それを見て俺もまた癒やされる。
排泄も盛大にするので掃除してやらないと、次に帰った時に水槽の中が糞尿で溢れかえっている。しかしマリモがうんこをするなんて知らなかった。
10分で出なければいけない。アメリカに着くのが遅くなってしまう。
しかし疲れた。深夜1時から現在の12時までずっと動いていたのだ。目を閉じる暇さえなかった。
うっかり目を閉じてしまった。
やばい! 眠ってしまうところだった!
仕事中の休憩時間は6時間。それで食事をして、シャワーを浴びて、仕事の書類を書いて、0010の悪口も書かなければいけない。それで余った時間が睡眠時間だ。せめて4時間は寝ておきたい。生八ツ橋も買いに行かないといけないし……。
バタバタと大急ぎで食糧を持ち、マッくんの世話をして、アパートを出た。車で飛行場まで戻り、エンジンをかける。
アメリカの方角へ離陸してすぐにまたボスから電話がかかってきた。
『0011。すまんが、仕事内容が変更になった』
「えっ? 行き先は変わらずアメリカですか?」
『いや、インドだ』
「正反対の方向じゃないですか!」
『まぁ、そう言うな。やり甲斐のある仕事だぞ』
「おっ? もしかして……」
『そうだ。要人の暗殺だ』
来た──
年に一回あるかないかの大仕事だ。
有り難い。俺に任せてくれるとは……。俺がボスから信頼されている証拠だ。
首相レベルを期待したが、標的は日本のカレーをうるさく批判しているおばさんだそうだ。まぁ、いい。そいつを俺が仕留めれば、日本のカレーは安泰だ。本場のカレーに日本が侵食されるのを俺が未然に防ぐのだ。俺が歴史を変えるのだ。
暗殺グッズはいつでも飛行機に積んである。……しまったな、行き先がインドなら燃料は入れる必要はなかった。まぁ、いい。
大仕事だ。事前に精神統一をし、イメージトレーニングをして、コンディションを整えておかなければ。
幸い、時間に余裕はある。早めに現地に着いて準備を万端にしておくことにしよう。
俺がそう考えていると、電話口でボスが言った。
『あ。時間に隙間あるなぁ……。悪いがベトナムへ行って生春巻きを買えるだけ買っておいてくれないか』
俺は口答えした。
「精神統一乱れちゃいますよ」
ボスが謝った。
『すまんけど』
すまんけどじゃねーよと思いながらも、俺は従うしかないのだった。
思えばいつもそうだ。大仕事の前後に隙間時間があると大抵何か小さな仕事を挟み込んでくれやがる。そのせいで時間も体力もギリギリまで削られてしまう。生春巻きのせいで暗殺しくじったらどうしてくれるってんだ。俺より時速1メートル遅いやつが前を歩いていたら暗殺のタイミングを逃してしまうかもしれないんだぞ。どうしてくれるってんだ……。
バンッ!
なんだかんだで暗殺は成功した。さすがはプロの俺。
さてユイへのお土産でも買ってから帰還するとするか。糞甘いチョコ菓子がカレー&ナンのセットになっちまうけどな。
おっとそうだ。ボスに連絡せねば。
ついでに今週末は何が何でも休みをくれるよう脅迫でもしておこう。
『ご苦労だった、0011。では次の仕事だ。今からすぐアメリカへ飛んでくれ』
「はいいいいい!?」
『一度日本へ燃料補給に帰るよな? その時に生春巻きと生八ツ橋をアジトの冷蔵庫に入れておいてくれ』
「生八ツ橋の話、まだ生きてたんッスか!?」
『は? 生八ツ橋八箱って言ったよね!? わし、言ったよね!?』
「すみません。京都へまず寄ってから飛行場に帰ります……。それでいいんでしょ?」
電話を切って、俺は気づいた。
今からアメリカに行ってたら、帰りは来週になってしまう。
急いでユイに電話をかけた。
『ハイ! K太郎!』
また声を弾ませて電話に出たので言い出しにくかったが、勇気を振り絞って打ち明けた。
「すまん……ユイ。今週末も水族館……、行けなくなった」
無言で電話を切られた。
終わりなのかな……、俺たち。俺ももういいトシだし、これが最後の結婚のチャンスだと思っていたんだが……。
涙でコックピットの前がよく見えない。今、中国の上空なのかな。黄河の流れがぼやけてら。
本当にトラック運転手にでも転職しようかな……。俺はそんなことを思いはじめてしまっていた。