俺のせんせいへ
午後の光が、教室のガラス窓にゆっくりと滲み、まるで時間そのものが溶け込んでいくようだった。ホワイトボードには誰の筆跡もなく、埃を帯びた空気が静かに漂っている。並んだ椅子たちは無言のまま、午後の眠気に沈んでいた。
「七瀬圭人くんか?」
突然の声に顔を上げる。教室の入り口に、黒いスーツを着た男が立っていた。教師でも、保護者でもないその風貌はこの空間にはあまりにも異質だった。だが、その顔立ちにはなぜか既視感があった。知らないはずなのに、胸の奥をなぞるような感覚が抜けない。
「……関係者以外、立ち入り禁止です」
「まあまあ、固いこと言うなって。安心しろ、君に用があって来たんだよ」
男は構うことなく教室に入り込み、教師用の席に腰かけた。動きに迷いはなく、まるでここが自分の居場所であるかのようだった。
「俺はセイジ。お前の未来を変えに来た」
脳が冗談だと処理しようとしても、圭人の心は笑うことができなかった。男の瞳には一片の嘘もなく、ただまっすぐに真実だけを湛えていたからだ。
「信じるかどうかは任せる。でもな、圭人、お前は将来、高校教師になる」
「……教師?」
「そうだ。そして、そのときお前は俺の担任になる。——俺の命を救う、はずだった。その未来は選ばれなかった。だから、俺が来た。ちゃんと“せんせい”になってもらうために」
セイジは懐から小さな音楽プレイヤーを取り出す。再生ボタンを押すと、やわらかな昭和歌謡のイントロが教室に流れた。
「お前が文化祭で流した曲さ。誰よりも、俺の記憶に残ってる」
チークとポマードの混じったような穏やかな香りが、彼の存在とともに漂った。ありえないはずの未来の記憶。だがその情景はあまりに鮮明で、教室の床にすら、その時代の重みが滲んでいるかのようだった。
「未来ってのは、決して固定された脚本なんかじゃない。選び直すことだってできる。ただし、そのためには——向き合わなきゃならない」
「誰と?」
「お前自身だよ。そして……俺とな」
名を呼ばれた瞬間、圭人の脳裏に鮮やかな記憶が蘇った。剥がれそうな傘を背負って、駅のホームで小さく震えていた少年。顔には傷。腕には包帯。誰も気づかないふりをして通り過ぎた日。圭人もまた、視線を逸らして逃げた。
「……まさか、お前、あのときの——」
「ああ、やっと思い出したか」
セイジはふっと笑った。あの日、誰にも救われなかった少年。ただひとつ、未来の先生というぼんやりとした希望だけを胸に抱いて生き延びた。だが、教師は現れなかった。
「俺は結局、先生にはなれなかった。だけど、お前ならなれる。なってほしい。あの日、あの教室で……お前だけは俺を見てたから」
言葉の余韻が教室に深く沈む。圭人は机の上のペンを握りしめた。教師——そんな未来は夢の遥か彼方にしか置いてこなかった。だが、この出会いが偶然でなく、選択された必然なら。
放課後のチャイムが鳴いた。
次の瞬間、セイジの姿は影も形もなくなっていた。まるで最初から、そこにいなかったかのように。それでも、ホワイトボードの端には小さな文字が残されていた。
〈俺のせんせいへ——また、会いにくるよ〉
その日を境に、圭人の歩みは変わった。誰も知らないほど熱心に勉強し、迷いなく教育学部の門をくぐった。そして、数年後——母校の教壇に立っていた。
ある朝。教室に入ると、窓際の席にひとりの少年が座っていた。
細い腕。痣の浮いた顔。声をかける前から、胸がざわめいた。
「名前を、聞いてもいいか」
少年は躊躇いがちに答えた。
「……セイジっていいます」
ああ、やはり——。圭人は穏やかに微笑んだ。
今度こそ、守る。今度こそ、未来を選び直す。その日から、教師・七瀬圭人の新しい物語が始まったのだ。
やがて遠い未来、その少年は語るだろう。
「俺のせんせいは、俺を救うために未来から来たんだ」




