2話 魔法が存在する世界
それが目に入った途端、一瞬何の感情も湧かずに「あっ…」と思った。
何かと認識する間もなく体が勝手に反応し、みぞおちに猛烈な痛みが走る。
すぐに激しい嘔吐に見舞われて立っていられなくなり、その場に四つん這いに突っ伏して吐く。
理解するより体が先に反応した――
それが人の死体だと。
オ…オゥェェア…グブッ…ェッェ…ガハッ…アッ…オェ…ァァ…
くそう…不意打ち過ぎんだろ……。
出立後しばらく森の中を進んでると、高さ10メートルはある巨石が目の前に見えた。
そのデカさに驚きつつ、近づいてぐるっと回り込んだその時、巨石の足元にそれがあったのだ。
ただの死体ならまだ吐かずに済んだかもしれない。
だが目にしたそれは、顔がすっぽり無くなっていて、頭の輪郭が残っているだけの代物だった。
昨日の夜弁当が最後の食事、今朝は水しか飲んでいなかったため吐くものがない。
吐いても胃液しか出てこないので咳込むような嘔吐で凄く苦しい。
その代わり涙と鼻水はだらだらと流れ、顔はぐしゃぐしゃに濡れて地面が滲む。
そしてやっとの思いでかすれそうな泣き声を出す。
「ふ……んなぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ニュースでたまに聞く『散歩中に死体を発見した』って人の気持ちがよーくわかった瞬間だった。
ケヘッ…ケヘッ…ペッ…アアアァ…ハァア……
やっと吐き気が落ち着いて呼吸ができるようになってきた。
ペットボトルの水で顔を洗って深呼吸する。
死体の顔を見ないように、目の前に掌をかざしてもう一度見る。
「いや……何ていうかこれ……革鎧みたいな……コスプレ?」
彼の服装がいわゆるRPGの戦士風の恰好をしている。
そして首のところにネームタグっぽいものがあるのが見える。
軍人が首からぶら下げてる名札のやつだ。
こんな顔もない死体に近づくなんざご免である。
だが一応名前ぐらいは確認してやるかという気になった。
顔を背けつつ恐る恐る近づいてネームタグを掴み、右足で胸の辺りを踏みつけて一気に引っ張る。
すると首がぐにっとなる感触が手に伝わりビビってこける。だがネームタグは取れた。
そして書いてある字を確認する――
『ガラム』
これが名前かね……と思いつつ裏返すと、よくゲームで見る単語が書いてあった。
『ティアラ冒険者ギルド』
瞬時にゲーム脳が働く。
冒険者つったらモンスター倒して金稼ぐ連中、ギルドつったらその所属の意味。
毎日やっているネトゲでお馴染みだ。
「はぁ!?」
思わず辺りをキョロキョロと見渡す。
これドラマか映画の撮影か?
ダンジョンなんたらとか、なんたらクエストとかいうアレ……。
知っているゲームの単語が頭をよぎる。
そして残念なことにさらに離れたところに別の死体があることがわかった。
「全部で4体かぁ……」
何であれ大量殺人現場に居合わせてしまったようだ。
そして辺りを見ると少し離れたところに4人の荷物が置いてある。
荒らされていないそのままの状態だ。
最初は忘れ物を見た程度の認識だったが、すぐにこの状態が異様だと気づく――
揃えて置いてあるってことは不意に襲われたわけじゃない。
荒らされてないから人相手じゃない。
彼らは挑んで……そしてあっさり殺されたのだ。相当な化け物だ。
そしてそいつはまだこの辺にいる可能性がある。
一番重要な『犯人がまだ近くにいる』というやつがスコンと考えから抜け落ちていた。
突然膝がガクガク震え出す。
これって比喩表現じゃないんだな……。
ここをすぐに離れなければならないということがわかり気が動転しまくる。
どっちに行けばいいのかわからないがとにかく逃げよう。
かち合わないことを祈るしかない。
念のためスマホで遺体や現場の写真を撮影する。
俺が犯人じゃないという証拠のためだ。
何が悲しくて死体写真何ぞ撮影せにゃならんのだ…ちくしょう。
そして逃げる前に彼らの荷物が目に留まる。
「これは貰ってっていいよね。俺も遭難してるんで――」
彼らの荷物を抱えて逃げることにした。
◆ ◆ ◆
森に飛ばされて2日目、結局人に遭遇することも街にたどり着くこともできずに日が暮れた。
「あ…食い物だ!」
彼らの荷物に食料を見つけた。丸1日食ってなかったので思わずホッとする。
しかも4人分あるので1人で消費すると考えても数日分はなんとかなるだろう。
そこいらの枯れ木を集めて焚火を起こす。
ライター持ってたおかげで楽勝だった。
よく遭難で火を起こすのに苦労するのがお約束なんだがな……。
焚火で彼らの食料であった干し肉とパンを炙って食べる。
「うっ……マッズ」
想像してたけどやはりパサパサしてておいしくない。
干し肉も鉄っぽい血の味に思わず口をすぼめる。
昼間見た死体のことが頭から離れず、野生動物に襲われる恐怖になかなか寝つけない。
それならってことで荷物をいくつか調べてみる。
携帯食のビスケットを齧りながらリュックの中身をごそごそと探る。
すると書類と……何と地図が見つかった。
「くそっ、先に調べとけばよかった」
それと何やら図や文字が書いてある紙があったのでそれを読んでみる。
いやその前にすぐ違和感に気づいた――
「これ全部日本語なんだけど!?」
地図の地名、この書類、そういやネームタグの名前も日本語だ。
再び辺りをキョロキョロと見渡す。
やはりこれ映画の撮影の小道具を忘れていったものじゃないかとの考えが浮かぶ。
むしろそのほうが自然だ。
一応漫画とかである異世界なんちゃらとかゲームの世界に……とかいうのが頭に浮かびはした。
だが受け入れたくない。
そして別のショルダーバッグを探ると本が数冊あったので出してみる。
そのうちの一冊にとんでもないタイトルが書いてあった……。
『初級魔法読本』
思考が止まる。
魔法という甘美な単語は、ネトゲ三昧の俺には麻薬のような魅力を放った。
まあ撮影の小道具という可能性があると必死に言い聞かせる。
それを手に持ち、しばしまじまじと眺める。
パラパラっとめくると、それらしい設定の内容が記述されていた。
「設定にしては充実してるな。もしかして本物って線もワンチャンあるか……」
現在身に起きている超常現象を踏まえると、ここは別の世界――剣と魔法の異世界という可能性もなくはない。
たが日本語で書かれてる事実がそれを否定する。
「さすがにないな……」
暇つぶしに読んでいると、魔法の記述を発見する。
思わず期待に胸が膨らむ。こういうのはゲーマーには堪らない。
「ふむふむ…………風…………水…………土…………雷…………あれ?」
すぐに足りないものに気づく。
「火は? 火の魔法はないの?」
漫画で必ず出てくるお約束魔法、火系の魔法が見当たらない。
「おいおいおいおい! 一番大事なのがないじゃないかっ!」
この本に腹を立てる。
「ん~~~~何だろう……」
設定に疑問を感じ、そしてはたと気づく。
「ああっ! 中級で……ってことか」
本のタイトルに初級とあった。
おそらく火の魔法は難易度が高いということなのだろう。
なるほどな……と理解し、読み進めると風の呪文とやらの文言を発見する。
そしてそこにあった呪文を目にして固まった。
《今こそ我が言の葉により疾き風を放たん、風神ウィンドルの名のもとに、疾風》
「うっは!」
顔から火が出るほど恥ずかしい台詞に思わず顔がにやける。
「某さすがに『中二病』はもう卒業してるでござるよ~」
笑わせてもらったおかげで恐怖が紛れた。
そしてここはいっちょ乗っかってみるかという気分にさせられる。
スクッと立ち上がり屈伸2回、左手に本を持ち、掌を前に向けていざ詠唱――
の前に周囲に誰もいないのを確認。
「ん…うん、今……我が言……風神ウィン……疾風!」
やっぱし恥ずかしかったので小声になってしまった。
――――何も起きない。
うーん……声の大きさも大事なのかもしれないな。
あとちゃんと言えてなかったかも……。
恥ずかしさで萎縮してしまったことを反省し、ちゃんと真面目に再トライだ。
一度屈伸し、足を肩幅に開く。
本を顔の前に据え、右手をまっすぐ伸ばして声高らかに詠唱――
「今こそ我が言の葉により疾き風を放たん、風神ウィンドルの名のもとに、疾風!」
シ――――ン。
やはり何も起きなかった。
「ま…ま~~~所詮はこんなもんですよ、ハハハハ」
誰に言い訳するわけでもなくすぐに辺りを見渡し照れ笑いで誤魔化す。
その後、他の呪文も試してみたがやはりうまくいかない……。
結局ただの中二病ごっこで終わってしまった。
時刻は2時を回っている。
魔法はできなかったが、この本の内容がよくできているなと感心する。
そして仰向けになって読みふける。
だがどうにも呪文の記述の不自然さが気になった。
先に呪文が書いてあって、その下に説明文が書いてある。
文章はどちらも日本語な上に――
説明文が『実にへたくそな直訳文』なのだ。
まるで外国語をグーグル翻訳した感じの稚拙さに、思わず馬鹿にして口にしまった。
「いるんかなこれ? この……『私は今から唱えます。石の魔法。石の神ヌトス。よろしくお願いします。石発射』ってせ――」
シュパン!
突然、頭付近で破裂音っぽい音がした。
「……ん?」
――――ドスンッ!
十数秒後、少し離れたところに何かが落ちた音がした。
一瞬何が起きたかわからない……頭の辺りで何か起きた気がする。
おでこのあたりに手をやりスリスリしてみたが何も変化はない。
体をゆっくり起こし音のしたほうを見る――だが暗くて何も見えない。
座ったままもう一度、へたくそな直訳文を読んでみる。
「………から唱え………します。石発射」
シュパン!
するとおでこ辺りから射撃音が聞こえた。
直後目の前の土に何かがぶつかった衝撃で舞い上がり慌てて身を引く。
「うぉぉお! 何々!?」
少し考える。
そして今度は姿勢を正し、本を前に構えて詠唱する。
《私は今から唱えます。石の魔法。石の神ヌトス。よろしくお願いします。石発射》
今度はおでこ付近でズバンと空気を切る音がはっきり聞こえた。
そして何かが前方に飛んでいき、闇に消えたのを確認した。
「お……ふ…ふおぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
何とも情けない喜びの声だ。
だがたしかに今、何かしらの超常現象が発生した。
嬉しくて堪らない。
そして同時にこれは映画の撮影とかではなく、よその世界――
『異世界に来てしまった』
という事実が確定する。
「マジかぁぁぁぁ……」
受け入れがたい現実に頭が真っ白だ。
◆ ◆ ◆
目を覚ましたらお日様は真上を通り過ぎていた。
結局空が白み始めるまで魔法の詠唱をしまくった。
『魔法が使えた!』
最初、別世界に来た事実を受け入れ難かった。当然だ、そんなの夢物語に過ぎない。
だがゲーム脳が状況を受け入れ、本物の魔法が嬉しくて撃ちまくっていた。
そして理系学生らしく魔法の原理が気になり、スマホで撃ちだすシーンを録画して検証したりした。
ただし夜だったのと魔法自体が早すぎて撮影はうまくいかなかったがな。
さて、急ぎ身支度をする。早速魔法の出番である。
まず服を全部脱ぐ。パンツも脱いでスッポンポン状態。
野外で全裸は背徳感がハンパない。
そして少し離れたところに移動する。そして上を向いてしばし沈黙。
するとシュパンとおでこから風を切る音と共に水の弾が上空へ射出――『水の魔法』だ。
落ちてくる水を体で受けるべく真下へ移動し、被ってシャワーがわりにする。
昨日の夜考えたアイデアなんだがうまくいった。
まあ3回に1回しか水被れないけどな……。
だがどうも……魔法書に書いてある通りには魔法が使えない。
書いてあることができず、書いてないことができるのだ。
魔法の変な挙動その1――『魔法がおでこから出てしまう』
何度も掌から出そうとしたのだけれど出せない。
本には『マナを体内に巡らせて掌に集中させる』と書いてあるのだが、そもそもマナたるものを感じない。
マナってあれだよな、ゲームとかである魔法の元みたいなやつ……。
なので結局今のところ『よくわからないが発動してるのでヨシ!』という状態である。
魔法の変な挙動その2――『無詠唱で撃てる』
これは頭の中で呪文を唱えたらすぐ撃てた。実にあっさりとだ。
当たり前にできることなのかもしれないが、本に無詠唱のことは書いてない。
そしてこれ……できるときとできないときがある。それもわからない。
追々検証していかなければならないと思う。
さて、水も被ってさっぱりしたところで出立の準備――
と思いきや突然、景色の色が消えた!
辺りの風景が灰色に染まり、音が消え耳がツーンとする。
見ると全ての物が止まっている。
あまりの異常事態に驚愕し、びしょぬれの真っ裸のまま立ち尽くした。
あーまた何かのイベントフラグが立ったのか……もう超常現象にはだいぶ慣れたな。
俺のゲーム脳は、次々起こる出来事に順応したようだ。