135話
マグネル商会の会長室。
ファーモス会長は、会社の重要書類や金目の物を、カバンに詰め込むのに必死だ。
こんなことになろうとは……会長はパニックに陥っていた。
執務中に市内に鐘の音が鳴り響き、何事かと窓の外を眺めると、見たこともない巨大生物が空を飛んでいた。
我が目を疑いつつも、即座にある単語が頭に浮かんだ……あれがドラゴンか!
呆然自失としていると、ドラゴンが教会付近で口から火を吐き、西大通りが焼かれるのを目にする。
あまりの出来事に恐怖してへたり込み、這うようにしてドアを開け、従業員にカルミスを呼ぶように告げた。
しばらくして、秘書のカルミスが会長室に飛び込んできた。
「か、会長!」
彼女の髪は乱れ、顔色を失い、目には大粒の涙が浮かんでいる。
会長はその声に振り向くと、彼女の様子を見ることなく怒鳴るように指示を出す。
「おいっ! 何をしている! 急いでこのかばんにその書類を――」
「み……南大通りが火に焼かれています……」
被せるように告げられた言葉に会長は絶句した。
そんなバカな……と、思わず窓を振り返る。
三階の会長室からは、炎上している西大通りと破壊された教会が見えるだけ……ドラゴンの姿はなかった。
南大通りから逃げようと考えていた矢先の報告に、会長は膝をついてうなだれた。
カルミスもどうしていいかわからずに呆然と立ち尽くす。
信じられない出来事に、これは悪夢なんじゃないかと目を閉じると、彼女の目から溜まっていた涙が頬を伝った。
会長の脳裏に、瑞樹から聞いていた言葉がよみがえる。
二ヶ月後ぐらいにドラゴンに襲われる……たしかそんなことを言っていた。
別に信じなかったわけではない。
考えてもどうしようもないことだし、仕事も好調でそれどころではなかった。
くそう……どうすればいい!?
会長は打ちひしがれて動けずにいた。
カルミスはそんな会長を目にし、瑞樹の言っていたことを必死に思い出そうとした。
たしか……『点呼を取る』『ヘルメットを被る』『何も持たずに逃げる』だったような……。
彼女はうなだれている会長に発破をかける。
「会長! 逃げましょう! 南門と西門はダメですが、東門はまだ大丈夫なんじゃないでしょうか……東門へ逃げましょう」
気落ちした会長は、口をギュッとしたまま何も発しない。
カルミスは、崩れそうな気持ちを奮い立たせ、震える泣き声で言葉を続ける。
「が……会長! ディ…ディアラのみんなは東門に逃げたはずです。ん゛っ……瑞樹さんも東です。彼は逃げろと言いま…した。……い…東門に逃げましょう!」
瑞樹の名前に会長は反応した。
顔を上げ、号泣しているカルミスの目を見る。
それを目にして会長も涙を浮かべた。
「ずずっ……彼は言ってましたよ……『生きてりゃどうとでもなる』って。……生きましょう。みんなで逃げましょう!」
彼女の渾身の訴えに覚悟を決め、呆けてたことを謝罪して立ち上がった。
二人は商会に残っていた従業員に声をかけ、今から東門へ逃げると告げる。
従業員は皆震え、どうしていいかわからずに混乱していた。
会長は歯を食いしばり、今うちが繁盛している要因を作ってくれたティアラの職員の話をする。
彼はこの襲撃を予想していた、逃げ方も自分に教えてくれた。彼がいる東門なら安心だ……と発破をかけた。
続いてカルミスが、彼が教えてくれた内容を語る。
頭を守れ、何も持つな、慌てず一緒に行動する……と。
その言葉に互いに顔を見合わせる。
目配せを交わしたあと、「わかりました」と返事をした。
本店にはいくつかの革防具が入荷していて、十数着のヘルメットがあった。
「会長、ヘルメットを……」
「わしはいい。若い連中に被らせろ!」
「……はい」
従業員の何名かにヘルメットを被せ、カルミスが従業員の点呼を取る。
数名が熱風で顔や手を火傷をしていたが、手当も済ませ、逃げるのには問題ないと言った。
……全員を確認。
「よし、じゃあ行こう」
大通りを避け、路地を抜けるように東門への逃避行を開始する。
それはちょうど、ドラゴンが南門の襲撃から飛び立ち、南東寄りに都市上空を飛行し東大通りに向かったときだった。
◆ ◆ ◆
ドラゴンのブレスの燃料は高圧ガスである。
原料は油脂だと思われるが、マナによる強化で威力も熱量もアップしている。
仕組みは、体内に液化した油脂を貯蔵する器官があり、その油を熱で気化させてガスに変換、溜め続けて高圧化する。
吐き出す直前に空気を一気に吸い込み、喉奥の高熱源で混合気体を着火し、噴射し続けるというものである。
ガスへの変換、高圧化、空気の吸引、熱源生成、噴射、と一連の作業に膨大なマナを消費する。
そのため一度噴射を始めると、途中で止めることはできない。
ブレスは奴の必殺技――威力はすごいが使うのに時間がかかるのだ。
瑞樹のおでこ放水がドラゴンのブレスと撃ち合えたのは、炎がガス噴射だったおかげでもある。
液体と気体の重量比が大きいからだ。
威力はブレスのほうが上でも、大量に押し寄せる液体を気体で押し返すのは難しい。質量もエネルギーだ。
そもそも火は水に弱い。
いかに高温の炎だろうが、永続的に供給され続ける大量の水を瞬時に蒸発させることはできない。
さらに、ブレスと水の接触面が瞬時に蒸発することで気泡が発生し、後ろの水への熱伝導が妨げられ蒸発が遅れる――ライデンフロスト現象も起きていたのだろう。
大量の水を放出し続けられたおかげで、ドラゴンのブレスに対抗できたのだ。
ドラゴンは鎮座したまま動かずにいる。
何だ……何が起こった!?
いつもと違う光景に困惑した。
ブレスのあとはいつも決まっていたはずだ――
真っ黒に焦げた地面、辺り一帯燃え上る炎、時折り渦を巻く火柱、舞い散る火の粉、そして揺らめく大気……動くものは何一つなかった。
その光景は強さの象徴、今まではそうだった……今日もそうだった。
……だが今回は違う!
吐き終わって見えた景色には炎が見えない。
白い煙が上空に立ち昇っている。まるで雲のようだ。
今までと違うことにわけがわからず、考えることに集中するあまり、身動きができずにいた。
ドラゴンはブレスを放つとき、熱から目を守るために瞬膜――瞼の内側にある半透明の膜を閉じる。
そのためはっきりとした視界にはならず、オレンジ色が全体にぼんやりと見えているだけ。
なので炎を吐き終わるまで結果がわからない。
まさか大量の水が放たれていたなど知る由もないのだ。
周囲の地面や建物から、ブレスによる熱で蒸気が立ち昇る。
自身の体表面からも被った水が体温で蒸発し、寒い気温で湯気となっていた。
まったく火の気がない。
……それどころか、燃やしたはずの人間が目の前にいる!
しゃがんでこちらをじっと見ている。
通りの先にも逃げ惑う人が見えた。誰一人焼け死んでいない……どういうことだ!?
ドラゴンは困惑するばかり……。
すると目の前の人間が立ち上がり、仲間を抱えて立ち去っていく。
ドラゴンは何もせず、ただそれを見送った。
……が、人間を目にしてあることを思い出した――
あれ? ブレスの直前……竜語が聞こえなかったか?
ドラゴンは、自分の言葉をこの大陸に来て聞いたことがない。
青のドラゴンとも言語が微妙に違っていて、居留地を乗っ取ってからも意思疎通がうまくいかず、動作で要求を示すようにしていたほどだ。
ところが今さっき、自分たちが話す言葉が聞こえた気がする。
いやいや……そんなはずはない! 人間が竜語を話すなどありえない!
……だが……いやたしかに聞こえた……聞こえたぞ!
――「うるせえバカ!」……と。
あれこれと考えを巡らせていると、一人の人間がこちらにつかつかと歩いてくる。
……何だ!?
ドラゴンは目を疑う。
逃げ惑う人間は目にするが、やってくる人間など今まで見たことがない。
こんな小さな人間に対して言い知れぬ感情が走る。
それが興味なのか、動揺なのか、自身にはわからなかった。
こちらを見据え、歩みを止めない。
……あれ? こいつはさっきの人間ではないか!?
ドラゴンは、地面すれすれまで頭を下げると、その人間は何と鼻先までやってきた。