トイレの個室で書く遺書
私は生きてトイレから出る事はできない事を察した。
妻と娘を守る為にその怪物を惹きつけ走っていたが体力の限界を迎えここに逃げこんだからである。
携帯の電波が届かない自然公園の奥深く。
妻と娘が救助を呼べたとしても間に合わないだろう。
◆
今日は家族揃って大自然を楽しんでいた。
勿論幼稚園児となった娘を連れて行く事ができる安全な自然公園である。
少なくとも我々が遭遇してしまった怪物の情報など何処を探しても見つかることはなかっただろう。
自然公園で朝から娘は色々な草木や虫を手掴みし私達にこれはなに? と繰り返していた。
都会で暮らす娘に田舎育ちの妻と一緒に自然という物を教える。
昼食を摂った後に少し森に入る事を決めた。
この事が私達の運命を悲劇へと傾けていった。
森に入ってもこれはなに? を繰り返す娘と楽しんでいたのだが目の前に怪物が現れた。
音を立てずにやり過ごそうと娘の口を塞ごうとしたのだが少し遅れてしまった。
あれはなに? という娘の声に怪物は反応した。
娘の口を塞ぐが現状を正しく理解していない為に娘は暴れて振り払おうとしていた。
その姿に興奮したのだろう。
怪物は私達に向けて牙を剥き出しにして威嚇をしてきたのだ。
◆
激しく硝子が割れる音が響き私は現実に引き戻される。
恐らく怪物が何かの拍子に洗面台の鏡を割った音だろう。
怪物が驚き私の心臓を押し潰す様な威嚇の咆哮を上げる。
トイレの個室の扉などこの怪物の凄まじい力の前では無力である事は知識を持たない私でさえ容易に想像できる。
私は生きることを諦め携帯に遺書を書き始める。
恐怖で身体が硬直し上手く文章が打てない。
妻と娘との幸せな出来事を思い出しながら恐怖と闘い私がこの先渡せない愛を伝える為に必死に指を動かす。
妻には苦労を掛ける事になってしまった。
一生幸せにするからと誓った筈なのに……
溢れる涙を拭いながらごめんと何度も何度も繰り返す。
幼稚園児となった娘の成長をこの目で見れない事に気が付くと涙が溢れて画面を上手く見る事が出来ない。
変換ミスを直す事無く時間が許す限りの遺書を書く。
怪物が私のいる個室を突き止めた様だ。
扉を激しく叩く衝撃が私の恐怖を煽る。
怪物に見つかり壊されぬよう携帯を見つからないでくれと強く願いながら便器の裏に隠す。
金具が壊れて扉に隙間ができる。
丁度怪物の指が入る隙間だ。
怪物が動きを止め息が詰まる静寂が続く。
怪物の指がゆっくりと隙間に差し込まれる。
恐怖ですくみ上がり動く事ができない。
勢いよく扉が破られ怪物と目が合う。
牙を剥き出しにして今にも喰い殺そうとする禍々しい表情をしている。
目の前に現れたのは黒い体毛で覆われ筋肉質であり人間が持つ性能を遥かに越える生物。
熊である。
私の生命もここまでの様だ。
恐怖と戦いながら最後の時を待つ。
「ごめんね。愛しているよ」
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