117話 瑞樹の失言
ハンドクリームの試作はうまくいったようだ。
次は製品化の相談をお願いすべく、マグネル商会に手紙を書く。
『新商品を作ったので、お時間できたらお越しください。女性職員には好評でした』
昼前に冒険者に届けてもらった。
したらなんと、夕方前に会長と秘書のカルミス両名が揃ってやってきた。
「あれ? 早いですね……今、大変なのでは?」
「ちょうど瑞樹に聞きたい話を耳にしたのでな」
「聞きたい話?」
カルミスさんが口を開く。
「瑞樹さん『避難訓練』って何ですか?」
「あー……」
なぜその話が漏れているのか……ってそういや冒険者もいたな。思わず眉をひそめる。
「冒険者から聞いたんですか?」
「又聞きだがな。他国の人で『逃げ方がどうとか』言っていたと……それで君だろうと」
「そうですか……」
目頭をつまんで目を閉じる。変な方向に話が広がっちゃってるな。参ったな……。
「ためになると思うぞ」
「いや……話広げすぎですって! 結局何もできませんし……」
主任が妙に自信満々なのが気にかかる。『備えあれば患いなし』の備えを何もしてない状況なんですがね。
それでも二人は聞きたいという。
「じゃあまあ、その話を先にしましょうか……」
気乗りしない表情を隠しつつ、談話室へ案内する。
十数分後、話が終わると二人は神妙な顔つきで考え込んでしまう。
「つまり、従業員をどう逃がすのかを考えるのと、その練習をしときなさいってことですか?」
「そうです」
カルミスさんの質問に俺は頷く。
本来は余裕あるときにやっておくことなので、今のマグネル商会では無理だろう。何せ洗髪料の販売で絶好調だ。
すでにドラゴンの襲撃の話は、布告の効果で誰も言わなくなっている。話を撒いた冒険者もとっくに忘れていることだろう。
「なのでさっき言った装備品を用意しとく。会社に街の地図でも貼って、何かあったら逃げる道を線でも引いて表示しとけばいいんじゃないですか?」
カルミスさんは会長に目を向ける。ファーモス会長は腕を組んで黙っていた。
「ね、全然面白くない話でしょ?」
手を組んで背もたれに身体を預ける。
「うちで話したときも言ったんですよ……『つまんないでしょ?』って」
「でも君はそれ大事だと思っているんだろ?」
「ええ。ですがいまさらですね。私は経験上、心構えができているって話が変に広がっちゃっただけです」
当の日本人だって避難訓練する人がどの程度いるだろうか。
子供の頃に学校でしたのが最後……って人ばかりのはずだ。アホらしくてやってられないと思う。俺も大学での避難訓練は参加しなかった。
しかし避難訓練は、一度でもやっている人とやっていない人では全然違う。避難訓練、消火訓練、救急訓練どれもそうだ。
消火器やAEDも、一度でも触っていれば意外と使えるもの。訓練が大事ってのは間違っていない。
「ドラゴンの襲撃はデマってことで片付いちゃってますしね。私は笑っちゃいましたけど……」
「なぜだ?」
「嘘ですし!」
「!?」
二人は目を見開いて絶句する。
「えっ、あの発表信じてます?」
「いや……」
顔を見合わせて考えている。
ああ、そういうことではないな。信じても信じなくても、ドラゴンの襲撃なんてどうしようもないことだ。
仕事で忙しいのだから構ってられない話だよな。商売人なら当たり前のことか。
俺は席を立って扉から主任に尋ねた。
「主任、ルーミルさんから聞いた話って出していいんですかね?」
「ギルド長はアーレンシアに伝えたようですが、どう扱われたかは知りません」
「ファーモス会長は知らないみたいですよ」
主任は唇だけで笑う。
「帝国の布告でやめたんだと思います。情報元の信憑性も疑わしいですし」
「猫人からってとこですか……」
ゆっくり顎を引いた。
たしかに。証拠なんか何一つないもんな。
「なるほど……」
ソファーに戻ると、会長が「なんだ!?」と険しい表情で俺に迫る。
さすがに「何でもない」は通用しないな……。
ここだけの話……と断って、ルーミルから聞いた『魔族領の都市がドラゴンに襲われた』という話をする。
二人はみるみる血の気が失せて真っ青になった。
「本当に二ヶ月後に襲撃があるのか?」
「どこかは襲われると思ってます。だからといって何もできませんけどね。来たら逃げるしかないですし……」
「それで『避難訓練』の話なのか」
「いや、それはもう……」
軽く笑いながら手を振るが、会長はこの話をどう処理していいか混乱している。
「とにかくドラゴンの話はどうにもならないことですんで、お気になさらないほうが……」
変な空気になってしまった。ハンドクリームの生産の話は止めとこう。
「今回は商品を渡すだけにしときましょう」
そう言って壺を取り出し手渡す。
「これは?」
「『ハンドクリーム』というものです」
簡単に商品と使い方を説明し、一週間ぐらいで効果が出るのでそれから判断してもらってもいいと告げた。
「カルミスさんはここに使うのも効果的ですよ」
唇を指さして塗る仕草をする。
「わかりました。試してみます」
忙しいだろうに、肝心の話ができずに申し訳なかったな。
「落ち着いたらまた景気のいい話を聞かせてください。避難訓練の話は気にされませんように」
「わかった」
「『ハンドクリーム』ありがとうございます」
ファーモス会長とカルミスさんをお見送りして席に戻る。
主任が俺の横に立つ。二人の反応がどうだったか気になっている。
「期待していた話じゃなくてがっかりしたんじゃないですかね。儲け話でもないですし」
「でも聞けてよかったんじゃないですか?」
「いやホント……話を聞いただけじゃ意味ないことなんで、あまり期待しちゃダメですよ」
「そうなんですか?」
「……ていうか主任、実のところ『逃げる訓練』って言われても、わかってなくないです?」
主任は口ごもる。他のみんなも顔を上げて俺の声に反応した。
「こういうことは被害に遭って初めて理解するんですよ。うちの国は災害で人死にまくって、その積み重ねで生まれた考えなんですよ。人から聞いたから『ハイじゃあ今日からやります』ってのは絶対無理です」
溜まっている書類に手をかけながら、つい軽口を叩く。
「まあとにかく、何かあったら全力で逃げるってことでいいんじゃないですか? ティアラが潰れても生き残ってりゃまた再建できるし……」
「……潰れる?」
俺が淡々と話をする。
「え? だって壊滅させられるってなったら逃げません?」
主任の顔を見上げると、ずいぶんな言い草だなと、悲し気な表情を見せている。
ハッとして皆を見ると、完全にドン引きしていた……。
あ、ここが潰されるなんて言ってしまった! 思いっきり地雷を踏んだ。
「……すみません失言でした。いらん話をしました……申し訳ありません」
深々と頭を下げて謝った。
そりゃそうだ。ドラゴンに襲撃されると決まったわけじゃないしな。
街が襲われる……はともかく、ここが潰されると発言したのはマズかった。みんなここの人間だもんな。
住んでいるみんなの感情を軽視してしまった。そりゃあムッとするわな……。
よくよく考えたら俺はこの国の人間じゃないので街に愛着がない。
自分は魔法で治癒できるし、身体強化で脱出もできるだろう。襲撃に危機感がないのはそのせいもある。
日本でも地震や津波で更地にされた映像を何度も見た。
それは仕方がないんだから再建するしかないだろ……外から見ている人間の考え。
しかし住んでいる人たちからすれば、日常がなくなってしまう悲しみのほうが大きい。その配慮が欠けた発言だ。
あー完全にやらかした……。