表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄の通知を書いていた王宮書記ですが、百通目の宛名が私でしたので、原本を読み上げます  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/20

銀の鐘

筆写室の扉が開いた。


春の日差しを背に、アルバート殿下が立っていた。紺青の外套に金糸の肩章。祝宴で見たときと同じ、誰もが安心する微笑みを浮かべている。


王族が北塔の筆写室へ直に来るなど、六年の婚約中に一度もなかった。


ミーナが慌てて立ち上がり、椅子を倒した。周囲の書記たちも筆を置き、頭を下げる。私は机の上の第百号から手を離さなかった。


「リディア。もう、見たのだね」


声まで優しいことが、かえって残酷だった。


「はい。いま、私の不貞による婚約解消を清書しておりました」


書記たちの間に、小さなざわめきが走る。殿下は視線だけで彼らを制し、私の机の前まで歩いた。


「二人だけで話せないか」


「公示原本を扱っておりますので、勤務中に席を外せません」


「相変わらず真面目だ。それが君の美点だと思っていた」


思っていた。過去形を選ぶのが、ずいぶん早い。


殿下はため息をつき、声音を落とした。


「君を傷つけたいわけではない。王家には事情がある。私の結婚は、私一人の感情では決められないのだ」


「その事情によって、私は会ったことのない侍医見習いと密会したことになるのですか」


「公示には、解消に足る理由が要る。君に実害が及ばぬよう、私が補償する。公示に異議を唱えず領地へ戻るなら、エルンスト家には年金を支給し、君にも不自由をさせない」


不義の女として故郷へ帰り、金を受け取り、静かに生きろという。


三日前に私の髪へ触れた指が、今日も手袋の中で美しく整っている。あれは恋人の指ではなかったのだ。値踏みをする人の指だった。


「私が会ったという侍医見習いの氏名をお教えください」


殿下の微笑が薄くなる。


「名前など重要ではない」


「人の名誉を奪う罪の相手が、重要ではないのですか」


「リディア」


「また、この原本に押された白百合印は、殿下の登録印と形が違います。第三の花弁に欠損がございます」


殿下の目が、一瞬だけ机へ落ちた。


それだけで十分だった。


印の傷を知らない人なら、まず驚く。問い返す。彼は違った。見つかったものの所在を確認するような目をした。


「動揺して、見間違えているのだろう。原本をこちらへ渡しなさい。法務府で調べさせる」


「誓約書庫に納められた原本は、照合手続なしに持ち出せません」


「申請人である私が命じている」


「申請人だからこそ、お渡しできません」


空気が凍った。


殿下の背後に控えていた侍従が、一歩出る。ミーナが私の隣で息を呑んだ。私は机の脇に吊るされた細い銀の鐘へ手を伸ばす。


それは、書庫創設時からある規則のための鐘だった。原本に改竄または偽造の疑いを見つけた書記は、申請人の身分にかかわらず鐘を鳴らし、原本を即時保全する。規則書で読んだだけで、鳴ったところを聞いたことはない。


「やめろ、リディア」


殿下の声から、初めて優しさが消えた。


「君は婚約を捨てられた腹いせに、王太子へ偽造の疑いをかけた女として扱われることになるぞ」


「私は婚約者として申し立てるのではありません」


書記たちの視線が私へ集まる。中には、疑いを浮かべた者もいたと思う。原本に触れたのが私であり、婚約を解消されたのも私なのは事実だ。殿下の一言で、発見者は容易に改竄者へ変わる。


私は、紙の上の女性たちも同じように変えられたのだと悟った。事実を確認される前に、公示の言葉で罪人にされる。一度貼られた疑いは、本人がどれほど否定しても、声の震えまで罪の証拠にされてしまう。


ならば私は、震えていても手を引かない。


鐘の舌を握る。指先が冷たかった。それでも、力は抜けなかった。


「誓約書庫筆頭書記として、第百号原本に偽造の疑いを発見しました。規定により、公開照合を請求いたします」


銀の鐘を引いた。


澄んだ音が、一度。二度。北塔の石壁を上り、廊下の向こうまで駆けていく。


殿下の顔が、初めて明確な怒りに歪んだ。


「取り消せ」


「鐘は取り消せません。記録と同じです」


ミーナが私の机の前へ、庇うように一歩出た。ほかの書記たちも、誰に命じられたわけでもなく、席を立って原本庫へ続く扉の前に並ぶ。王太子へ反抗するためではない。鐘が鳴った後の原本を守るのは、書庫で働く者全員の義務だった。


扉の外で、別の足音が止まった。


黒い監察官服をまとった男が、二人の衛士とともに室内へ入る。アルバート殿下より暗い髪、静かな灰色の瞳。祝宴で遠くから見たことだけがある、王弟エドガー殿下だった。


彼は兄へ礼をする前に、まず銀の鐘と、私の机を見た。


「鐘を聞いた。保全対象はどれだ、筆頭書記」


初めて、私を捨てられた婚約者ではなく、職務を持つ人間として呼ぶ声を聞いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ