虫にも触手はいるのである。
僕は猫であった。
名前はもうない。
どこに転生したのかとんと見当がつかぬ。
何でも薄暗いジメジメした所でにょろにょろとしていた事だけは記憶している。
……。
小説にするのであれば、冒頭はこうであろうか?
……。
いかぬな。
いつまでも現実逃避などしてはおれぬ。
女の子の父親の部屋と思しき書斎の中で、その手に持った本をそっと閉じた。
表紙に『触手図鑑』と書かれている。
僕は触手に転生してしまった様である。
猫から触手に、しかも植物系。
退化した。
と言いたいところではあるが、動きは猫よりも機敏であり、しかも『毛なし』共の字が読める様になっている辺り、進化と言ってもいいのかも知れぬ。
認めたくはないところである。
何よりフォルムが気に入らぬ。
気高さも気品もない緑と黒のにょろにょろ。
雑多に伸び散らかした感じも、適当に絡まりあったところも、何ら知性のカケラも感じないというのに、頭は確実に格段に良くなっているのだから何とも言い難い。
これからこのにょろにょろで生きていかねばならぬというのだから、憂鬱である。
神というモノが本当にいるのならば、一言いってやりたいところではある。だが、成ってしまった後ではもうどうにもならぬであろう。
致し方なし。
とりあえず、ご飯を食べる事としよう。
僕の身体である緑と黒の触手。
この緑の触手は手であり、黒い触手は根であるらしく、そして比較的になんでも食べられるらしい。
既に若干意味が分からぬのだが、そうだと書いてあるのだからそうなのであろう。
好物はバーミキュライト。
バーミキュライトとは、蛭石の原鉱石を800℃ほどで加熱風化処理し、10倍以上に膨張させたもので、多孔質で非常に軽く、保水性・通気性・保肥性が高い物なのだそうである。
これもまた正直に言って、よく分からぬ。
まぁ、植物にとってはとても美味しい物なのであろう。
図鑑を本棚の中にそっと戻した。
本棚にはまだまだ気になる本はたくさんある。今度またこっそりと忍び込むとしよう。
窓の鍵を開け、外に出る。
そして、外から細い触手を伸ばして鍵を掛け直す。
思うところはあるが、触手便利であるな。
では、バーミキュライトを探そう。
バーミキュライトとは詰まる所、園芸用品である。園芸とは草木を育てる事である。
であるならば、鉢で草を沢山育てている所を知っている。
幸い、女の子の家からも近い。
草場の影を走り、塀を乗り越え三件ほど隣の家に入った。
ここが鉢の家である。
適当に家の周りに並べられている鉢植物を覗いてみると、幾つかに白茶色い粒々が入っているのが見えた。
これがバーミキュライトであるかな?
早速、根を突き刺す。
これで食べられるのであろうか?
……。
食べてる?
そっと耳を近づけてみた。
カリッコリッ
た、食べてる⁉︎
根とはそんな食べ方をするものなのだろうか?
確かになんとなしに美味しい感じはあるし、空腹感は無くなってきている気がするのであるが……。
ビィィィ
おや、虫であるな。
猫の時にもよく見かけた甲虫である。
そういえば、触手図鑑の中に、虫系の項目があった。
奴も触手であろうか?
二回、三回と僕の周りを飛んでいた甲虫が、くるりと向きを変えて……、向かって来た⁉︎
僕に襲いかかろうと言うのかい?馬鹿め‼︎
必殺の右前足をふるっ……たつもりが唸りをあげて触手が舞った。その黒い触手の一本が虫に当たった。
というか、刺さった。
ツル ウマソウ ツル クウ
な、何これ怖い⁉︎これは虫の声であるか⁉︎
というか貴様、虫の癖に僕を食おうというのであるか‼︎
だが、触手が突き刺さっている状態では何も出来まい。
うざうぞと動く虫の足が……足?
何か触手っぽ……
虫の足がにゅるりと僕に向かって伸びて来た‼︎
のぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ⁉︎
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いき、きもい‼︎
ツル クウ
ツ ル ク
ぉお?
虫の動きが急に緩慢になり、動かなくなった。
……。
甲虫がカサリと音を立てて崩れ、ポトリと落ちた。
残ったのはカサカサになったそれっぽい殻だけである。
ふとこの時、僕が思い出したのは、図鑑にあった“比較的に何でも食べる”の文章である。
触手とは僕が思う以上にとんでもない生き物なのであろうか。