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訣別の痕  作者: 紙野七
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7

 空が澄み、満月がはっきりと見える夜だった。月の光に照らされる夜の闇は、何も見えない真っ黒な世界よりも、幾分か恐怖を感じずにいられた。

 僕とニルスは生きるために必要なものをできる限り鞄に詰め込み、眠る家族に聞こえないよう別れの言葉を口にして、長い旅路の第一歩を踏み出した。いつ帰るかも、そもそも帰ってくることができるのかさえわからない旅。目的と目指す場所だけ決まっていて、他は何も考えていなかった。

 とにかくひたすら西へ歩こうと、方位磁針を片手に暗い荒野を黙々と進んでいく。方角を見失わぬよう、注意深く確認しながら歩くけれど、段々と意識が薄ぼんやりとして、視界が曖昧になっていく。たまに響いてくるオオカミの遠吠えやフクロウの鳴き声が、僕らがまだ生きていることを思い出させてくれた。

 適度に町から離れたところで寝床を確保し、朝目覚めると再び淡々と歩を進める。僕もニルスも、特に口を開くことはない。語るべきことが思いつかなかったし、お互いそれよりも自分との対話に終始していた。

 僕はずっとレヴィのことを考えていた。今頃どこで何をしているのだろう。絵本で見たペンギンたちのように、血に塗れながら武器を取って戦っているのだろうか。

まだ僕のことを覚えてくれるといいな、と思う。いつまでも覚えていてくれたら嬉しいけれど、彼が新しい場所で幸せに生きるなら、それもいい。

 何だか自分の半分が遠くへ行ってしまったような感覚だった。意識がふわふわとした状態がずっと続いている。今の僕は抜け殻だ。レヴィという半身を失い、亡霊のように当て所なく彷徨い続けている。

 旅を始めてもう何か月かが経っていた。途中で数えるのをやめてしまったから、正確にどのくらいの時間が経ったのかわからないけれど、生まれ育った町からはずいぶん遠ざかった場所にいるのはわかった。

「今日はあそこに泊めてもらおう」

 陽が落ちて辺りもすっかり暗くなり、今日の宿を探してきた僕たちは、ようやく見つけた古びた小屋を訪ねることにした。ここしばらくは野宿が続いていて、全身に疲労が溜まっていた。たまにはせめて屋根と壁がある場所で寝たい。

「こんばんは」

 軽く戸を叩き、少し声を張って中に呼びかける。するとそれに気付いてくれたらしく、こちらの方へ近づく足音が聞こえ、ゆっくりと扉が開かれた。

「夜分にすみません。僕たちは二人で旅をしている者で、今晩泊めていただくことはできないでしょうか」

 中から顔を出したのは、人のよさそうな老人だった。色が抜け落ちて真っ白に染まった髪の毛や、顔や手足を覆うたるんだ皮膚が、彼の長い人生を物語っていたが、背筋がピンと伸び、二本の足でしっかりと地面を踏みしめている彼からは、力強い生を感じた。

 簡単に事情を説明し、食事もいらず、本当に寝る場所だけを提供してもらえればいいことを主張する。欲を言えば、暖かい毛布とパンの一欠片も欲しかったけれど、当然そんなことは言えるはずもない。

「こんなところに人が訪ねてくるなんて、もう何十年ぶりだ。狭くて汚い家だが、どうぞ入りなさい」

 老人は僕たちを快く受け入れ、優しく家の中へと招き入れてくれた。

「私はイーゴリ。もうここで長いこと隠居生活をして余生を過ごしている。もうずいぶん人と話すことがなかったものだから、君たちのような旅人が来てくれたことは喜ばしい」

 お互い挨拶を済ませると、イーゴリはスープとパンを出してくれた。僕たちはちゃんとした食事をするのが久しぶりだったので、彼に感謝を言って、一息でぺろりとたいらげた。そうして満腹感に幸せを覚えた僕は、我ながら単純な人間だと呆れてしまう。

 イーゴリは遠い昔にここへ越してきて、それからずっとここで暮らしているらしかった。以前はこの辺りも小さな集落があったそうだが、徐々にみんな町を出ていき、気付けば彼らだけになっていたのだと言う。

 辺境の地なので僕らのように旅人が訪ねてくることもほとんどなく、話し相手は鳥か兎くらいなもので、こうして人と話すことが嬉しいようだった。

「ここから出ようとは思わなかったんですか?」

 年老いた今は難しくとも、こうなる前にどこか他の場所へ居所を移す選択肢もあったはずだ。聞くに、ここは彼の故郷でもないようだし、特別この地に思い入れがあるわけでもなさそうだった。それなのにこの場所に留まり続けたのは、一体どうしてなのだろう。

「ここにいるのはね、私の罪みたいなものなんだ」

「罪?」

 彼は静かに頷く。

「私はね、若い頃にたくさん人を殺したんだ」

 突然、足元を冷ややかな風が通り抜けたように感じて、僕は思わず身震いをしてしまう。彼の言葉には自分に戒めを課すような重く冷たい力があった。決して冗談や嘘を言っているわけでないことは明らかだった。

「君たちはこの国が何百年も戦争を続けていることを知っているかい?」

 僕は彼の質問に一瞬戸惑ったが、隣でニルスが黙って首肯したのを見て、僕もそれに倣った。

「私は若い頃、兵士として国の軍隊で働いていた。孤児だった私にはそれしか道がなかったんだ。最初のうちは訓練やちょっとした任務ばかりで、それはそれできつかったけれど、まあ何とかやっていけていた」

 一度言葉を切って、数秒の間を空ける。その時間はおそらく彼が過去を思い起こす時間で、過去を噛み締める時間だった。

「そうして過ごしているうちに、私たちもついに戦争へ赴くことになった。不思議と嫌だと言う気持ちはなくて、妙な高揚感すらあった。でも現地に着くと、すぐにそんな思いは消し飛んだよ」

「そんなにひどいところだったんですか?」

 僕はあの絵本で見た光景を思い出していた。絵ですらあんなにも凄惨で絶望的だったのだから、実際にそれを目にしたら、一体どのように映るのか見当もつかない。

「まず着いた途端に、私の隣にいた仲間の頭に矢が刺さった。その後も次々に矢が飛んできて、わけがわからないまま必死に逃げたよ。そういう日々はそれから毎日続いた」

 つい彼の言葉通りの情景を頭に思い浮かべてしまい、胃酸が口元まで戻ってくるのを感じた。慌てて口を押え、深呼吸をする。それでも瞬きの度に赤い血飛沫が見える気がした。

 イーゴリはそんな僕を心配するが、僕は彼に話の続きを促す。ニルスは顔色一つ変えずに、黙って彼の方を見つめていた。一瞬迷った素振りを見せたものの、彼も僕たちの態度に思うところがあったのか、椅子に座り直して再び話に戻る。

「私はそこでたくさんの人を殺した。そうしないと自分が殺されてしまう状況だった。しかしいくら殺しても、その後ろからまた新しく人が出てくるだけだ。そうしてこちらも一人、また一人と死んでいく。終わりのない堂々巡りが続いて、気付けば私の後ろには数えきれないほどの亡霊がしがみついていた」

 自分の背中に手を当て、彼は目を瞑る。きっと彼にはその亡霊の声が聞こえ続けているのだろう。

「何よりあの戦いは無意味だった。たとえ私たちがどんなに敵を殺そうと、決して戦争が終わらないように調整がなされていた。所詮、私たちは高い塀に囲われた虫かごの中で、勝手に決められた範囲で戦いをしていただけだった」

 イーゴリの話によれば、僕たちの国と西の国は秘密裏に協定を結び、被害を最小限に抑えながら戦争を続けられるよう、絶えず調整を行っているのだと言う。そこには様々な政治的背景があるようだが、当然そんなことは僕たちには関係がない。

「ついに耐え切れなくなった私は、ある日脱走を試みた。見つかって殺されても、途中のどこかで野垂れ死んでも、別に構わないと思っていた。その方が幾分か良いように思えた。けれど幸か不幸か、私はこの町まで辿り着くことができた」

 それが彼の言う罪だった。その罪に縛られながら、彼は何十年もここで懺悔し続けてきたのだ。彼の苦しみがどれほどのものだったのか、僕には到底想像できなかった。

「一つだけ、聞いてもいいですか?」

 イーゴリが一通り話を終え、そこまで沈黙を保っていたニルスが口を開いた。

「人を殺すのは、いけないことだと思いますか?」

 ニルスが投げかけた問いは、ともすれば相手を怒らせかねない不躾で無神経なものだった。しかし、彼の目を見れば、すぐにその真剣さがわかった。イーゴリも彼の力強い眼差しに押され、素直に彼の問いに答えた。

「たくさん人を殺してきた私が、人を殺してはいけない、なんて言うのは嘘臭くて説得力のない言葉に思えるかもしれないが、それでもやはり私はそう言わざるを得ない。人を殺して仕方ない場面というのは決してない。どんな事情があろうとも、殺した時点でそれは悪だ」

 イーゴリの断定的な回答に、ニルスはただ黙っていた。彼はきっとセルマのことを思い出しているのだろう。

「そして悪には相応の罰が下るべきだ。だから私はここでこうして、一生罪を背負い続けて生きていくつもりなんだ」

 けれど僕には苦しそうに顔を歪ませるイーゴリが悪だとは思えなかった。もしイーゴリやニルスが悪だと言うなら、レヴィから目を逸らし続ける僕の方が、その罪を背負うべきなんじゃないかと思った。

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