第3話 リンシア牧場
「わかったよ。それじゃあ、君を連れて行こう。——”リンシア牧場”へ」
穏やかな口調で、アルマは言った。
そして、アルマは広間の奥、泉の方へと視線をむけた。
「え? そっちは行き止まりじゃ……」
リーネは当惑の声を漏らした。
(あれ? わたしには、見えていないけど、アルマには先へ続く通路が見えているのかな?)
「僕たち人間だけだったら、確かに行き止まりだね」
あれこれと疑問に唸っていたリーネを見て、アルマが小さく笑って答えた。
そしてリーネの背後で、二人を守るように広間の入り口に佇んでいたスライムの名を呼ぶ。
「エリアス、いつものを頼む。今日は二人だから慎重にね」
『ぽむ、ぽむ』
エリアスがうなずくように、頭部を揺らす。
(か、かわいい……)
その人懐っこそうな動作に、リーネは身悶えそうになった。口元に手を当て、ニヤケを隠す。
しかし、そんな風に呆けていると、エリアスが突如、二人へと近づきながら、巨大化していた。
「え、ええ!?」
リーネの叫びが、広間に響き渡る。
二人を呑み込まんばかりに膨れ上がったエリアスは、次の瞬間——文字通り、二人を呑み込んだ。
圧倒的な水が、リーネを包み込む。リーネの全身がエリアスに収まったとき、穏やかな透き通った湖底へと沈んでゆく錯覚に陥った。
「んっ! ——っ」
必死に呼吸を止める。
だけど、突然のことだったので、彼女の肺には、ほとんど酸素が送り込まれていない。
(お、溺れる——)
スライムの体内で、溺死など、まっぴらごめんだった。
一体、この状況は、何なのか。アルマへ助けを求めようと、まぶたをうっすらと開くと。
「リーネ。君は何をしてるんだ?」
「へ?」
アルマは、何事もなかったかのように、スライムの体内に立っている。水中だというのに、やけに平然としていられる、とも思ったが……。
「すーーーーーーーー」
呼吸ができた。
「「……」」
リーネは、アルマへ睨みをきかせる。わざと教えなかったのだ。リーネの反応を楽しむために。
「あはは、すまない。でも一度やってみたかったんだ」
「——何が、『慎重にね』なのよ!」
「エリアスは、体内の水分を自在に変質できる。——だから、呼吸できる水もお手の物ってわけさ」
「もう……。って、ええっ!? それってかなりすごいんじゃ……」
不貞腐れていたリーネは、アルマの言葉を咀嚼して、盛大に驚いた。出会って間もない男性の前で、ここまで感情を大きく表に出している事実に、少女は全く気づかない。
それよりも……。
先ほどから感じていたが、このスライム——エリアスの能力は、常軌を逸しているのではないか。このようなスライムなど、リーネは、これまで見たことも聞いたこともなかった。
「驚くのは、まだ早いんじゃないか?」
その言葉とともに、アルマを前方を見据える。リーネもつられて、そちらに視線を向ける。もちろんそこには、大きな泉があるばかりで……。
(まさか……)
リーネの脳内に、一つの未来像が浮かぶ。それは、およそ現実的とは言えない光景。
しかしそれは、現実となった。
アルマとリーネを体内に包み込んだエリアスは、その場でポヨンポヨンと前進すると、ためらいを一切見せず、泉へと飛び込んだ。
今度こそ、リーネの視界は、水の世界に満たされた。
エリアスの体内は驚くほど透き通っており、だから泉の中にあって、アルマとリーネの周囲だけ、ポッカリと水がくりぬかれているかのような感覚に陥る。
「……」
あまりにも、夢想めいた光景にリーネは言葉を失った。ただただ、泉の奥底へと落ちていく不思議な景色を、立ち尽くしたまま見つめることしかできない。
「どう? 驚いた?」
「う、うん。すごいね、エリアス。こんなこともできるんだ……」
「牧場までは、もうしばらく掛かる。ゆっくりするといいさ」
そう言って、アルマはその場に仰向けで寝そべった。両手を枕に、はるか上空の水面を眺める。それが彼の日常であるかのように、無造作な所作だった。
だけどリーネは、この非現実な状況に畏ってしまい、いつまでも立ち尽くし、水底を見つめる。
彼女は、今日までのことを振り返る。
思い出すこともはばかられる、悲劇の連続だった。……そして今日、ついに少女の心は潰えかけた。
リーネは、アルマに視線を向ける。不思議な人だと思う。どこか飄々としていて、無愛想なのに、その口から発せられる言葉には、心を和ませる優しさがある。
出会って間もないながらも、ダークエルフの少女は、この不思議な青年に、気付けば気を許していた。
アルマは言った。リーネのような存在が必要だと。その意味するところは、まだはっきりとはわからない。
だけど、リーネはすでに心に決めていた。
——アルマの導きに従ってみよう、と。
それが、ダンジョンから逃れられない少女の、たった一つの光明だと思ったから。
◇ ◇ ◇ ◇
「さて、もうそろそろだ」
数刻ののち、アルマはおもむろに立ち上がり、落ち着いた口ぶりで言った。
リーネに緊張が走る。一体、行き着く先はどんなところなのか……。
「ほら、下を見てごらん」
彼の言葉に従い、水底を見やる。
「え……」
——光が溢れていた。
エリアスは、光に向かって落下している。次第に、白く眩い光が近づき、リーネの視野を、燦々《さんさん》と焼いた。
あまりのまぶしさに、リーネは右腕で、両目を覆う。
「さ、門を通過するよ」
エリアスの体内に光が満ちた。
そこが境界だったように、眩い光は徐々に薄れていき……。
——視界が大きく開いた。
「うわあ……」
目の前に広がる光景に、リーネは今日、何度目かになる驚嘆の声を漏らす。
エリアスは今、翠緑の大地に降り立っていた。
どこまでも広がる草原。その果てには森林や丘がかすかに覗く。草原には、小川が緩やかに流れる。見渡せる範囲だけでも、そこは自然が生み出す絶景に満ちていた。
しかし、リーネに自然など知る由もない。ダンジョンで生まれ育った彼女にとって、目の前に広がる世界は、別世界そのものだった。
アルマが、リーネをエリアスの体外へと誘う。
リーネが、草の大地を踏みしめた瞬間、一陣の風が吹き抜けた。
わずかに冷気を帯びた風が、少女の白く美しい髪を撫でる。
景色も、匂いも空気も、全てが彼女にとっては新鮮だった。
「およそダンジョンの内部とは思えない。僕は今でも信じられない思いがする。だけどここは、確かに大迷宮なんだ……」
アルマは視線を遠くに向けながら、そう口にする。
そして、彼特有の小さな微笑みを浮かべると、ダークエルフの少女に向かって言った。
「ここはダンジョンの秘境階層。
——ようこそ、”リンシア牧場”へ」