暴行事件編(1)
翌朝、窓の外はよく晴れていた。朝の光が窓から降り注ぐ。
「起きろー!」
さっそく石子に叩き起こされた。時計を見ると、まだ6時半だった。こんな時間に起きた事はない。
「えー、おばあちゃん。まだ六時だよぉ」
理世はベッドの上で目をこすりながら、ぼやく。
「まだじゃないわ。もう六時半よ。というかグランマとお呼び!」
石子はすっかり身支度を整え、メイクもヘアセットも完璧だった。今日は昨日と違って紫のシャツに紺色のパンツ姿だった。姿勢もシャキッと伸び、見るからに元気そうだ。とても70過ぎのおばあさんには見えない。顔は皺だらけで、髪の毛だって白髪が浮いているが、10歳ぐらいは若く見える。ただ、相変わらずタバコ臭く、その匂いの不快さのお陰でだんだんと目が覚めてきた。
「おきた?」
「うん、うん。グランマがタバコ臭いから」
「いいじゃない。だから、不快なものも必要よね」
「どういう理屈?」
「さあ、さっさと顔洗って掃除よ。それから朝ごはんを食べましょう。今日はピザトーストよ。子供はみんなピザ好きよね?」
石子はここでわざとらしくウィンクした。思わずツッコミを入れたくなったが、ピザトーストとは甘美な響きだ。確かにこれを嫌う人は少ないだろう。理世が、ピザトーストにつられ、さっさと身支度を整えた。寝癖がひどくてまとまらないというと、石子が何かスプレーを持って洗面所にたってきた。
「理世、グランマ特製の寝癖直しを使いましょう」
「えー? 何これ?」
スプレーは、どうみても市販のものではなく、百円均一で売られているような詰め替え用のボトルに入っていた。
「にがり、精製水、アロマオイル、それに天然塩とハーブを調合したグランマ特製の寝癖直しよ」
「えー、そんなものでいいの?」
洗面所の鏡には、ボサボサの黒髪の理世が写っていた。肩までのびた髪の毛は、あちこちに散らばっている。
「いいからやってみましょう」
石子は理世の頭にスプレーを吹きかけ、て早く櫛を通した。ほんのりとハーブかアロマのいい匂いもした。
「あれ、びっくり。寝癖すぐに治った!」
「でしょう」
「手品みたい」
「まあ、このブレンドの比率やグランマ特製だから、人には教えないわよ」
「えー、知りたい!」
どうやってこのスプレーを作ったか気になったが、石子は教えてくれる様子はない。
「まあ、今日は教会に行くから編み込んでみる?」
「いいの?」
「その代わり、教会ではしっかりシャキシャキ挨拶するのよ。とにかく笑顔よ」
「わ、わかったよ……」
石子と約束し、髪の毛を編み込んで可愛くしてもらった。
「可愛い! グランマって何でもできるの?」
そう思うほど、洗面所の鏡の中にいる理世は可愛い髪型になっていた。
「できるわ。私は、家事全般、野菜仕事、手芸なんでも出来るわ。暗記力だって高いのよ。昨日の探偵ドラマのセリフだってちゃんと言えるんだからね」
そう言って石子は胸をはり、台詞をペラペラと暗唱した。確かにこれは、ボケる可能性は全くなさそうに感じた。
こうして身支度を整えた理世は、玄関や門の前を掃除する事になった。
やっぱり髪の毛を可愛くしてもらったので、ちょっと気分もいい。
「あれ? なんで玄関の前に卵があるの?」
玄関の前には、カゴに入った卵が7つほど入っていた。確かに今は春だが、イースターエッグだろうか? カゴに入った卵はちょっと可愛らしく見えてしまったが。
そこに石子がやってきた。
「これはご近所の立花さんからよ。あそこの家は鶏飼っててね、たまにこうしてお裾分けくれるのよね。よし、今日のピザトーストは卵トッピングしちゃおう」
「何もこんなそっと置いていく必要ある?」
「立花さんはちょっと変わってるのよ。向こうは60過ぎの奥さんだけど」
あの石子が変わっているという人とは。どんな人だろう。理世はちょっと怖くなってくる。
「鶏の声がうるさいってご近所の坂下さんとかが文句つけるからね。こうしてそっと卵を置いてる面もあるだろうね」
「卵食べられるんだったら、鶏の鳴き声ぐらいは我慢するよ」
「そうよねぇ。立花さんの卵は本当に美味しいのよ」
石子が愛おしそうに籠の中見をみていた。確かにスーパーに売っている卵と比べてサイズも大きく、生命力も感じる。
「さっそく美味しい卵料理作らないと」
石子はご機嫌になり、家の台所の方に行ってしまった。
家の前にカゴに入った卵が置いてあるなんて。都会では考えられないが、石子の様子を見る限り、田舎では普通の事のようだ。
理世は家の前を箒ではきながら考える。
ただ、石子の話によれば騒音についてはお互い気を使いながら生活しているようだった。昨日に鬼頭さんも騒音で文句をつけに来たのだ。
そういえば昨日、牧師と石子は騒音問題の噂をしていたような。
こんな風に美味しいそうな卵が入手できるのは良いが、騒音についてお互い気を使うのは、少し窮屈爽だった。少なくとも理世が住んでいた都会では、こんな事はなかった。
家やマンションも防音されていたし、感染症対策で話す事はあまり推奨されていなかった面もある。
そう考えると田舎暮らしも決して天国ではないようだった。
「やっぱりムーミン谷なんてこの世に無いのかも」
ムーミン谷だけでなく、自然豊なジブリの世界も、昭和のサザエさんやちびまる子ちゃん一家も、賑やかなクレヨンしんちゃん一家もない。ましてドラえもんのようなヒーローも目の前に現れない。
そう思うと、どこに逃げても現実はあるような気がした。今はいじめから逃げている自分は、いつかツケを払わされるような気もしていた。
こんな風にマイナス思考に陥りかけた時だった。
「石子さーん! いますか!? 助けてくださいよ!」
二十五歳ぐらいの若い男性が、石子の家に駆け込むようにやってきた。
「うん? 君、だれ?」
若い男は理世に気付くと、首を傾げていた。
「わ、わたしは」
突然の事で挙動不審になっていた。緘黙症の症状が再び現れる。やっぱり、どこに行っても現実が付きまとうようだった。