第8話 突然変異
「あ、暑いよ〜。疲れたよ〜……」
リーネの全身を、滂沱の汗がつたっていた。息を切らし、肉体労働に勤しむ今の姿は、およそダークエルフの可憐な少女が見せるものとしては、前人未到の域に達しているのではなかろうか。
霊水を満杯に注ぎ込んだ木樽を抱え、階段の上り下りを含めた往復10セットは、ひ弱な少女の足腰に大打撃を与えていた。
荷車に木樽を詰め終えると、休む暇すら与えられず、スライム水田への運搬がはじまった。
リーネはアルマと並び立ち、荷車の「口」の字の枠に収まり、必死の形相で荷車を前へ前へと押し進める。
現在地は、スライム水田へと至る林道。
木々に日射しを遮られ、二人の周囲の空気は、後部に積み込まれた霊水から放たれる冷気も相まって、かなり涼しいはずだ。
「ローブが、汗で、びしょびしょだよー……」
リーネは今、ローブとつなぎによる重ね着状態に苦しんでいた。
「だから言ったんだ。ローブは脱がなくていいのかって」
「うう……。返す言葉がない……」
リーネの牧場生活初日の午前は、汗と涙と共に過ぎ去った。
◇ ◇ ◇ ◇
「さて、今日の肉体労働はこんなところだよ。お疲れ様」
「そ、そうなの? やったー……」
リーネは、目の前の光景を、満足げに眺める。
蒸発と浸透によって下がっていたスライム水田の水位は、今にも溢れそうなくらいになっていた。
新鮮な食事を追加され、スライムたちもどこかはしゃぎ回っているように見える。
「ここは涼しくていいね。ずっとここにいたいよ〜」
リーネはしゃがみ込み、午前の疲労を癒す。
遥か頭上を木々に遮られたスライム水田は、昼でもどこか薄暗く、それでも、木々の合間からわずかな光の束が差し込んでいた。
「肉体労働はおしまい。次は、頭脳労働だよ、リーネ」
すっかり休憩モードのリーネに向かって、アルマは淡々と告げた。
リーネは、「彼はいったい何を言ってるんだろう」みたいな顔をする。
「お、お昼ご飯はっ!?」
「なに言ってるんだ、リーネ。朝にしっかり食べたじゃないか……」
「え、そ、それは、朝ご飯じゃ……」
「うちは、朝と夜の二食だよ。はい、リーネ、立って」
「き、鬼畜だ……」
食べ盛りのリーネは、恨み言をこぼした。だけど、料理はアルマに任せきりなので、文句も言えない。
昼食の時間を設けるためにも、リーネが料理番を変わってもらう日も遠くなさそうだった。
「さて、僕はここ、リンシア牧場で”交配”もすると言ったね。そもそも、交配とはなにか、わかるかな? リーネ」
アルマの講義が、唐突に始まった。リーネは気を取り直し、真剣に考え込む。
「えっと……。夫婦に赤ちゃんを作ってもらうことかな……?」
リーネがわずかに頬を赤ながら言葉にする。
「うん、間違ってはいないね。だけど、主語が違う」
アルマは、リーネの回答に対して頷きを返しつつも、部分的に否定した。
「”人間”が夫婦のペアを組んで、子を産ませる。それが交配さ」
アルマの説明は、リーネにとって馴染みのある考え方ではなかった。少女は、交配の意味を掴みきれず、率直に尋ねた。
「それって、アルマがモンスターの夫婦のペアを決めるってこと? ……どうして?」
「……より優秀な魔物を作れるからさ」
「——っ……」
リーネは声を失った。彼は、優秀な魔物を”作る”と言った。昨夜、リーネは彼のやり方に従うと言ったものの、改めて、彼が魔物という武器の作成に取り掛かろうとしていることに胸の痛みを感じた。
「交配で優秀な魔物を作るとき、目指す方向性は二つある。……ひとつはサラブレッド。これは、優秀な親から生まれた優秀な血筋を持つ子を作り上げるやり方だね。そしてもうひとつは、ミュータント。突然変異とも言われている。これは、子が、親とは全く異なる性質を持って産まれることを意味する。経験則に従うと、後者の方が優秀な魔物は作りやすけど、運否天賦が大きく関わって来る」
「あ……、えーと」
難解な言葉の説明を矢継ぎ早に受け、リーネはしどろもどろな反応を返す。
そんなリーネの様子を見てとって、アルマが申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん、ちょっと説明をまくしたてすぎたね。この辺は、ゆっくり覚えていけばいいから、安心して」
「う、うん。……それで、さっきの方向性は二つあるって話だけど、聞いた感じだと、エリアスさんは後者に当てはまるのかな? 昨日も変異種って言ってたし……」
リーネが恐る恐る口にしたその問いに、アルマは目を丸くした。
「正解だよ……。なんだ、ちゃんと理解できてるじゃないか。思ったより、物わかりがよくて助かるな」
「いやいや〜、それほどでも」
真っ直ぐに褒められ、これにはリーネも嬉しくなって、素直に照れた。
「そんなリーネに質問。交配には、優秀な親個体が必要だとわかったけど、それじゃあ、そもそも優秀な個体はどうやって見極めればいいだろうか」
「ええ!? なにその問題っ! うーん……、見た目が強そう!、とか?」
リーネは軽く考えたあと、勢い込んで答える。それを聞いたアルマが、可笑しなことを聞いたとばかりに、吹き出した。
「むむ! 笑うなんてひどいよ!」
「いやいや、ごめんよ。でも、それで見極められたら苦労はないね」
なおも不満げな顔をするリーネと、苦笑いを浮かべるアルマ。
「こほんっ。リーネ、付いてきて」
アルマは、咳払いで空気を改めると、水田の中へと足を沈める。
そして、一匹のスライムの前まで、二人はゆっくりと歩み寄る。
「ほら、あの子だ。……スー、おいで」
「あ……。昨日見た、赤ちゃん?」
スライムの見分けが、リーネにできる訳がなかったが、それでも、一匹だけ格段に小さいスライムの区別は簡単にできた。
アルマから「スー」と呼ばれたスライムは、水面を滑るようにして、一直線にアルマの元へ近寄ってきた。
(ちっさくてかわいい……)
リーネの視線を受け、スーはどこか居心地が悪そうだったが、それでもアルマがよっぽど頼りになるのか、怯えてはいないようだ。
「優秀な個体かを判断する上で、もちろん”見た目”という要素は重要かもしれない。だけど、それだけじゃ足りないし、観察者の主観に左右されてしまう。……そこで僕は、絶対的な指標となる術式を編纂することにした」
そう言うと、アルマは、スーに向かって右手をかざす。
そして、彼は静かに呪文を唱え始めた。
【記せ潜みし彼の苗床、啓け種族の原盤】
短い呪文はしかし、アルマから綻び出る魔力が尋常を逸脱する複雑さを持ち始める。緻密な魔力分子が、幾何学模様と数多の数字を立体的に浮き上がらせ、それらは、一点の空間、彼がかざす右手に収束していく。
そして出来上がったもの。——それは、魔力で形成された石板だった。
「なにこれ……?」
リーネはポカンと口を開けて目の前の出来事を見ていたが、やがて一言、声を漏らした。
「『種族の原盤』。僕が編み出した、とっておきの魔術さ。この魔術無くして、交配も飼育も、僕にはもはやできないかな……。石板の文字を見てごらん」
そこには、こう記されていた。
名前:スー
種族:スライム
両親:父マルマレ×母ミルム
性別:♀
体力:F(5)【F-D】
持久:F(4)【F-D】
筋力:F(2)【F-E】
防御:F(4)【F-D】
魔力:E(11)【F-E】
知能:F(3)【F-E】
俊敏:E(10)【F-C】
天賦:Null
「——?????」
リーネは目を回して卒倒しそうになった。
そこには、読むことはできるけれど、全く理解することのできない文字が羅列されていた。
所々理解はできる。推し量るに、これは目の前のスライムの、診断書みたいなものだろうか。しかし、中盤以降の文字が、リーネにはちんぷんかんぷんだった。
「ほんとに、なにこれ……」
「さすがに、君にこれをすぐに解読しろとは言わないよ。その代わり、研究所に術式ノートがあるから、それでしっかりと理解を深めて欲しい」
「うう……、なんだか不気味だよ、これ」
「そうも言ってられないよ、リーネ。君には、『種族の原盤』をマスターしてもらわないと困るからな」
そう言うと、アルマは、自身が作り出した石板を目の前からかき消した。
「スーは、やはり魔力の潜在力が高いな。とはいえ総評とし優秀な個体とは言い難いか……」
「……なに言ってるの……?」
リーネはアルマから一歩身を引いた。
そこで、アルマは思いついたように、リーネに向き直り言葉を紡いだ。
「この魔術は、一朝一夕では身につけることも難しい。……だけど、エリアスなら君に心を許して、原盤を見せてくれるかもしれない。
——リーネ。君に、この力を体験させてあげるよ」
「エリアス——」
アルマの一声に、エリアスは瞬時に彼の眼前に飛んできた。
「あ、エリアスさん、おはよう」
リーネはエリアスに昨日ぶりの挨拶を交わす。エリアスが、嬉しそうに小さく跳ねる。
「さ、意識して。さっき、僕の体内に流れた魔力分子の構造を。才ある君はそれを、如実に感じ取っていたよね。今はそれだけで、エリアスと通じ合える」
「とりあえず、やってみるけど……」
リーネは不承不承、彼の言い分に従うことにした。おっかなびっくり、エリアスに右手をかざす。
そして、記憶を辿り、先ほどアルマが唱えた、呪文を口にする。
【記せ潜みし彼の苗床、啓け種族の原盤】——
名前:エリアス
種族:変異スライム 金剛種
両親:父マルマレ×母ミルム
性別:♂
体力:SS(130)【F-Error】
持久:B(75)【F-Error】
筋力:D(35)【F-D】
防御:A+(102)【F-Error】
魔力:B+(89)【F-Error】
知能:B(77)【F-Error】
俊敏:A(94)【F-Error】
天賦:
水質自在Lv.2 反動撃Lv.1 膨張Lv.1 分裂Lv.1 迷彩Lv.2 耐火Lv.3
リーネは頭が痛くなってきた。
痛くなってきたけれど……。
アルマがリーネの反応を見て言った。
「君がこれを見て、今理解できることはおそらくひとつ。
魔物の突然変異はヤバいってことくらいかな」