05 手探りの会話
「あ、えと、車の件、本当にいいの? 私の実家ちょっと奥まったところだし、運転大変かもしれないから、やっぱり私も家に連絡して迎えに来てもら……」
「大丈夫ですよ。さっき父にはメールでその事情も伊藤先輩のご実家のナビ情報も一緒に連絡してあって、すでに了承をもらっているので、安心してください」
周到過ぎる吉沢くんの手際に、彼の厚意を遠慮する隙がまったく見つからず、とうとう折れることになった。
「あ、ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えて、お世話になります……」
「はい。無事に送りますので、安心してください」
思わぬなりゆきに心臓は落ち着かないまま、しきりに前髪をイジりながら、必死に次の言葉を探す。
相手に何をどこまで聞いていいのか慎重に話題を選ぶのは、聞き返された時に自分が答えに困る質問を避けるためでもあり、沈黙が怖いのも同じ理由だった。
「えと……吉沢くんだよね?」
「ハハハ、何ですか。自分ではよく分かりませんが、僕そんなに変わりましたか?」
――恥ずかしすぎる……。
ぐるぐる思い悩み過ぎて、つい間抜けな質問をしてしまった。
「いや、何か、2コ下なのに、悠希くんの方が、ずっと大人に見えるっていうか……」
そこまで言いかけてハッとすると、サーッと頭から血の気が引いてしまった。
焦ってしゃべったせいか、思わずあの頃みたく下の名前で呼んでしまったことに、心の中で激しくうろたえる。
別に、そのくらいのことでと思われるかもしれないけれど、今さら私なんかが馴れ馴れしく呼ぶ資格なんてないような気がしてたまらなかった。
「伊藤先輩は、あまり変わっていないかもしれませんね」
「そ、そうかな……ハハ」
幸い、吉沢くんは特に気にした素振りもなく、わざと冗談っぽくそう返してくれたので、すんなり聞き流してくれたんだろうと密かにホッとした瞬間……。
「後ろ姿で、すぐに朱里さんだと分かりましたよ」
「っ!」
不意打ちで、下の名前で呼ばれて思わず胸がギュッと締めつけられた。
彼は、付き合っていた時も私をそう呼び、決して『先輩』とは呼ばなかった。きっと、私が学年の差を密かに気にしていたのを、察してくれていたのだろう。
そして、さっきまであえて『先輩』と呼んでいたのも、彼なりの気遣いだったんだと思う。だけど、それを今私がうっかり取っ払ってしまったようなものだ。
「いつも、大晦日に帰省していたんですか?」
動揺して黙り込んでしまった隙に、とうとう吉沢くんから質問をされてしまい、思わずビクリと体をすくませてしまった。
「えっ、と……」
「いえ、田舎の小さな町だけど、何となく今日までバッタリ会うこともなかったので、ずっとすれ違ったりとかしていたのかなと思って」
「あ、私、帰省は10年ぶりくらい、だから……。たぶん、それで……」
「そうだったんですか。それは、またずいぶん久しぶりの帰省だったんですね。それじゃあ、今日再会できたことは特別にすごい巡り合わせのような気がしてきて、何だか不思議な縁を感じますね」
「……」
確かに、こんな偶然は奇跡的と言えるかもしれない。
だけど、一度は吉沢くんとの縁を断ち切ろうとした私が、軽々しくそんな事を口にする資格なんてないような気がして、何と言うのが正解なのか答えが見つからない。
「仕事の都合とかですか?」
「う、うん。まあ、そんなところかな……」
「お忙しいんですね。朱里さんは、今どんなお仕事をされているんですか?」
「っ……」
ここまで言葉をにごしてきたけれど、ついに聞かれたくなかった質問のひとつに、思わずグッと言葉に詰まってしまった。
「えっと……、今は印刷会社の制作課ってところで、お店の広告とか、パンフレットとか、名刺とか、スーパーのチラシとかの作成をしてる……」
別に、今の仕事が嫌いなわけじゃない。
それなりに業務もこなせるようになってきたし、ちゃんと働いているんだから何も恥じることはないはずなのに、そんな思いとは裏腹に言葉はどんどん尻すぼみになっていく……。
「すごいですね。僕はそういう分野はからっきしなので。朱里さんとても頑張っているんですね」
吉沢くんの言葉が、胸に重くのしかかる。
「そんなこと、ないよ……」
胸の奥から、ジワジワと言いようのない感情が込み上げてくる。
「実は、さっきは何だか照れくさくて、素直に言えなかったのですが……。本当は、朱里さんもすごく大人っぽくなっていたので、今の話を聞いてきっとそれだけ頑張ってきたんだろうなと、あらためてカッコいいなと思……」
――それ以上、聞きたくないっ……。
吉沢くんの語る私のイメージが、現実の私とはどんどんかけ離れていくのに耐え切れなくなって……。
「そんなんじゃ、ないのっ……!」
思わず声を荒げてしまった。
「あ、朱里さん?」
私の異変に、さすがの吉沢くんも戸惑いを見せる。
けれど、彼の気遣わしげな眼差しすら今は苦しくて、私はそれをさえぎるように両手で顔を覆った。
「私、そんな、ぜんぜん、かっこよくなんか……。がんばって、なんか……ない。がんばれなかったの……。だって、わたし……」
心苦しさに押しつぶされて、もうこれ以上は誤魔化しきれないと観念した私は、絞り出すような声で告げた。
「私、大学を……中退しちゃったの」
自分の挫折を吐き出すと、吉沢くんの反応を見るのが怖くて、たまらず先走って話し出す。
「あれだけ意気込んで、東京の大学にいったのに……。一度、つまづいたくらいで、そのまま逃げるように、辞めちゃって……。もう、ほんと、情けなさすぎて、自分でもあきれる、ハハハ……」
誤魔化すように自嘲気味に笑ってみたけれど、結局こらえ切れなくなって、視界がぐにゃり、とゆがんだ。
大学中退は、何も珍しいことじゃないかもしれない。そこから頑張っている人だってたくさんいる。
でも、私にとってそれは初めての大きな挫折で、打ちのめされたまま心のどこかで逃げてしまったことに対する罪悪感に苛まれていた。
「……ごめん。吉沢くんを傷つけてまで、選んだ道なのに……」
だからこそ、どんなに辛いことがあったとしても、絶対に乗り越えようって、そう心に固く誓ったはずなのに……。
「なのに……こんな、情けなくて……ごめんなさい」
謝罪の言葉とともに、涙がボロボロと零れた。