106話 お風呂と洗髪料の後日談
早朝午前6時、まだ辺りは暗い。
そんな朝早くに、顔まで防寒着で覆った重装備の女性職員が、ティアラ冒険者ギルドに出社する。
彼女はそのままギルド裏にある風呂場へ向かう。
手慣れた様子で風呂釜に火をつけると、椅子に腰かけ、しばらくその火を眺めながら暖を取る。
頃合いを見て中へ入ると、湯船から湯気が立ち上っている。
指でチョンチョンと湯船をつつく。お湯が入れないほど熱い。
よしよしと頷くと、湯かき棒を手に取り、下の水を上へ持ち上げるように数回しっかり掻きまわす。
すると一気に水温が下がる。
風呂に手をつけ、徐々にお湯になっていくのを感じると自然と笑みが浮かぶ。
そろそろ……という段になって風呂釜の火を緩め、扉に『女性入浴中』の札を掛けて脱衣所へ向かう。
急いで服を脱ぎ浴室へ。
手桶でお湯を掬って肩に一掛け、そしてゆっくりと湯船に体を浸めていく。
凍てついた肌から体内に熱が伝わり、得も言われぬ快感に息をゆっくり吐く。
全身にピリピリと伝わる刺激が堪らなく心地よい。
そして棚に置いてある『乾燥生姜の小袋』を取って湯船につけて軽く揉む。
生姜特有の香りが浴室に広がり大きく深呼吸。鼻下まで顔を湯につけ、静かに時を過ごす。
満足いくほど体が温まったら一度湯から上がる。
水桶から冷水を掬い、湯をそれに少し足してから、気合を入れて体にかける。
目が覚める冷たさに肌が引き締まる。
だが体が温まっていると不思議と気持ちいい。そしてまた湯船に浸かると温かさに顔が緩む。
まさに至福の時間……。
そして外も明るくなり、人の声が聞こえだす。
しばらく喧騒に耳を傾け、閉じていた目を開けると湯船から上がる。
体を丁寧に拭き、服を着て退出する。
ドアの札を外して風呂釜の消火を確認、ポカポカに温まった体で職場へ向かった。
ティアラに『風呂場』を設置して10日経過した。
「ラーナさん、あれから10日連続ですよ!」
ご満悦の表情のラーナさんに、リリーさんが目を丸くする。
ギルドにお風呂を設置してからというもの、毎日朝一で入り続けているという。
キャロルも驚きの表情を見せ、男性陣は吹き出すのを堪えている。
俺もさすがに呆れるほかない。
「まさか1日2回も入るとは思ってませんでしたよ!」
「だって気持ちいいんですもの」
ラーナさんのお風呂好きは筋金入りだな。
彼女は朝一で入ったあと、昼休憩でもう一度風呂に入っている。
「まあせっかく設置した風呂ですし、有効活用していただければ幸いです」
そこまで気に入ってくれると設置した甲斐があるというものだ。
おかげで俺も入れる環境を手に入れられたわけで、そのことにとても感謝していた。
今では職員の大半がお風呂を利用している――
風呂場が完成したその日、ラーナさんとキャロルが風呂に入ると言い出して焦った。
ちゃんと確認も済ませてないので、何か不具合があったら困るなと……。
まあでも2人は風呂を知っているし、使用感を聞くのにはもってこいか……と了承する。
俺も釜焚きからの手順を押さえときたかったし。
日も暮れるので大半の職員は帰宅し始め、関係者たちも解散した。
そして浴室に入り、魔法でサッと水を溜める。
お風呂の利用は2人かなと思いきや、興味を示した女性職員が数名付き合うという。もちろんリリーさんも誘われた。
入浴後、いろいろと感想を聞く。
ものすごくよかったと太鼓判をいただいた……一安心である。
初めて体験した職員はポカーンと夢心地だったという。
そして入浴後はみんなギルドにお泊りしたそうだ。女子会というやつだな。
数日後、他部門の女性職員に風呂の話が伝わると、交代で休み時間に入りだす。
大いに結構なことだが、俺が水の継ぎ足しに頻繁に行く羽目になるかな……と危惧した。
が、意外とそうでもなかった。
風呂がこういうものだとわかると、利用に際しての水桶への継ぎ足しや釜の薪足し作業はスムーズに行われている。
何というか、生活の動線が1本増えただけみたいな感じ。この手の作業は日常の出来事なのだろう。
職員は誰となく水を汲むし、釜の火を気にかける。
俺はみんなの行動に感心しきり。
蛇口を捻ればお湯が出てくる生活しか知らない俺には難しかったからだ。
そして晩にギルド長が様子を見にきたので体験してもらう。
この施設を1日で作り上げたことに感心しつつ、風呂のよさにお墨付きをいただいた。
そして1週間が経過。
女性職員はほぼ全員、男性職員も半数は風呂を利用するようになった。
ところがその結果、男女の入浴時間で揉める。
主任と相談して『午前から昼休憩までは女性、それ以降は男性』という案で落ち着く。
元々休み時間は適宜好きな時間に取っていい職場なので、特に異論も出なかった。
女性は日が暮れる前に帰したいし。
かくしてティアラにお風呂という『福利厚生』が導入されたのだ。
ラーナさんは自分の髪を撫で、マジマジと髪の毛に目をやる。
「にしてもあれ……すごいことになっちゃってますね、洗髪料」
「それはこの2週間、お嬢様方が一番わかってるんじゃないですか?」
俺が斜に構えた物言いをすると、彼女たちはお互い見合わせて苦笑する。
「そうね」「ですね~」「まあ……ね」
さすがにうんざりといった様子。
異変は女性職員に洗髪料を配った翌日から始まった。
ティアラの女性たちの髪が、見たことない美しさだとの噂が瞬く間にフランタ市を駆け巡る。
受付の彼女たちは当初、事あるごとに羨ましがられて気分よかったが、それが毎日質問攻めとなるとさすがに辟易だ。
用もないのに彼女らを見に来る男性客はあとを絶たず、さらに大変だったのが女性客。
何をどうしたらそうなったのか……その情報を聞き出しに多くの女性がティアラに来店、業務に支障が出そうな勢いだった。
そして他の女性職員も同様な目に遭う。家族や知人からしつこく聞かれまくったそう。
で、先に釘を刺しておいた設定――ティアラの職員は『マグネル商会が近く発売する洗髪料』を先に試したのだと広めた。
そして『風呂場』が完成した翌日、マグネル商会で洗髪料の販売を開始。
店頭で従業員が洗髪のデモンストレーションを実施。すると瞬く間に完売してしまった。
その日からねずみ算の如く希望者が殺到し即日完売御礼。生産が全く追いつかない供給不足に陥る。
だが幸いカルミスは多めに材料を発注していた……さすができる秘書である。
おかげで生産は継続できており、在庫切れを回避しつつ総力を挙げて頑張っている。
ところがこの洗髪料が富裕層の目に留まり、金に糸目をつけない争奪戦が勃発する。
マグネル商会へ馬車が次々にやってきた。そして「ぜひ優先してくれ!」と陳情がひっきりなし。
おかげで一般市民に販売する分がなくなり、店頭で騒ぎになった。
数日後、料理人が『メレンゲクッキー』の作り方を再度教えてほしいとティアラに来店する。
卵白が廃棄するほど余りだしたらしい。さすがに素材は切り替えたほうがいいかな。
後日カルミスさんに、素材の変更や販売方法についてアドバイスする。
卵をオリーブオイルに変更するとか、おしゃれな瓶の開発などのアイデアだ。
そして現在、一般向けと富裕層向けの差別化、生産拡充の交渉、販売網の構築などで大忙しだそうだ。
まあ景気がいいのはいいことだ。
◆ ◆ ◆
マルゼン王国の王都に本店を構える大手雑貨チェーン店『キール・キール商会』――日本でいうホームセンターである。
そのフランタ支店の会議室で、支店長以下主だった主任を集めて会議が行われていた。
テーブルの上には最近マグネル商会が販売を始めた『シャンプー』『リンス』『トリートメント』の洗髪料、それと『メレンゲクッキー』という食べ物が置かれている。
まず販売部主任が説明する。
「これがマグネルが売り出した……髪を洗うための液体だそうで、洗髪料と呼ばれています」
「それは?」
支店長が皿の食べ物を指さす。
「はい、最近売り出された固形食のようで、こちらも人気のようです」
「ふぅん」
そう言って口にすると「……甘いな」と呟いた。
なお、当店で洗髪料を扱わないのかとの問い合わせがある……と報告する。
すると支店長が営業部主任に目をやる。
「――マグネルでも即日完売の様子ですから卸してもらえるかどうか……」
「これ中身なんなの?」
支店長の問いに資材部主任は冷や汗をぬぐう。中身の正体がわからないからだ。
「『シャンプー』は乾燥前の石鹸のようですが、これだけでも髪が綺麗になると宣伝しています。『リンス』は甘い果物の香りがしますが舐めると苦い液体です。『トリートメント』はその……ぬるっとした油のような液体で、スッと鼻通りのいい香り、舐めるとこちらも苦い液体です」
その説明に支店長は不満な顔を見せ、調達部主任に目をやる。
「調べたところ、マグネルの生産拠点に石鹸と薬草の搬入は見られました。それと油……精油も持ち込まれています。食料品店のほうも納入が増えているようで、卵やハチミツが目立ちました」
各主任からの報告のあと、しばらく意見が交わされ、そして支店長が判断を下す。
営業部には卸してもらえるかの商談、調達部は引き続きマグネル商会の偵察。
洗髪料は本店で素材を調べてもらい、結果を待って開発を検討するということで会議は終了した。
支店長は退席間際、メレンゲクッキーをもう一つ口にする。
その味から卵とハチミツだというのはわかる。優しい味わいが少し気に入った様子。
そしてうちでも試作してみるように指示を出す……が、結局作れずに頓挫した。
マグネル商会の洗髪料が飛ぶように売れている。
だがキール・キール商会の反応が鈍かった。なぜなら幹部連中に女性が1人もいなかったからである。
男性は、女性の髪が美しくなっても「綺麗になったね」の一言で済ませてしまう程度だったので、女性の洗髪料に執着する本気度が理解できなかった。
実は女性従業員の中でもかなり評判になっている。
ところが各部の主任は、むしろ彼女たちの無駄話で仕事に支障をきたしていたことを問題にした。
この対応の遅さにマグネル商会は助けられる形になり、洗髪料の評判はうなぎ登りに上昇する。
そして気づけば『洗髪料はマグネル』というブランド力を確保するに至った。