百通目の宛名
「婚約解消公示、第百号。申請人、王太子アルバート殿下。被通知人、リディア・エルンスト伯爵令嬢」
そこまで書いたところで、私の羽根ペンは止まった。
王宮北塔、誓約書庫の筆写室は、春でも冷える。窓は文書の日焼けを防ぐために細く、代わりに天井から吊った白硝子の灯りが、十台の机を均一に照らしている。紙をめくる音、砂を振って墨を乾かす音、火鉢で銀墨を温める小さな音。それらが朝から夕刻まで続く、私の好きな部屋だった。
王家や貴族が交わす誓約は、言葉だけでは効力を持たない。婚約も、解消も、署名された原本がこの書庫に納められ、私たち書記が公示用の写しを作って初めて社会の事実になる。
だから、誤字は許されない。
筆頭書記になって二年、私は一度も固有名を誤記しなかった。人の生涯を変える文書を書くのだから、当たり前だと思っていた。
「リディア様、本日はずいぶん多いですね」
隣の机で、新米書記のミーナが束を抱え直した。十八歳の彼女は、まだ公示の文章を読むたびに顔へ気持ちが出る。
「春は婚約が増えるぶん、解消も増えます。まず受領番号と封蝋を照合して」
「はい。でも、第百号だなんて。年度が始まってまだ三月ですのに」
「数が多いからこそ、急がずに」
そう答え、私は九十九号の清書を乾燥棚へ移した。相手の浪費に耐えかねた伯爵子息からの解消申請だった。被通知人の令嬢が本当に宝石を買い漁ったのか、私には分からない。原本には双方の署名と仲裁人の認可があり、書記の役目は、それを正確に世へ知らせることだ。
そう自分に言い聞かせてきた。
私がこの書庫を志したのは、父の紙工房で育ったからだった。
幼い頃の私は、裁断で余った紙片を集めては文字の真似事をした。父は、紙はただ白いのではなく、載せられた言葉を何十年も背負うのだと教えた。祝いの招待状も、税の督促状も、和解の契約書も、紙の側から選ぶことはできない。だから字を書く者が慎重でなくてはいけない、と。
学院を卒業し、書庫への採用が決まったとき、周囲は伯爵令嬢が事務官になる必要はないと笑った。そのときただ一人、アルバート殿下だけが言ったのだ。
「君が守りたいものを、私の婚約者だからと諦めなくてよい」
私は、その言葉で殿下を愛したのかもしれない。
昨年の冬、婚約解消公示を受け取った娘が、書庫の階下で泣いていたことがある。彼女は私の袖を掴み、「私はそんなことをしていません」と言った。私は、異議申立ては法務院へ、と規則を教え、勤務へ戻った。三日後、公示は掲示板に貼られた。
正確な字で書いたことを、私は誇ってよいのだろうか。
その問いは胸の隅で消えずにいたが、答えを探す余裕はないふりをしてきた。書庫には毎日、新しい事実が運び込まれる。私が立ち止まれば、登録も公示も滞る。制度が認めた原本なら、個人の疑問で止めるほうが危険なのだと、何度も自分へ言った。
机の引き出しには、仕事を終えた後に渡すつもりの婚礼招待者一覧が入っていた。アルバート殿下は、多忙だから招待状の文面は君に任せると言った。任されたことが嬉しくて、私は書庫の昼休みにまで案を整えていた。
公の文書も、私自身の祝いの文書も、今日は同じ手で書くはずだった。
それでも私は、浮き立つ心を机の内側へしまった。幸福な日ほど誤記をしやすいと、後輩へ教えているのは私なのだから。
火鉢へ新しい炭を足し、ペン先を拭った。今日も、届いた事実を正しく世へ渡す。ただそれだけの、いつもと同じ午後になると信じていた。
「次の原本です」
ミーナが、白百合の封蝋が押された薄い箱を差し出した。王族が申請人または仲裁人となる案件には、紙を折らず箱に収める決まりがある。
封を受領簿と照らし、私は小刀で銀糸を切った。
上質な雪白紙が一枚。下部には王太子の署名、王家の印璽、法務受付印。欠けているものはないように見えた。
私はいつもどおり、掲示用紙の上に日付と番号を書いた。
申請人、王太子アルバート殿下。
その名に、ほんの少し微笑みそうになる。アルバート殿下は私の婚約者だ。六年前、王立学院を卒業した春に婚約を結び、来月には式を挙げる。今朝、宮殿へ来る馬車の中でも、母から白薔薇の髪飾りについて相談を受けたばかりだった。
仕事中に私情を持ち込んではいけない。私は口元を引き締め、続く行を写す。
被通知人。
原本にある文字を追い、私は自分の名前を、一画ずつ公示用紙へ移した。
リディア・エルンスト伯爵令嬢。
筆先から銀墨が一滴、ぽたりと落ちた。
私の字で、私の婚約が終わろうとしていた。




