94話
灰と油まみれの俺は、水場に案内されて汚れを洗い流している。
アルナーが服を用意してくれるというので、ひらひらのついてないシャツにして……とお願いした。
彼は何となく察したようで、笑って頷いた。まあ庶民ですからな……。
そして装いを整え、再び領主の部屋に向かった。
向かう途中、大量の水で汚れたフロアや、厨房の片付けを使用人達がせっせとこなしている。
俺が姿を現すと皆、動きが止まった。
しでかした張本人としては少し気が引けたが、消火するにはあれしかなかったと思っている。
領主の部屋に案内されると、先ほどの執事と奥方、それにライナスもいた。
「こちらはオルトナ筆頭執事、そしてリーシェ夫人です」
アルナーの紹介に、俺も名乗って挨拶する。
オルトナは領主と同じか、少し上ぐらいの年齢。うちの主任と体格が似てて、細身の高身長。俺を見る表情が険しい。
夫人は逆に領主よりかなり若い印象の綺麗な人だ。気を抜くと胸に目が行ってしまうほどのナイスバディだ。
領主家族と俺が椅子に座ると、筆頭執事が現状報告をする――
厨房は全壊。内壁の破損と勝手口の扉が消失。竈は壊れていないが、水浸しで全て使用不能。
ただし消火が早かったので、2階や隣接した部屋への被害はなし。
使用人は全員無事、中に取り残されていた3名は油を被るなどして重傷……と思われたが3名とも傷一つなく無事。
領主家族にも被害なし。幸い午前中の来客は俺だけだった。
騒ぎで近隣住人が衛兵を呼び、多数駆け付けたが、たいしたことなく鎮火したとの報告を受け撤収したという。
厨房は一ヶ所だけ鉄格子がはめられている窓があり、火事というよりは、そこと勝手口から水が溢れ出た状態にしか外からは見えなかった。
煙はすべて玄関ホールに流れてきたため高い天井が煤で真っ黒。早急に清掃を手配するとのこと。
といった報告が終わると、皆が俺に注目する。
「全員無事ならよかったですね……」
人員に被害がなければ万事オッケーでしょ。
厨房破壊したことについては消火活動の不可抗力なので仕方ないとして、室内で大放水するとあんな感じになるんだな……。
不謹慎ながら試せたのはよかった。
「あなた……」
「ああ。火災が延焼する前に消火をしてくれて助かった。礼を言う」
夫人に促され、領主がお礼を述べる。
領主夫妻が頭を下げるのを見て、ライナスも頭を下げた。
「いえいえ、家が全焼しなくてよかったです。で…原因は何だったんです?」
「おそらくですが、煮えたぎった油に水に濡れた食材を投入してしまったらしい」
「あーそれはよくある事故ですね」
油に水が入ると瞬時に蒸発して水蒸気爆発っぽくなるんだっけかな。日本でも揚げものの事故でたまに聞く話だ。
普通はそれ、家は丸ごと全焼コース、まあホント消火できて何よりだ。
俺が来た日に領主の館が全焼なんて縁起でもない。
領主はため息をつくと事情を尋ねた。
「それでその……君は何をしたんだ?」
「あまり詮索しないでもらいたいんですが……魔法で水を出して消火したんです。ただあまり人に知られたくないので……」
「どうして?」
「ただのギルド職員が魔法を使えると知られると面倒くさいんですよ」
さすがに隠しきれないので魔法が使える話はしとく。
するとアルナーが後ろから声をかける。この中で俺の所業を目にした唯一の人物だ。
「あの大量の水のことですか?」
彼を見ずに頷く。
「あ……言っていたな。大量の水とは何だ?」
領主家族と筆頭執事は、消火後に階段から降りてきたため放水を見ていない。
なのでアルナーの発言の意味がわからないのだ。
「いえその……瑞樹さんが厨房に向かって水を放出したので……」
「放出……どれくらいだ……」
「えー……」
アルナーが口ごもり、俺に答えてほしそうに目で訴えている。
まあそうだな……とても説明はできんだろう。
俺は足の上で手を組んで、親指をくるくるさせながら部屋をぐるっと見渡した。
「そうですね……今いる部屋全体ぐらいかと……」
「「「は?」」」
3人は目を見開いて言葉を失う。
意味不明の発言に追い打ちをかけるようにアルナーが頷く。
「一瞬の出来事でした」
「一瞬とは?」
領主はピンときてないなこれ……オウム返しのように単語を口にしただけだな。
それでも気にすることなく、俺は放水時にカウントした数字を述べた。
「2秒です。放水を2秒だけしました」
「「「!?」」」
現場を見ていない3人に理解しろというのが無理がある。だが事実を述べているのだ。
領主は俯き右手で顔を覆う。
「すまん……言っている意味がわからないんだが……『2秒でこの部屋が埋まるほどの水を放出した』ということか!?」
「そうですね」
領主は顔から血の気が引いて真っ青。だがアルナーを見ると、彼はゆっくり頷いた。
「だからまあご内密にお願いします……ということで」
沈黙の中、ライナスは所在なさげ。キョロキョロしているので笑いかけた。
「それと3人の治療をしたことも内密にお願いします。こちらはもっとめんどくさいことになるので」
「……というと?」
「治療は教会が独占してる魔法なので、部外者が使えるとわかると、俺が排除されかねないので」
「排除って……」
「まあ――」
ライナスを目にして言葉を選ぶ。
「消えちゃえー……みたいな、ね」
彼らは意味を理解した。
「できれば使用人の方々にも口止めしてほしいですが……まあ無理ですかねー」
「どうしてだ?」
「どうしてって……失礼を承知で言いますが、これ侯爵の醜聞でしょう? 知りたがる連中なんて山ほどいるでしょうし、酒場で金でもつかまされたらしゃべる人いるんじゃないかなー」
領主は少し考え込むと、険しい表情を俺に向けた。
あれ……俺がしゃべると思われた?
口止めして欲しいって言ってる立場なんだけどな。ふむ……フォローしとくか。
「まあでも大丈夫でしょ」
「ん?」
「『部屋いっぱいの水』だの『大火傷が一瞬で消えた』なんて話、説明を聞いても信じてないでしょ?」
放水を見た人ならともかく、見てない人には想像すらできないはず。実際、領主夫妻と筆頭執事がそうだ。
それに治療は誰にも見られていない。軽い火傷を大げさに誇張しただけ……と言われるだけだ。
「侯爵としては大げさにするなと口止めするのは当たり前でしょうし、怪我も大したことなかったで済むかと」
俺はお願いするように軽く頭を下げた。
領主は後ろのオルトナに目をやると、彼は黙って頷いた。使用人に口止めしておくという意味だろう。
事情説明は終わり、執事2人は部屋をあとにする。
オルトナは使用人たちに指示を出すため、アルナーは俺の乗る馬車を手配しに行った。
その間、領主夫妻と雑談。
普段の仕事について聞かれたので、ティアラで経理をしているという話をする。
思えばスマホのことを聞かれなかった……ホントに紙飛行機の件だけで呼ばれたのだな。
だが今回の件で今後、俺について調べられる可能性は高い……というかほぼ確実か。まあ何とでも誤魔化せるだろう。
馬車の準備が整ったと使用人が告げたので、侯爵家族と一緒に階下に降りる。
すると数名の料理人が駆けてきた。
「あの…あの……料理長を助けていただいてありがとうございます。俺が油に――」
涙目で謝罪する料理人に目を向け、俺は自分の口に人差し指を当てる。
すると彼は口を閉じた。
「私は何もしてません。『皆さんで消火して誰も怪我人はいなかった』……そうですよね?」
侯爵に向いてにやりとすると、彼はちょっと口角を上げて軽く頷いた。
そして料理人に会釈して玄関へ向かった。
「次はぜひ食事でもしよう」
「瑞樹さん、本当にありがとうございました」
領主夫妻と握手をし、しゃがんでライナスとも握手をする。
そして馬車に乗って領主の館をあとにした。