嘘の絵の具
顔料というのは、不思議だ。作ろうとしても、同じ色を生み出すことは凡そに難しい。
その点でデジタルは凄く便利だ。同じ色を必ず生み出せてしまう。二百五十六の色を組み合わせるだけだ。
だけど、それは私の好みじゃない。それだと嘘という絵の具は作れないから。
真夏の日差しが、陽も落ちて夕日に変わろうとしている。
空色のシャツにはただ、汗と絵の具の飛び散ったのが、斑模様を作っている。
暑い。暑いけれど、必死にキャンパスに向かう。
目を焼く夕日を、脳裏に焼き付けて、それを、その色をキャンパスに叩きつけていく。
風の音、草木の香り。あの日のキヲクを必死に手繰り寄せる。
風が稲穂を揺らして駆け抜ける。あの音をキャンパスに叩きつける。
色は黄緑。弾けて飛んだ絵の具が、頬を汚す。それを汗に濡れた腕で拭い取る。
鼻を抜ける、生草を揉み込んで擦りつけたような臭い。あの臭いをキャンパスに叩きつける。
色は深緑。弾けて飛んだ絵の具が、髪を汚す。それを無視して、筆を握る。
赤い夕日の色をその上に叩きつける。
影を、闇を、心の奥に深く沈んだそれをキャンパスに叩きつける。
ただ、一つだけ嘘の絵の具を混ぜる。そこに佇む私の姿だ。
笑顔にするぐらいは、夢を見たい。
夢でぐらい、笑顔でいたい。涙を流したあの夕暮れを思い出して、嘘を描きたい。
私を泣かせたあのキヲクの向こうの、あの男にバレるわけではないのだから。
けれど。そうして描き上げたキャンパスは、どうしても満足の行くものにならなかった。
夕日はとうに沈んでいた。
水を飲む。水を飲み干し、汗を拭う。汗を拭って、風呂を沸かす。
もう何日、まともにご飯を食べていないだろう。毎日、毎日、キャンパスに向かっている。
夕日までに構図を立てて、下絵を施し、下塗りを施し、そして夕日を待つ。
夕日を見つめては色を叩きつける。あの日の光景と一つの嘘を見たいから、只管に。
一畳に満たない狭い風呂に、絵の具の飛び散った痕の残る肢体を浮かべる。
あと三日もすれば、キヲクも色あせていくだろう。それまでに描き上げる事ができるだろうか。
汗に濡れ夜風に冷える身体を、温い湯船に沈める。
あの日、どんな結末だったら私は満足を得ていたのだろう。
それがわからないから嘘を描く。嘘の絵の具で嘘を描く。デジタルでは、それが出来ない。
満足が行かないのはアナログも一緒だ。顔料をどれだけ塗り重ねても、あの絵は完成しない。
そんな事はきっと、とうの昔に解っている。けれど、あと三日。
あのキヲクが消えていってセピア色にされてしまう前に、あと三日だけ挑むと決めていた。
髪に飛び散った絵の具を、湯に浸して剥ぎ落とす。
絵ができあがったら肉を食べよう。魚を焼こう。野菜を頬張ろう。
キノコを貪って、美味しいお茶を飲んで、それで目一杯、泣こう。そう決めていた。
だからせめて、絵の中ぐらいは、あの思い出のその先の世界を、見てみたい。
三日後、消えていくキヲクのセピア色を感じながら、陽の落ちた部屋で、一人で泣いた。
足りなかったのは、私の笑顔じゃなかった。それにどうしようもなく気づいてしまったからだ。
私を振った、あの男の憎たらしい笑顔。消えていくキヲクの中で最期まで残ったのはそれだった。
だから、あの場で、泣きながら別れを告げたあの男の顔を、笑顔にしてやった。
嘘の絵の具で、下絵のワタシの笑顔を塗りつぶし、アイツの笑顔を叩きつける。
そうして絵が出来上がった時、私はどうしようもなく笑っていた。
涙を流しながら、自分でも判らず笑っていた。キャンパスに、どうしようもない満足感を感じていた。
そこで、自分がどうしようもなく、彼が好きだったことを思い出す。
もっと彼の笑顔を見続けていたかった事を思い出す。
自分の何が悪くて、アイツが去っていったのかを、泣きながら考える。
涙が、自分という絵の具を別の色に変えていくのを感じる。
電話が鳴った。不意に脳裏に浮かんでいたのはアイツの顔だった。
電話に出る気分にはなれなかった。どれくらいの時間がたったか、その呼び鈴も止まる。
月明かりの向こうで、キャンパスの中の彼が笑っている。その絵を見て、再び涙がこみ上げる。
どうしようもないくらい、満足感のある絵が完成してしまったのだ。この続きはもう要らない。
どうしようもなく喉が渇き、どうしようもなく腹が減って、どうしようもなく、私は立ち上がる。
そうして、絵の具に汚れたシャツのまま、軽く上着だけ羽織って、財布を手に取る。
ファミレスに行って、飯を食おう。そう、気持ちを切り替えて。
ウメコのテンプル 並行世界の風水導師「ふた昔前の失恋歌」
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「嘘の絵の具」という詩が、この話の中で登場します。
その詩の登場人物が、この物語の主人公です。
挿入歌の、そのまた向こう側の世界という所でしょうか。
この前にも、この後にも、お話はないのです。
ただ、それを想像するのは自由です。
嘘の絵の具であったとしても、彼女を笑顔にするのは、読者の夢の中の自由です。
彼女が、自分に対してそうした様に。