もえいづる
Oへ
随分遅くなったけど、少しずつ書いていくよ
(1)
ニラルカラル
最果ての地。海神の地。常世の国。桃源郷。いくつもの呼び名で知られる海の彼方にある夢の土地。争いがない平和な土地。『異邦山海経‐序章1篇‐』
樺がその奇妙な旅人の噂を聞いたのは、件の旅人が芹の村を訪ねてから半日遅れてのことであった。
冬の寒さもようやく緩み、芹の村の山々も植物の鼓動に満ちていた。芽吹きだした葉は、朝の霧に濡れ、姿を見せた日の光を優しく反射している。
芹の村から山中に分け入ると樺の居住があった。早朝、樺が山で採ってきた山菜を見ながら商人が噂話しを続けていた。
「その旅人っていうのが、頭から指先まで布で覆ったやつで顔も一切見せなかったそうで」
噂を持ってきたのは、芹の村に月ごとに立ち寄る商人の矢車だった。細目に猫背の体には不思議と人を威圧する気配がない。幼い樺が芹の村の外れに移り住んでからの付き合いである。わざわざ山中に物を売りに来る商人もなく、芹の村人さえ余所者の樺の家に近づくことは少なかった。世間と隔たりのある樺にとっては、矢車との交流は数少ない人との接点だった。芹の村で出回る噂話などは村人からの風聞よりも、矢車から聞くことが何度もあった。
「村人の話じゃ、昨日の夕暮れ時に村に現れて、宿を求めて来たとか。なんとも不気味な姿から、村の衆は追い返そうとしたそうですが」
「追い返さなかったのかい?」
それまで話を聞いていた樺が口を挟んだ。
「なんでも騒ぎを聞いた村長がやって来て、旅人を家に招いたそうですよ」
「では、旅人は今も村長の家にいるのか?」
小村では宿がないことが多く、月ごとの商人や旅人は村長の家に客人としてもてなされることが多かった。
「さぁ……夜明け前に出て行ったという人もいましたが」
矢車は山菜を触る手を止め村人の話を思い出していた。
「村長が旅人を家に招いたとき、村人達が村長の家に押しかけたそうです。怪しい者を村に入れるのは災いを招くってんで。しかし、すぐに村長が青い顔で出てきて、あの方は私の友人だと説明されたと。私が訪ねたときには、すでに騒ぎも治まっていましたね」
樺は、村人に家を取り囲まれた村長の心境を想像した。手に手に揺れる松明を持ち、目が爛々と輝いている。さぞ生きた心地がしなかっただろう。
槐王国に属する芹の村は、北の千王国との国境近くにあった。雄大な山々と鬼憤の大河が千王国とを分け、国境の道には、兵が常駐し行き交う者に目を光らせている。
それでも、密かに山や川を抜け、槐王国に入ることは不可能ではなかった。外からの脅威は、芹の村人の結束を強め、余所者に排他的な風土を作っていた。
樺に対する冷ややかな視線も、村の中では暗黙の了解であった。人よりも白い肌を影で白樺と村人が話しているのも幼いころから聞いていた。しかし、幼い日に慣れてしまえば、その声もいつの間にか日常の中に溶け込んでしまう。そんな生活をもう何年も過ごしてきた。きっとこれからも変わらずに。
「では、これだけいただきましょう」
気づけば矢車は山菜の品定めを終えていた。
樺は、山菜の代わりに金とわずかな米を交換した。冬の蓄えも、もう底を尽いていたのでありがたい。樺は残った山菜を蓑に掛けながら尋ねた。
「村には、いつまで居る?」
「二、三日は芹の村と近くの小村で仕入れと、売りをするつもりです。こちらを発つときに、また挨拶に来ますんで」
「素っ気無いことを言うな。しかし、もてなしができればよかったのだが、生憎、冬の蓄えが尽きていてな」
「お気遣いなく。これほどの山菜があれば、もてなされたのと代わりませぬ」
「矢車が芹の村に居る間に、山で狩りをしよう。ここらの猪や鹿も起きだしているだろう」
「そいつは、村を発つ前に楽しみができましたな」
矢車は細い目に皴を寄せて笑った。
矢車が芹の村へ帰ると、樺はさっそく弓を持ち出した。矢は番えず、弦を引き絞る。放した指から空気を打つ快音が響いた。良い音だ。
樺は矢筒と弓を持つと、山中の道を下っていた。
樺の家から山中の細い道を下って行くと、すぐに道は開け、見晴らしのいい斜面へと出た。山の東南は、 樺と樺の父が切り開いた棚田になっている。畦と田の境界は曖昧で、雑草が気温とともに日に日に伸びている。冬から春にかけての時期は田畑の手入れを行うのが通例だ。
今日ばかりは、狩に出るのも良いだろう。
棚田の維持は、今は樺一人の仕事だ。芹の村外れに居を構えて間もなく、母が死んだ。それから父と二人で棚田を切り開き、土をつくり、稲を育てたが、その父も一昨年、病に罹り息を引きとった。
一人分の食い扶持を稼ぐのには、十分すぎるほどに棚田は広いが、一人で維持するのは苦労のいることだった。いくつかの棚田は、手放すことになるかも知れない。
一昨年、切り開いた棚田を抜けると、その先は未開拓の森が現れる。頭上の樹は若葉生み、目に鮮やかな緑を添える。森の中に進むほどに、木と土の香が強くなった。視界を遮る木々が増え、方角を見失いそうになる。目を凝らし、耳を澄まし、五感を研ぎ澄ます。地面の足跡を探る。
そう時間はかからず鹿の足跡を見つけた。足跡を辿ると、森の奥へと進んでいるようだ。樺も同じように 森の奥へと進んでいった。
日は出ているが、森の中は木漏れ日よりも影を多く落とし、鬱蒼とした木々の下は薄暗い。樺は足跡を見失わないように、歩を緩めた。歩き慣れた森ではあるが、油断せずに進む。
父が死んでからは、よく森に出かけることが多かった。
森の中にいると心が落ち着いた。そして、様々な思いが浮かんだ。はじめに思ったのは、死んだ母のことだった。決して強い女性ではなかったと思う。しかし、故郷を離れた地でも、樺の前では弱音を見せなかった。母が亡くなったとき、父は家の裏手に母の墓を作った。墓の前に苗木を植え、墓標の代わりにした。生前、父は母の墓前に立つこと無く、農作業に励んでいた。父が病に亡くなると母の墓の隣に葬った。墓標代わりに苗木を植えることも考えたが、母の樹と喧嘩するのを避け、植えるのをやめた。数年で母の墓標は随分と成長していた。
時が経ち、父を亡くした悲しみもゆっくりと癒えていった。
父が死んだ頃は、家に居ると気が滅入り、森に出て行くことが多かった。気づけば、森に行くことが習慣になっていた。悲しみが癒えてきた今も、家に居ることよりも、森の中で過ごす時間が長かった。母を亡くした父も同じ様な心情だったのかもしれない。
森の香が強い。森の奥に進むほどそう感じる。
考え事をしていたからだろうか。ぱたりと鹿の足跡を見失ってしまった。
集中し、鹿の残した痕跡を探った。樺、と名を呼ばれた気がした。森に来ることが習慣になった頃から、度々、樺は名を呼ばれる錯覚に遭った。
悲しみは癒えたと思っている。しかし、自分でも気づかずに心の奥底では、まだ父母の影を追っているのだろうか。樺、とまた名を呼ぶ声が聞こえた。幻だ。樺は自分に言い聞かせた。父と母は墓に眠っている。この声は、自分が生み出した幻だ。樺は意識から幻の声を締め出した。樺、と父とも母ともつかない声は、幽かな余韻を残し、消えていった。
目の前のことに集中する。不思議なことに、すぐに鹿の足跡を見つけることができた。やはり、鹿は森の奥へ奥へと進んでいるようだった。
急に、日の光が降り注ぎ、眩しさに目を細めた。森の奥には木が拓かれた土地があった。円く切り取られた草地の先に老木が立っている。
「このような場所があったとはな」
樺は思わず呟いていた。
この土地だけは空気が違う。降り注ぐ日の光だけが原因ではない。植物ひとつに至るまで清浄な気に満ちている。
茂みが揺れた。
樺は焦らず、弓に矢を番え、弦をゆっくりと引き絞った。茂みに狙いを定める。森の空気が一変している。薄闇を落とした森の中にも、先程までとは違う清浄さを樺は感じ取った。
薄闇の先に影を捉えた。しかし、樺は矢を放てず立ち尽くした。
現れたのは鹿ではなかった。
狼だ。しかし、現れた巨躯を樺は見つめていた。大きさは大人数人が並んでやっと同じくらいだろうか。頭から胴、足先まで夜空のような黒い毛で覆われている。尾だけは真っ白な毛を生やし、胴に負けず長く、風が吹いていないのに陽炎のように波打っている。尾は瞬く星を散りばめたようにきらきらと輝いていた。黒い毛の足先には燐光が漂い、狼の足跡を仄かに照らし出していた。
樺は手に持った弓をだらりと垂らし、ただただ狼の姿に魅入っていた。恐怖は感じなかった。狼の双眸に智と威厳を見出したからかもしれない。
この狼が纏う清浄さが、森の空気を変えたのだ。近づく狼を見つめながら、樺は確信した。
狼は樺の数歩前で止まると、じっと樺の目を覗き込んできた。どれほどの時が経っただろう。時間の感覚は曖昧だった。樺にしては、一瞬にも感じたし、一刻にも感じられた。
唐突に、狼は視線を樺から逸らした。樺はそっと息を吐き出した。狼を見つめている間、ずっと息を止めていたことに初めて気がついた。
狼は空を見上げ、後ろ足を曲げると、ひと跳びで森の木々を飛び越え、彼方へ姿を消した。
狼が姿を消すと同時に、森の空気も元に戻っていた。しかし、樺はしばらく動けないでいた。
(2)
村へと続く山道を息せき切って駆けている。
狼に遭った後、気づけば森の中を樺は歩いていた。再びあの老木の空き地へ行こうと試みたが、辿り着くことはできなかった。代わりに山中で鹿を見つけた。樺が足跡を追っていた鹿だ。
正午過ぎに家に一度戻り、鹿を解体した。手早く解体を済ませると、樺は山中の道を下り、芹の村へと急いだ。矢車に会うためだ。
山道を降りると田畑に囲まれた道を走り、矢車が宿を借りている村長の家を目指す。すれ違った村人が怪訝な顔で振り返っても、気にすることなく走り続けると、目的の家屋で見えてきた。
芹の村で一番大きい家が村長の家だった。樺が家の門を叩くと、住み込みの女中が応対した。息を切らした樺を不審がりながらも、樺に用向きを尋ねた。
「長様は只今、家を空けておられます。御用があれば、私から長様にお伝えします」
「いえ、村長ではなく、こちらに宿を借りている、矢車という商人に会いたいのです」
息を整えながら樺は話した。
「矢車様は居りません。朝方には梁の村に商いに向かわれました」
梁の村は芹の村の近くにある小村だった。商いだけなら往復に半日とかからない。
「ならば、今日中には芹の村に戻ってくるのでは?」
「……確かにそう伺っていますが」
「矢車が戻ってきたら、樺がもてなしの準備を整えた。そう伝えてください」
「お言葉ですが、私どもは長様の客人として、矢車様を御迎えさせていただいています。客人に不自由のないよう、十分なもてなしの準備が整っています」
「私もそうです。今朝、山で鹿を狩ってきたところです。矢車には今朝、鹿を獲ってこようと約束しました。鹿の肉を獲れていないとなると、彼の商いの邪魔をすることになる。ひいては、商人たちの村に対する評判を落とすことになりかねません」
樺は話に商いのことを含ませた。元々、矢車との約束に商売の話は絡んでいなかったが、女中は少し戸惑ったように聞き返してきた。
「商売の話をされたと?……そのような話は伺っておりませんが」
「もちろんです、商人が自分の商いのことを全て人に話すことはないでしょう。しかし、私が春に獲った鹿の肉は旨いと話すと興味を持ったようです」
嘘は言っていない。もう一押しで女中も折れると踏んだ。樺は今朝の会話を考えながら一言付け加えた。
「そういえば、昨日訪れた旅人が、今朝早く出立したことを気にしていました」
「まさか……」
女中の顔に焦りが見えた。
「いえ、こちらで不始末があったとは考えておりません。急ぐ旅だったのかもしれません……何か旅人からお聞きしていませんか?」
「私は……お会いしておりません。長様の個人的な客人とだけ伺っております。長様から部屋に入るのも控えるようにと……」
その話は初耳だった。
「なるほど、矢車は村長の個人的な客人という話を知らないようだ」
「戻られたらお伝えします」
「それは控えたほうがいい。当事者がなにを言っても疑いが増すだけです。それよりも部外者の私なら、疑われることなくうまく伝えることができる。矢車には、樺がもてなしの準備を整えたとだけ伝えてください」
女中の返事を聞かず、樺は村長の家を後にした。
しばらく振り返りもせずに歩いたが、村で唯一の飯屋の前に来たとき、とうとう足を止めて休むことにした。
飯屋の中を覗くと客はおらず、店の女将が晩飯の下拵えをしているところだった。
「茶はあるかな?」
声を掛けようとした樺の背後から別の声が上がった。振り返ると旅笠をかぶった男が一人立っている。女将が声に気づき、すぐに店先に出てきた。女将は樺をちらりと見たが、気に留めず旅笠の男を店に招きいれた。
「さて、入ろうかい。お兄さん」
少々面食らいながら男を見ると、ニカッと悪戯な顔で
「すまんね、声を掛けようとしているところ割り込んで。良ければ茶の一杯でも付き合ってくれるかい?」
そう言うと男はまた悪戯な笑顔を見せた。
店の中は机と椅子を並べられただけの質素なものだ。向かい合うように椅子に座ると、茶が二つ運ばれてきた。机に茶を並べると、女将は世間話をすることも無く、さっさと晩飯の下拵えに戻っていった。
男は旅笠を取ると額の汗を拭っている。
年は20代か、笑った顔は人懐っこい。矢車とはまた違った人好きな男だと樺は思った。
「中々のもてなしだ」
口ぶりとは裏腹に、男は気にすることなく茶を啜り始めた。
「俺は橅だ。南の方から物売をしている。この村で仲間の商人と合流する予定でね。お邪魔させてもらってるよ」
「樺だ。村外れに住んでいる」
橅は、女将を盗み見ると声を潜めて
「あんた、女将となにかあったのかい?嫌われているようだが?」
隠すことのない、まっすぐな言い方に思わず樺は笑ってしまった。
「元々、余所者でね。村じゃ白い目で見られるのさ。橅には悪いが、あまり俺といない方がいいと思うぞ」
「ほう、そうだったのか。なに旅をしていると、疎まれることもあるものさ、気にはしないよ」
その飄々とした態度に樺は好感を持った。
「村長の家宅は訪ねたか?」
「いや、先ごろ村に着いたばかりでね。どうやら、仲間より早く到着したらしい。」
「俺が言うのもなんだが、この村は活気があるとも言い難いぞ。それこそ街のほうが見入りも期待できる。こんな槐王国の国境近くまで来ることなどなかっただろうに」
不思議と言葉に毒が混じった。女将には聞こえてはいないようだ。
「冬を越した村はどこも入用だろう。持ちつ持たれつ助け合いだ。まぁ、掘り出し物があれば御の字だがね」
返された言葉に樺は自分を恥じた。
「失礼した。つまらぬことを言ってしまった。」
「気にするな。素直な言葉だ」
橅はまたニカっと悪戯な笑みを浮かべていた。
それからは幾分打ち解けて会話ができた。橅の話は商人らしく、脚色を交え、各地で見た風土や景色を鮮やかに語り聞かせた。樺もたどたどしくも芹の村の話をした。といっても、話せることは気候や山の田畑のことくらいだった。最も話したい話題はあったが、打ち解けたとはいえ、山の中で出会った狼の話をするのは躊躇われた。
代わりに今朝、矢車に聞いた奇妙な旅人の話を思い出した。
「そういえば昨日から村を訪れる者が多いようだ」
「この時期は皆、足が軽いからな。村じゃそんなに珍しいことなのかい?」
「俺も今朝、聞いた話だが、昨日の夕暮れ時に旅人がやってきたらしい。全身を布で覆った奇妙な姿の旅人だったらしい。今朝には村を発ったそうだ」
へぇ、と橅は相槌を打つと一瞬考える目つきをした。その表情を目敏く見た樺は続けて質問した。
「旅人とはまさか橅の仲間か?」
「まさか。ただ……その旅人の姿、聞いたことがあるような気がしただけだ」
それはどのような?樺が声に出し質問をしようとした時、店の中へ若い村人が入ってきた。
「聞いたか女将さん!昨日の旅人に続いて、村外れの“白樺”が村長の家に来たって……」
店の女将へ声をかけた若い男は、店の中にいた樺に驚き、言葉を切った。どうやら、村に長居しすぎたらしい。樺は表情を変えず、席を立ち上がった。
「ありがとう。楽しい語らいだった」
橅に一言声をかけ、店を出た。今度は自宅にたどり着くまで、一瞬も足を止めなかった。
(3)
日が傾くと辺りは急に冷え込んだ。庵に火を点し、鍋をかける。しばらくすると鍋から食欲をそそる香りと、湯気が立ち上ってきた。鹿の肉と山菜、そして少しばかりの米。質素でも春をきたことを喜ぶ宴には十分なものだった。
夕日が山の端に隠れる頃、女中から話を聞いた矢車が樺の家を訪ねてきた。梁の村から戻ったばかりの矢車は嬉しそうに庵を囲んだが、今朝と様子の違う樺に気づき、一言二言話すと問いかけるような目線を送ってきたことで、ようやく樺も話す決心をつけた。
「霊公に遇った」
その一言に矢車は細い目がわずかに見開いた。
「大きい狼の姿をしていた。黒い毛並みに白銀の尾を持った狼だ。在るだけで森の空気が変わってしまったようだった」
「この山で出遭ったのですか?」
「矢車が帰った後、鹿を狩ろうと山に出掛けた。鹿の足跡を辿ると老木の立つ林に出た。今まで行ったことがない場所だった。その林で霊公に遇った」
経緯を話すと、矢車はいくらか考える素振りを見せたが、
「……霊公とは山海に溢れる獣や人とは格が違います。公の字を持つとおり、山海に現れる霊的神秘であり、ときには眷属を引き連れ、山海の王とも神とも呼ばれます。本来なら深山幽谷に現われるようなものが、人里近くに現れるとは、とても考えにくいのですが」
首を振りながら樺を見やった。
しかし、樺は確信をもって狼が現れたときの様子を語ることができた。矢車は気遣う様子で話を聞いていた。
「その話、誰か他に話したのですか?」
確かめるように矢車が尋ねた。
「いや、誰にも話していない」
「それがいいでしょう。特に今は芹の村が殺気立っている」
「殺気立っている?」
「昨夜の旅人に加えて、村を出入りする人間が多いのです。今日も商人の一団がやってきたそうで、村人はありがたがっている反面、外から来た人間を警戒しているようでした。わずかな波紋ですら大波になりかねません」
「その商人の一団のことなら聞いている。今日、村に行ったときに橅という商人と話したよ。橅も村長の家に宿を借りたと思うが会わなかったか?」
「ええ、女中さんから樺殿の話を伺ってすぐにこちらに参りましたので」
鹿肉を煮込んだ鍋が出来上がり、しばし二人は無言で舌鼓を打った。飯を食べている最中、樺は霊公が現われた意味を考えていた。一杯目を食べ終えると再び矢車が口を開いた。
「これも村人の噂なのですが、昨日、村に現れた旅人は千王国の間者じゃないかって」
「そんな噂になっているのか?」
「どこでそんな話になったかは分かりませんが、その噂にしたがえば村長が間者と友人ということになってしまう。まず根も葉もない噂でしょう」
その話を聞くと、村での矢車や橅の風当たりが気になった。
「もしかして、商人たちも間者という話になっているのか?」
「そんな噂が広がるほど芹の村が殺気立っているということです」
幾分、矢車が声を落として
「樺殿も村を出歩かないほうがいい……言いにくいことですが、村が殺気立っている一因に樺殿も関係あるようで……」
まさか、とは思ったが飯屋ですれ違った村人の様子を考えると、その話にも信憑性があった。村人たちの警戒心は殊更増しているようだった。
「わかった、気をつけよう。……件の旅人だが、女中の話では村長の個人的な客で、妙なことだが、女中も顔を見ていないそうだ」
「そうなのですか?初耳です」
矢車も知らなかったらしい。村長が千王国の間者と繋がっている、根も葉もない噂が妙な現実感を持ち始めた気がした。一日が過ぎぬうちに、村の様子が一変している。霊公。商人たち。千王国の間者の噂。 そして、奇妙な旅人。
「全ては昨日の奇妙な旅人が現れてからのことのように感じる。霊公のことも、間者の噂も」
「間者の噂はともかく、霊公のことは考えすぎではないでしょうか?」
「俺は霊公が現れた意味を考えていた。目的あって現れたにしろ、気まぐれかに現れたにしろ、目の当たりにしたとき、まるで語りかけてきたように感じたのだ」
「あまりそのようなことは言わないほうが……」
「そうかも知れん。ただ頭の中に声が聞こえてくるようなことなど、そう何度もあることでは……」
「今、なんとおっしゃいました?」
矢車が身を乗り出し、問い詰めるように質問した。思わず樺は自分の失言を悟った。庵にかけた鍋は、相変わらず暢気に湯気を立てているが、場の空気が急に張り詰めた。
矢車が口を開いた。
「……頭の中の声と仰いましたか?」
「……いや、今のは」
「姿なき声は精霊です。精霊は精神の障りのことだ。一体いつから声が聞こえているのですか?」
「……一年ほど前からだ」
「それほど前から……」
矢車も表情から驚きを隠そうとしなかった。
「父が死んでしばらくしてからだった。声が聴こえる気がしたのは。心のどこかで父母の声と思っていたのかもしれない」
「精霊がいるのなら……」
矢車は幾分言い淀んだ。
「いえ、精霊の声には、二度と耳を傾けてはいけません。もし聞こえても、聞こえぬふりを貫いてください」
矢車はいつもの穏やかな物腰をどこかに忘れてきたようだ。矢車の気迫に押され樺は頷いていた。
「ともかく噂はすぐに治まるでしょう。霊公については……王都の鬼仕団の領分だ。我々ができることはありません」
矢車の言葉でこの日の話は終わった。矢車に泊まっていくことを勧めたが、矢車は丁重に断り、夜の山道を降りていった。
火が消えた家はすぐに冷えだした。精神の障り。床に就いた樺は矢車の言葉を思い出しながら睡魔に身を投じた。
(4)
白い大地に立っていた。すると、立っていた大地にヒビが入り、裂け目から水が溢れてきた。すぐに水は踝を濡らし、脛、膝、太腿と水位をあげた。もがいても間に合わず水に沈んでしまう。大地はいつの間にか遥か下方で、闇の中に没してしまった。光る水面もあまりに遠い。
不思議と息苦しさは感じなかった。そのまま青い世界に身を沈めていた。しかし、それは水の中ではなかった。見上げていたのは、澄み切った空の青だった。草の匂いに身を起こした。気づけば森の中に拓かれた草地にいた。草地の先には老木が立ち、降り注ぐ日の光を受け、仄かに輝いて見えた。
視線を感じた。森の茂みから、悠然とこちらに向かってくる狼の目が見えた。煌々と輝き、智と威厳を秘めた双眸。狼は自分の数歩先で足を止める。表情はわからないが、まるで語りかけてくるように感じた。
「精霊の声が聞こえるか?」
そこで夢から覚めた。
夜明け前に樺は目が覚めた。しばらく眠ろうと苦闘したが、結局眠れず、空が白むころ起きだした。今朝は随分冷え込んだ。表戸を開けると、外気が肌を撫で身震いをした。空を見上げると雲はなく、東の空から間もなく太陽が姿を見せようとしていた。
樺は家の裏手に回った。家の裏手には父母の墓がある。母の墓標代わりにと植えた苗木は、両親の墓標代わりとなっている。数年で随分と大きくなった木の前で、樺は手を合わせた。思えば父が死んでから、改まって墓前に立つのは初めてだった。
樺は心の内を語りだした。
「私もようやく立ち直る決心が出来ました。昨夜決めたことがあります。姿なき声とは決別すると。私がこの一年、森の中で聞いた声とは、精神の障りだと矢車に告げられました。心のどこかで、二人の声を聞きたいと思っていたのだと思います。私は薄情者でしょうか?二人のことを忘れようというのですから」
樺は合掌をやめ、楽な姿勢をとった。寂しさが胸をよぎった。
「今朝、夢を見ました。狼の姿をした霊公に出会う夢です。そして、現実にも霊公と遇いました。……遇った夢を見たのかもしれません。それ程、私の頭はどうかしてしまったのだと思います。あの老木の立つ草地には二度と行けなかったのですから」
樺は墓前に最後の言葉をかけ立ち上がろうとした。
樺……。
思わず動きを止めた。
樺……。
か弱いが、先ほどよりも強く声が聞こえた。周囲に人はいない。いるのは樺のみ。姿なき声は三度頭の中に響いた。
樺はひどく混乱した。幻の声との決別を誓った直後に、声を聞くことになるとは思っていなかった。さらに樺を混乱させたのが、声が聞こえた場所が家の周囲であったことだった。
今までも声が聞こえることはあった。しかし、すべて森の中で過ごしているときのみだったのだ。自分の家の周囲で声を聞くことはなかった。
樺は墓標の木を見つめた。
間違いなく声は自分が生み出したものだと確信した。墓標に誓っておいて、まだ両親の影を追うのか?
矢車の言葉を思い出す。声が聞こえても聞こえぬふりをしてください。心は決まっていた。決別の覚悟を誓ったのだから。
墓標に背を向け歩き出す。樺……!声が強く樺を引きとめようとした。
声を無視して樺は足を動かし続けた。墓標には振り向きもせずに。
樺……行ってはいけない。
名前以外の言葉をはじめて聞いた驚きを隠し、樺は歩き続けた。幻の声は尚も引きとめようとしているのだと強く感じる。幻の声は消え入る前にはっきりと告げてきた。
行っては……命を落とすことになる。
そして、声は余韻も残さずに消え去った。空を仰ぎ、瞼を強く閉じた。涙は堪える。代わりに大きく息を吐いた。東の空に日が姿を見せ、強く閉じた瞼の裏を白い光が焼いた。
ひどい疲労感を感じつつも、瞼を開き、家に入ろうと表戸に手を伸ばした。
目の端に影が見えた。
逆光の中、家へ続く道に誰か立っている。尋ねてくる人物は限られている。しかし、会ったことのある、どの人物とも違った。
その姿に肌が粟立った。頭頂から首、肩にまで布を巻き、手は袖口の大きい服に隠れている。腰から脚にゆったりとした布を何枚も重ね、覆い隠している。髪も肌も一切見せない奇妙な出で立ち。
噂に聞いたとおりの姿。芹の村を訪れた奇妙な旅人。その旅人が今、目の前にいる。
「聞きたいことがある」
低い男の声だ。旅人の声は静かだが力強さを感じさせた。よく見ると目にあたる部分の布に僅かな隙間が見られた。しかし、目も肌も覗き見ることはできなかった。
「精霊の声を聞いたことはあるか?」
度重なる異常な状況に樺は沈黙するしかなかった。