第7話 初仕事
小鳥のさえずりが、微睡む意識にこだまする。
目蓋を必死に持ち上げると、朝の日差しが空間を輝かせていた。
「む、んんんん……」
少女の口から、間延びした声が漏れる。
夢ひとつない、深い眠りだった。
少女は上半身を起こすと、眩しさに目を細めながら、周囲を見渡した。
殺風景な部屋だった。家具の類は、ほとんどなく、石を積み上げた壁の継ぎ目ばかりが、目に強く焼きつく。
少女は、そんな部屋にひとつ備えつけられた質素なベッドで眠っていたようだ。
眠りが深すぎたせいか、自分の置かれている状況が、よく思い出せない。
……確かここは、魔物の研究所で、大広間には、目を瞠る数の書物が並んでいて……。
この部屋はといえば、大広間の東側に位置する客室で……。
少女が、眠気を取り払おうと、両手で目を擦っていると、扉ひとつない部屋の入り口から、青年が姿を現した。
どこかその青年も眠たげな眼差しだったが、それが彼の普段の相貌であることを思い出す。
「アルマ……。おはよう」
「おはよう。ぐっすり眠れたようだね」
「うん……アルマもよく眠れた?」
「まあね。……それはそうと、朝食ができてるよ。キッチンにおいで」
「やったぁ。すぐ行くね! ……あの、支度してから……」
「あっ……。ごめん、ゆっくりしておいで」
少女が気まずそうに俯くと、青年が慌てて逃げ去った。
高価なローブに皺ができないようにと、昨夜、アルマが寝巻き用の服を貸してくれていた。
少女は、隠れるように寝巻きを脱ぎ捨て、慌ててローブを着込んだ。
「…………」
なぜだろう。異常に心臓が早鐘を打っていた。
少女は思った。
——早いうちに、扉を取り付けてもらおう——。
◇ ◇ ◇ ◇
ダイニングスペースにやって来ると、すでに朝食が出来上がっていた。
リーネの見たことのない根菜を使ったスープと、これはリーネも名前を知っていた、パンという料理だった。
リーネは席に着くと、元気よく「いただきます!」と言いパンにかじりつく。
硬くない初めてのパンの食感に、感激するリーネ。
アルマは、そんなリーネを見て、優しげに微笑む。
昨日まで、地獄のような日々を送っていたとは思えない、穏やかな朝だった。
リーネは、根菜のスープを啜る。
(おいしい……。)
こちらは、アルマの手作りだったはずだ。今のところ、ただ飯を預かっている状態なのが、申し訳なくなってきた。
(ちゃんと働いて、いろいろと助けてくれた恩返しをしなくちゃっ!)
一人意気込むリーネ。そんなリーネは、あることに気づいた。
「あれ? エリアスさんはいないの?」
「ああ、彼なら早朝一番、スライム水田に飛び跳ねていったよ。彼らにとってあれが食事みたいなものだからな」
「スライム水田っていうんだね、あそこ」
「水田とは名ばかりだけど、呼びやすいからね……」
そうやって、とりとめのないことを話し合いながら、二人は朝食の時間を過ごした。
◇ ◇ ◇ ◇
朝食を食べ終えると、アルマが席を立って言った。
「リーネ。早速仕事に取り掛かろう。大事なこともいっぱい覚えてもらうから、そのつもりでね」
「うん、わかった!」
リーネも続いて席を立つと、威勢よくそう答えた。
アルマは大広間まで足を進めると、部屋の隅に備え付けられた物入れを漁り始めた。
すぐに目的のものを探し出したようで、アルマがリーネの元に戻る。
その手には、得体の知れない大きな布と長靴を携えていた。
「なに、それ?」
リーネが布の方を指して首を傾げた。
「つなぎだね。牧場で仕事をするときは、これを着ることをオススメするよ。僕の予備だから、ちょっと大きいかもしれないけど……」
「ううん、ありがとう。着てみるね」
リーネはそう言って、片方のつなぎを手にとった。少々手間取ったものの、何とか着ることができたのだが——。
「大分ぶかぶかだね。まあ、長靴を履くから、捲れば問題はないかな。……それよりも、ローブは脱がなくてよかったのかい? すごい暑そうだけど……」
「……いいの! 着替えるのめんどくさいしね! それに、このローブ、裾がすごい短いし、そんなに暑いって感じでもなくて……」
リーネがぎこちなく説明する。朝の出来事が、少女の脳裏によぎっていた。
——あれ、なんだか暑くなってきたな……。
別の意味で顔を熱らせるリーネ。
「それよりも早く外に行こうよ! お仕事が待ってるんでしょ?」
「いや、その前に、地下に行く」
「地下? 地下って確か……」
「そう。まあ付いてきてよ」
そう言ってアルマがリーネを導いたのは、広間の西側に連なる小部屋のひとつだった。といっても、そこはリーネの寝室と比べても格段に狭く、地下へと続く石階段が、ぽっかりと口を開くばかりだった。
リーネは、アルマの後ろに着いて階段を降りていった。
頭上を見上げると、魔力灯が淡い光を投げかけていた。
石段をひとつ降りるごとに、リーネは気温が次第に下がっていくのを感じた。
そして、もう一つの変化。
地下の空気は、魔素に満ちていた。普通の人であれば気づきにくい変化。リーネは、ダークエルフの本能として、それを肌身で感じ取ることができる。
階段を下りきると、通路が先へと続いているようだったが、それもすぐに行き止まりになっていた。通路の両側には、ぽっかりと穴が開いていて、どうやら地下にも部屋が作られているようだった。
アルマは、そのうちの左側の部屋へと歩を進めた。リーネも遅れまいと、彼の後に続く。
部屋の内部は、彼が昨日述べたように、霊水の貯蔵庫であるようだった。
貯蔵庫に足を踏み入れると、冷気は一層強く、二人を包み込んだ。
リーネが周囲を眺め渡すと、まず目に付いたのは、部屋の中央奥に鎮座する、巨大な樽だった。
巨大な樽の周囲には、それよりは幾分サイズの劣る木樽が無造作に並べられていた。
「霊水は、ひと塊りであり続けようとする性質があって、土壌には染み込みにくいんだ。とはいえ、放っておいてそのままってわけにはいかない。霊水の弱点は、熱なんだ。ある一定の温度で、瞬く間に蒸発してしまってね、管理に困るんだよ」
アルマは、巨大な樽に視線を向けながら、説明をはじめた。
「ここ、テストに出るから覚えておくといい」
「ええっ!? テストがあるの?」
「……冗談を真に受けなくていいよ、リーネ」
そう言うアルマはどこかしょんぼりしていた。
リーネは、失態に気付き、挽回するべく言葉を継いだ。
「あ……。だから、スライム水田は森の中にあるのかな?」
「それも理由のひとつだよ」
アルマがうなずく。そして、手ごろなサイズの樽をひとつ手に取ると、巨大な樽の前に向かった。続いて、巨大な樽の前に、自身が手にとった樽を設置する。
「仕事は、単純。このでっかい樽の蛇口をひねって、持てる大きさの樽に霊水を注ぐ。そして、それを水田に継ぎ足す。以上だ」
「え……。それは、なんというか、すごい重労働に聞こえるんだけど……」
「はっきり言って、キツい」
「ひっ……」
リーネの口から小さな悲鳴が漏れた。
(思ってたのと、ちょっと違う……。)
「この作業は、大体三日に一回くらいかな。これからはリーネも加わって楽になるな」
対照的にアルマは、どこか喜しげに言葉を発していた。
「あ、でも安心しなよ。なにも手ずから水田まで持ち運ぶってわけじゃないよ。家の前に荷車を置いておいたから、そこに載せられるだけ載せよう。……うーん、二人で往復10回分ってところかな……」
「ひぃーーーーーーーっ」
リーネの過酷な牧場生活が幕を開けた。