134話
ティアラは東門までは歩いて十分程度の距離、駆け足なら五分ぐらいでたどり着ける。
ギルド前に集まって脱出を開始してもう十数分は経過している。早めに出た職員たちは、すでに街を脱出しているはず。
東大通りもすでに混乱し始めている。
皆が避難のために、荷物を運び出そうとしているからだ。
しかも西大通りと南大通りを焼かれた今、逃げる門はもう東門しかない。
いずれここは大混乱に陥るだろう。
俺とティナメリルさんは、大通りの右沿いの建物の屋根伝いに移動し、門まであと二百メートルといったところだ。
ふと、通りに目を落とすと、横倒しの荷馬車のそばに、倒れている職員の制服が見えた。
――な、なんで!?
「ティナメリルさん!」
俺の声に彼女が止まる。
下を指さし、職員が倒れていることを伝える。
自分を指さして、「俺が行く」と示し、ティナメリルさんを指さして、「あなたは門へ向かって」と東門を指さす。
俺の指示に頷いたのを確認し、下へ跳び下りた。
彼女に見覚えがある――たしかハンドクリームの話をした職員だ。そういや名前聞き忘れてたな……。
ティアラで一番小さい女性、俺の首までしか背丈がない。
額から血を流して気絶しており、左腕が変に曲がって骨折しているようだ。
逃げ遅れたのか、それとも群衆に巻き込まれて見失ったか……。
どちらにしろ気づかれなかったのか。
《詠唱、大ヒール》
彼女の背中におでこを当て、十数秒かけて治療した。
見ると、通りの反対側に倒れた荷車が放置してある。横から出てきた荷車に跳ねられたのかもしれない。
誰も倒れている彼女に目をくれるものはいない。皆、我がことで忙しい。
大荷物を背負い、荷車を引き、あちこちの横道から人がどんどん通りにやってくる。
突然、大きな影が横切った。
上空をドラゴンが通過したのだ。
通りに降りていたため、飛来するのがわからなかった。
突風に煽られて顔を伏せる。
そのとき一瞬、目にしたくないものが見えてしまった――
少し先の屋根の上から、強風に煽られて吹き飛ばされる……ティナメリルさんの姿だ。
バランスを崩したまま落下して、通りの反対側の建物に激突。
そのままずり落ちた。
その光景が不思議とスロー再生で見えた。
「うわあああぁぁぁあああぁぁああああ!!」
背筋が凍りつき絶叫した。
慌てて女性職員を抱えたままダッシュし、ティナメリルさんのそばへ駆け寄る。
「てぃ……ティナメリルさああああん!」
ぐったりとしたまま反応がない。
《詠唱、完全回復》
生きているかの確認なんぞをする間もおしい。彼女の身体におでこをくっつけて瞬時に魔法を唱えた。
……死んでないよね?
女性職員を片膝に乗せ、両腕を伸ばしてティナメリルさんを引き寄せる。
頭がガクッと後ろに倒れ、慌てて左手で後頭部を支えた。
彼女の身体はびっくりするほど軽かった。
「ティナメリルさん! ティナメリルさん!」
彼女に呼びかけ、軽く頬をペシペシと叩く。すると「ううっ」と呻いた。
生きている!
その声に涙が出そうなぐらい安堵した。
顔を上げると、人々は荷物をすべて放り投げ、我先にと東門へ向かっている。
後ろのほうで馬の嘶きと、荷馬車の倒れる大きな音がした。
振り返ると、通りを塞ぐような形で倒れ、積んであった荷物が幌をぶち破り、辺りに散乱した。
……すぐにこの場を離れなければ。
右腕に女性職員を抱え、左腕でギュッとティナメリルさんを引き寄せる。
二人を抱えて移動しようとしたそのとき、ドラゴンが東大通り上空で静止した。
奴は、倒れた荷馬車と俺たちをはさんだ位置にいる。距離は約五十メートルといったところか。
しかも残念なことに俺たちのほうを向いている。
サッと振り向いて東門を見る。約百メートルぐらいか……とてもじゃないが逃げられない!
「ガッガッガッ!」
変な笑い声……実に嫌らしい響きだ。
表情筋があるわけもないだろうに、こちらを小馬鹿にしているように見える。実に腹立たしい。
とはいえドラゴンをこんな間近で目にすることになるとは思わなかったな。
逃げられる人は路地裏へ走り、それ以外は気絶するか、発狂して恐慌状態で震えている。
気づくと俺たちのそばには誰もいなくなっていた。
覚悟を決めるしかない!
道路の真ん中に移動、女性職員を静かに寝かせ、俺の背中に隠すように前に出る。
左腕で抱えているティナメリルさんを、後ろ手に回しながら背中に隠し、ギュッと密着させる。
彼女の体温を背中に感じながら、片膝立ちの前傾姿勢をとる。
準備完了だ!
ドラゴンは広げた翼を若干引き寄せ、バランスをとるように小さく羽ばたいている。
南門の上空で見た仕草……ブレスを吐く前兆か。
タイミングを見誤るなよ、俺!
二度ほど瞬きをすると、奴は口を開いて悪態をついた。
「燃――え――く――ち――ろ――!!」
「うるせええバァァァカッ!!」
脊髄反射で言い返すと同時に、身体強化の《動体視力強化》を発動。
制限時間は約十秒。
その間、奴の動作は四分の一再生状態に見える。実時間は約二秒半だ。
ドラゴンの口の奥に、昼光色に輝く光を見た。
今だ!!
《詠唱、最大放水発射》
俺の目に映るのは、おでこから噴射される怒涛の大放水のみ。
その水が何かとぶつかり、耳をつんざく爆発音が反響している。
まるで熱しすぎたフライパンに水をかけ、その水が瞬時に蒸発する破裂音だ。その数十倍も大きな音だ。
それがずっと鳴り響いている。
間違いない……ドラゴンのブレスと撃ち合っている!
しかもどうやら押し負けていない!
ほんの数メートル先の水壁が白く泡立って見える。接触面の水が蒸発しているのか……。
ものすごい水量と熱量のせめぎ合いで、巨大な水蒸気雲が立ち昇る。
ブレスに押し負ければ焼かれて死ぬ。イチかバチかの賭けだ――
動体視力の十秒が切れた。
光景が通常の速度になり、放水が通常速度に見える。
「ん゛ん゛ん゛ん゛!!」
ぶつかり合う轟音に圧倒され、恐怖で呻き声が漏れる。
突然、爆発音が止んだ。
先に見えていた泡立つ気泡が消え、水が勢いよくドラゴンへ放たれる。
ブレスが止んだのか!?
《停止》
放水を停止すると同時に、ドラゴンはその場に落ちるように着地した。
ズドォォンという轟音とともに地面が揺れ、周辺の建物の一部が崩れる。
目の前に水に濡れたドラゴン……その体表面から湯気が立ち昇っている。
上空には入道雲のような濛々たる水蒸気雲が高く伸びている。
いいいいよっしゃあああああああああ!!
心の中で大声で叫んだ。
ドラゴンのブレスを防いだのだ!
辺り一面はものすごい温度なのだろう。サウナにいるような熱と湿度に包まれている。
俺の心臓は早鐘を打ち、身体が震えている。
ものすごく長く感じられた撃ち合い。だが実際は数秒……おそらく五~六秒ではなかろうか。
すぐに我に返る。
後ろ手に支えているティナメリルさんと、後ろに横たわらせた女性職員を両脇に抱えて立ち上がった。
冷たい風が東門から吹き、ドラゴンがはっきりと姿を現した。
すぐに逃げなければ!
奴はたしか、南門ではブレスのあと暴れまわっていた――
が……おかしい。なぜだか微動だにせず、こちらを見ている。
目を見開いてはいるが、まるで鳩が豆鉄砲を食ったように身じろぎ一つしない。
よくわからないが、この機を逃すわけにはいかない。
俺は後ずさりすると、二人を《剛力》でしっかり抱え、《俊足》で東門まで全力で逃げた。
街の外へ出ると、だいぶ先のほうで人々が森に逃げ込んでいた。
手前に衛兵たちが見え、その中につるっぱげの頭の衛兵が見えた――ガットミル隊長だ。
彼らは一様に、空高く立ち昇る水蒸気雲に目を奪われ、呆然と見上げていた。
「が、ガットミル隊長!」
俺の声に隊長はハッと振り向く。
「お、お前は!」
「ふ、二人を……」
「一体何があった! あれは何だ!?」
彼の質問には答えず、女性職員とティナメリルさんを預ける。
が、二人同時に渡したせいで、隊長がバランスを崩してティナメリルさんを落としかけた。
慌ててしゃがんで抱きかかえる。
「……みず……き」
そのときティナメリルさんが意識を取り戻し、か細い声で俺の名を呼んだ。
「ティナメリルさん!」
髪は乱れ、土埃に汚れた顔に苦悶の表情を浮かべている。
俺は、彼女の意識が戻ったことにホッとしたのか、思わず目に涙が滲んだ。
「大丈夫ですか?」
状況が掴めてないようで、返事も相槌もない。
うっすら目を開けた彼女に満面の笑みを見せる。《完全回復》の魔法で完治しているはず……大丈夫だ。
……さてと――
しゃがんだまま、風に流されていく水蒸気雲に目をやる。
このままではドラゴンがこちらにくる可能性が高い。何とかしてこちらから注意をそらす必要があるな……。
ウエストポーチを外して彼女に預ける。
「ちょっとアレ……何とかしてきます」
彼女の左手にウエストポーチに乗せ、右手をその上に被せる。
俺は彼女を見つめ、その手をしばらくギュッと掴んだ。
ガットミル隊長は驚いた表情で俺に尋ねた。
「何とかするってお前……」
「いやぁ、あれこっからどけないとここヤバいでしょ。奴はブチ切れて絶対ここ焼き払いますよ!」
隊長は状況もわからず、二の句が継げなかった。
「ティナメリルさんをお願いします」
隊長が彼女を支えると、名残惜しそうに手を放して立ち上がる。
どうやらドラゴンはまだあそこにいる様子。
何ができるかわからないが、とにかくこちらに来させない手立てを講じなければ……。
そう思い、東門へ向かった。