書き方に気を配る必要はあるのか
そもそも論ですな。
いきなり書き始めて良いと思います。好きなように書けば良いのです、書きたい話があるならば。なろう系に制限など無いでしょう、と言うと語弊があるでしょうか。書いた小説を皆で共有するサイト、それが小説家になろうだと私は認識しています。書いたという結果だけで充分でしょう。
問題は読み手を意識した場合に発生します。「書きたい」ではなくて「読まれたい」。
「読まれたい」とは、作品の評価を求める事に他なりません。沢山の人に読まれたいという意識は、即ち、他人の高評価を集めたいという欲望と同じです。
根本的に違う?いえいえ、高尚な言葉で言い繕っても、それは単なる言い換えに過ぎません。認めて下さい。面倒臭いから。どうしても引っ掛かりを覚える方は、なぜ言葉の違いに拘ってしまうのか、自分の心の深淵を覗いてきて下さい。そして、悟れ!面倒だから!!
…失礼しました。
欲望が悪い訳ではありません。執着が問題なのです。但し、執着を捨てる事に執着するのも良くありません。禅問答みたいですけども。
執着は生育歴や心の傷にも深い関係がありましてですね、ってそこを深堀りしたいんじゃないんですよ。う~ん、話が進まないったらありませんな。
要するに、です。欲を満たしたい。ならば努力しましょう。多くの高評価を得たい。その為の方法論が存在します。言いたかったのはそれだけでした。
映画やドラマなどのシナリオの場合、本当に理論として纏まっているらしい。文学とは異なりますが製品マニュアルなどの技術文書ならば、テクニカルライティングという分野があります。文学以前の文章構成の基礎の基礎については、学校でも教えてくれます。指導が十分かどうかについては議論の分かれる所ではありますけども。
物書きについては、私は門外漢です。プログラミングやシステム開発が仕事です。しかし文字の連なりを作り上げる所に共通点を見出せば、システム開発の方法論であるプロジェクト管理を応用できるのではないかと考えました。
とは言え、ぼっちです。たった一人の小説執筆プロジェクトに管理もへったくれも無いでしょう、という意見も理解できなくはありません。それでも私はプロジェクト管理します。なぜでしょう?
人間の能力には限界があります。記憶力も、注意力も、思考力も。
現代日本とは異なる剣と魔法のファンタジー異世界で、大陸中を縦横無尽に駆け回り、数多の出会いと別れを経験し、勇者と頼れる仲間達が成長して栄光を掴むまでの活躍を魅力的に描き出すには、物語の全貌を念頭に置いて、伏線と回収の適切なタイミングを検討して、全員の性格を把握して、各々の心情の変化を考察して、演出や表現を意識しなければなりません。
こういうのをエイヤッとやってしまう作家さんも沢山いらっしゃるようです。しかし私は記憶力が全く足りません。頭が悪いんですかねぇ…
生まれつきの頭の悪さを嘆いても始まりません。頭が悪いなら悪いなりに工夫を重ねなければ。私は欲を満たしたい。
少ない記憶力で長大な文章を書くには、最初は大雑把に纏めて、段階を踏んで細かくしていくとやり易い。検討課題を短くメモして、一覧表に貼り出しておくのも有効です。このような手段を活用すれば、全体像を把握しつつ目の前の作業に集中できる環境を作れます。
文学の方法論はわかりませんが、文字を連ねて纏まった物を作る方法は私も心得ています。その方法を駆使すれば、現代日本とは異なる常識を構築し、大陸中に町や村を作成し、数多の出会いと別れを用意し、勇者パーティの栄光への長い旅を、描き出せるようになるでしょう。
そうやって出来た作品が魅力的かどうかはわかりません。残念です。