雲のツボ押し
りん子は空の上で、雲をマッサージしていた。今日は七夕なので雨が降らないよう、晴れのツボを押してほしいというのだ。
「あー、そこそこ。もっと強く押して」
雲は低い声で唸りながら、細かく指示を出してくる。りん子は額の汗を拭き、ぐいぐいと雲を押した。見た目はふわふわだが、さわってみると餅のように弾力がある。
「あー、効く効く。首の後ろもやって」
「どこよ」
りん子は這いつくばり、両手で雲を揉みほぐした。額から汗が流れ、指先が痺れてくる。雲はどこまでも広がっていて、終わりがない。
「だいたいあなた、雨雲でしょ。ツボなんか押したってだめなのよ」
今朝、起きて空を見た時からわかっていた。重い空気、息苦しくなるような色とにおい。今夜は雨だ。
「あー、そこそこ」
「どこでも同じでしょ」
ツーサイドアップに結った髪を揺らし、移動しながら揉んだ。あと少しでバイトの時間が終わる。そうしたらスーパーへ行って蕎麦とそうめんの買いだめをするのだ。空の上限定のセールをやっていて、なんと地上の半額だという。
「もっと、もっと強く」
「雲が肩こりなんて、嫌な世の中ね」
「世の中なんてどうでもいいよ。俺ぁ温泉に浸かりたいんだ」
めちゃくちゃだわ、とりん子は思う。
雲の要求は延々と続き、腕も腰も限界を迎える頃、ようやく終業時刻になった。
「ああ、長かった。地上とは時間の進みが違うんじゃないかしら」
りん子は伸びをして、スカートについた水滴を払った。歩き出そうとすると、ふいに足首をつかまれる。
「まだ揉み残しがあるぞ」
雲の表面が盛り上がり、りん子の足首に絡みついている。取ろうとしたが、アスファルトにこびりついたガムのように強力だ。
「今日のノルマは終わったわ」
「後頭部がまだだ」
「あのね、自分が雲だってことわかってる?」
この言葉が雲を怒らせてしまった。白い塊が大きく膨れ上がったかと思うと、りん子の顔に思い切り体当たりをした。
「痛っ……くない」
大きくても所詮は雲だ。勢いをつけても凶器にはならない。しかし、顔にべったりと白い跡がついてしまった。足に絡みついた雲もいっそう強く締め付けてくる。
「冗談じゃないわ。サービス残業なんてするわけないでしょ」
もがいていると、男が通りかかった。黒い帽子と透き通ったケープを身につけ、上着の裾をなびかせて近づいてくる。
「お待たせ。バイトは終わった?」
「えっ……」
りん子は伸び上がってくる雲を押さえつけ、男の顔を見た。男はアーモンド型の目を細めて笑った。任せておけ、と言っているような目つきだ。
「りん子は僕と約束してたんだよ。ね?」
「そ、そうなのよ! すっごく大事な用事で、すっごく急いでるの!」
雲はりん子の足から離れた。顔についていたのも、端を引っ張ると綺麗に剥がれた。自分の頬をさわってみると、パックをした後のようにつやつやしている。
「ありがとう、助かったわ」
「雲は欲張りだから気をつけたほうがいいよ。じゃあ行こうか」
男はりん子の腕をつかみ、スーパーとは反対方向へ歩き出した。待って、とりん子は立ち止まる。
「話を合わせてくれてたんじゃないの?」
「え? 何のこと?」
男はりん子を引っ張ってどんどん歩いていく。やがて辺りは暗く、霧が立ち込めるようになってきた。うっすらと肌寒い。
「ねえ、どこ行くの」
「僕の家。おいしいお茶があるよ」
「だめよ。私、スーパーでお蕎麦とそうめんを買うんだから」
すると、男はあっさり手を離した。
「そっか。じゃあそうしよう」
二人は向きを変え、スーパーのほうへ歩いていった。しかし途中でまた雲が盛り上がり、行く手を塞いだ。
「お前たち、急いでるなんて嘘をついたな」
「しつこいわね!」
りん子は足を速め、横を通り過ぎようとした。ところが、そこにも雲が盛り上がってくる。
他の人はどうしているのだろう、と思って周りを見ると、自転車に乗って雲を蹴散らしたり、ホッピングで隆起を飛び越えたりしている。
「私も何かに乗ってくれば良かった。でも今さら仕方ないわね」
りん子はしゃがんで勢いをつけ、雲に向かってジャンプしようとした。待って、と男が後ろから肩をつかむ。
「失敗したら逃げられなくなるよ」
「その時はその時よ」
ここで右往左往しているよりはいい。雲につかまってしまったら、自分も雲の一部になるまでじっとしていよう。そして通りかかった人にマッサージをしてもらおう。
まあ焦らないでよ、と男は言った。
「雲を押さえておいて、その間に買い物を済ませればいいんだよ」
「押さえておくなんてできるの?」
「できなかったら僕の家に逃げる。おいしいお茶もあるし、そうめんはないけど冷麦ならあるよ」
その案は気に入らないが、他に良いアイデアも浮かばなかった。
男はケープの内側から棒を取り出した。引っ張ると折り畳み傘のように伸び、先端の尖ったところがきらりと光る。
「はい、持って」
男は棒をりん子に渡し、ケープからもう一本取り出して雲をつついた。
「どこかにスイッチがあるはずだから、そこを押せば簡単に止まるよ」
「どこかって、この広い雲のどこか?」
「そう」
りん子は呆れた。探せるわけがない。吊り天井でいっぺんに刺すのでもなければ無理だ。
男はざくざくと雲を刺し始めている。穴が開くとそこから銀色の魚が飛び出したり、エメラルドの醤油が吹き出したりする。
「意外と面白そうね」
りん子は足元をつついた。しかし何も出てこない。あー、そこそこ、と雲の声が聞こえる。
「そこは胃腸のツボだ。うーん、生き返るねえ」
別の場所をつついたが、今度は砂がたくさん出てくるだけだった。
「そこは目のツボだ。最近ドライアイがひどいと思ったら、砂が詰まってたのかあ」
これでは雲のもくろみ通りだ。さっさとスイッチを見つけなければセールが終わってしまう。
一方、男の選ぶツボはことごとく気に入らないようだった。
「馬鹿、そんなところを押したら腸がねじれる! あああ、そこは骨折のツボだ!」
りん子はくすりと笑い、男のそばへ行った。
「これが骨折のツボ?」
足元を刺すと、ギャッと悲鳴が聞こえた。突然、風船ガムのように雲が膨れ上がったかと思うと、パンと大きな音を立てた。破裂したのだとわかるまで、少し時間がかかった。その時にはもう、りん子は真っ逆さまに落ちていた。
風を切り、カラスの群れを上から下へ突き抜け、街の灯りが近づいてくる。と、その時、空から雨が追いかけてきて、りん子をすくい上げた。
「助かったわ……あら?」
降ってきたのは雨ではない。星だ。大小さまざまの星が集まり、ミルク色に輝く光の帯になっていた。乗り出して見ると、上も下も星でいっぱいだ。
「雨雲じゃなくて、星を乗せた雲だったのね」
白い星、水色の星、赤い星、ビーズのように小さな星たち、それぞれがゆっくりと動き、七夕の空を作っていく。すぐそばに見えるのははくちょう座。明るくて大きな星はデネブ。
まぶしくて見えないけれど、光の帯の向こうで声がした。
「バイバイ、りん子。また来年」
黒いケープが飛んできて、ほうき星に変わった。りん子は立ち上がり、風にゆらめく尾に飛びついた。
いくつもの星をかすめて飛びながら、りん子はつぶやいた。
「ありがとう」
街まで滑り下りる頃には、全て燃え尽きてしまうのだろう。去年もその前もそうだったように。
りん子は目を閉じた。雲のため息が、星のまたたきが、まぶたの裏を行き交っている。蕎麦とそうめんを買い損ねてしまった。そう思った時、夜が明けるように記憶が消えていくのを感じた。