銀の鐘
筆写室の扉が開いた。
春の日差しを背に、アルバート殿下が立っていた。紺青の外套に金糸の肩章。祝宴で見たときと同じ、誰もが安心する微笑みを浮かべている。
王族が北塔の筆写室へ直に来るなど、六年の婚約中に一度もなかった。
ミーナが慌てて立ち上がり、椅子を倒した。周囲の書記たちも筆を置き、頭を下げる。私は机の上の第百号から手を離さなかった。
「リディア。もう、見たのだね」
声まで優しいことが、かえって残酷だった。
「はい。いま、私の不貞による婚約解消を清書しておりました」
書記たちの間に、小さなざわめきが走る。殿下は視線だけで彼らを制し、私の机の前まで歩いた。
「二人だけで話せないか」
「公示原本を扱っておりますので、勤務中に席を外せません」
「相変わらず真面目だ。それが君の美点だと思っていた」
思っていた。過去形を選ぶのが、ずいぶん早い。
殿下はため息をつき、声音を落とした。
「君を傷つけたいわけではない。王家には事情がある。私の結婚は、私一人の感情では決められないのだ」
「その事情によって、私は会ったことのない侍医見習いと密会したことになるのですか」
「公示には、解消に足る理由が要る。君に実害が及ばぬよう、私が補償する。公示に異議を唱えず領地へ戻るなら、エルンスト家には年金を支給し、君にも不自由をさせない」
不義の女として故郷へ帰り、金を受け取り、静かに生きろという。
三日前に私の髪へ触れた指が、今日も手袋の中で美しく整っている。あれは恋人の指ではなかったのだ。値踏みをする人の指だった。
「私が会ったという侍医見習いの氏名をお教えください」
殿下の微笑が薄くなる。
「名前など重要ではない」
「人の名誉を奪う罪の相手が、重要ではないのですか」
「リディア」
「また、この原本に押された白百合印は、殿下の登録印と形が違います。第三の花弁に欠損がございます」
殿下の目が、一瞬だけ机へ落ちた。
それだけで十分だった。
印の傷を知らない人なら、まず驚く。問い返す。彼は違った。見つかったものの所在を確認するような目をした。
「動揺して、見間違えているのだろう。原本をこちらへ渡しなさい。法務府で調べさせる」
「誓約書庫に納められた原本は、照合手続なしに持ち出せません」
「申請人である私が命じている」
「申請人だからこそ、お渡しできません」
空気が凍った。
殿下の背後に控えていた侍従が、一歩出る。ミーナが私の隣で息を呑んだ。私は机の脇に吊るされた細い銀の鐘へ手を伸ばす。
それは、書庫創設時からある規則のための鐘だった。原本に改竄または偽造の疑いを見つけた書記は、申請人の身分にかかわらず鐘を鳴らし、原本を即時保全する。規則書で読んだだけで、鳴ったところを聞いたことはない。
「やめろ、リディア」
殿下の声から、初めて優しさが消えた。
「君は婚約を捨てられた腹いせに、王太子へ偽造の疑いをかけた女として扱われることになるぞ」
「私は婚約者として申し立てるのではありません」
書記たちの視線が私へ集まる。中には、疑いを浮かべた者もいたと思う。原本に触れたのが私であり、婚約を解消されたのも私なのは事実だ。殿下の一言で、発見者は容易に改竄者へ変わる。
私は、紙の上の女性たちも同じように変えられたのだと悟った。事実を確認される前に、公示の言葉で罪人にされる。一度貼られた疑いは、本人がどれほど否定しても、声の震えまで罪の証拠にされてしまう。
ならば私は、震えていても手を引かない。
鐘の舌を握る。指先が冷たかった。それでも、力は抜けなかった。
「誓約書庫筆頭書記として、第百号原本に偽造の疑いを発見しました。規定により、公開照合を請求いたします」
銀の鐘を引いた。
澄んだ音が、一度。二度。北塔の石壁を上り、廊下の向こうまで駆けていく。
殿下の顔が、初めて明確な怒りに歪んだ。
「取り消せ」
「鐘は取り消せません。記録と同じです」
ミーナが私の机の前へ、庇うように一歩出た。ほかの書記たちも、誰に命じられたわけでもなく、席を立って原本庫へ続く扉の前に並ぶ。王太子へ反抗するためではない。鐘が鳴った後の原本を守るのは、書庫で働く者全員の義務だった。
扉の外で、別の足音が止まった。
黒い監察官服をまとった男が、二人の衛士とともに室内へ入る。アルバート殿下より暗い髪、静かな灰色の瞳。祝宴で遠くから見たことだけがある、王弟エドガー殿下だった。
彼は兄へ礼をする前に、まず銀の鐘と、私の机を見た。
「鐘を聞いた。保全対象はどれだ、筆頭書記」
初めて、私を捨てられた婚約者ではなく、職務を持つ人間として呼ぶ声を聞いた。




